「髪洗ふ」攷
橋本 直
角川の俳句歳時記の第五版が出たので、「髪洗ふ」再び。迷走しています。— 三島ゆかり (@yukari3434) 2018年6月6日
という三島ゆかりさんのツイートに触発されて、この季語についてちょっと調べて、考えてみることにした〔注1〕。
まず、角川歳時記の初版の説明文「夏は婦人は汗と埃で、頭髪から不快な臭氣を發するので、たびたび洗はなければならない」は、どうも記号の表現と意味内容がずれているような印象を受けるのだが、そもそもこの典拠は、なんだったのだろう。「髪洗ふ」の歳時記初出について正確なことは未詳だが、「図説俳句大歳時記 夏」(角川書店。昭和48年)の「考証」で楠本憲吉が初出云々には触れずに掲載されていることのみを書いている二書あたりがもっとも初期なのであろう。一つは、「洗ひ髪」を載せている「新撰袖珍俳句季寄せ」(上川井梨葉。俳書堂。大正3年初版。本稿では昭和9年の増訂10版で確認している。なお、梨葉は籾山梓月の実弟。)〔注2〕で、こちらは解説も例句もない。もう一つは、「髪洗ふ」を載せている①「詳解例句纂集歳時記」(今井柏浦。修省堂。大正15年初版。昭和二年の第5版で確認。)〔注3〕で、こちらは「婦女、頭髪を洗ふこと四時選ばざるも、夏は汗のために臭氣を放つを恐れて、殊に洗ふこと多し。」という解説と、例句「洗ひ髪くゝりて細き面輪かな」(玉兎)がある。この〈髪が臭くなるから洗う〉という無粋で合理主義的な解説は、歳時記のものとしてはいかがなものかと思うのだが、これは要はひどく男目線かつ辞書風のもの言いの文脈なわけである。そして、以後に続く歳時記群もこの解説を蹈襲してゆくことになる。
・②「俳諧歳時記 夏」(改造社 昭和8年初版。季題解説と例句の執筆は青木月斗。)
婦人が髪の毛を洗ふこと。夏期は殊に汗のため、頭髪に臭氣を發するため、髪を洗ふ事多し。
干物のかわくに閒あり髪洗ふ ひろし(ホトヽギス)
・③虚子編「改訂新歳時記」三省堂 (初版は昭和9年。昭和15年改訂。16年11月の改訂30版より引用)
婦人は夏期は汗のために髪に臭氣を發し易いのでこれを洗ふことが多い。洗ひ髪。
洗髪巻いてかぼそき女かな 葭女
筆者は虚子はあまりにも多数の季語を収録した改造社の歳時記に不満があったはずだと推測しているのだが〔注4〕、この解説文は虚子よ、おまえもか、という印象をもってしまう。そして冒頭の角川歳時記の初版から3版までの解説文も、この流れに乗ったものであることは論を待たない。そろいもそろって女性は夏髪が臭くなるから洗うことが多い、という文脈なのである。もちろん、男が臭くない訳がない。歴代の歳時記において、男たちはその臭気を透明な記号と化し、女性たちを眼差しているのである。これに対し、同時代の宮田戊子は、「昭和大成新修歳時記」(大文館。昭和8年)「詳解歳時記」(大文館。昭和17年)ともにこの季語を立項していない。やや下って、秋桜子編「新編歳時記」(昭和26年)にも立項はない。理由は不明だが、彼らの趣味には合わなかったのかもしれない。この季語のもつ風情に踏み込んだ解説文がついてくるのは、さらに下った④「俳句歳時記 夏の部」(富安風生編。平凡社。昭和34年。)である。引用は略すが例句が10句ある。
夏は汗のため髪が汚れやすいので、婦人は髪を洗うことが多い。洗ってまだ乾かず、ゆたかな垂れた「洗い髪」は粋なものだが、短い髪型の多くなったこのごろではもうだんだん見られなくなる風俗の一つである。
ここまでの流れを見ていれば、明らかにここでは「臭」という用字を避け、「粋」を主たる風情として説明しようとするポジティヴな意図が感じられよう。そして、それでもこの解説には、なお男性中心のまなざしを見ることもできるだろう。ところで、この点で言えば、先に触れた⑤「図説大歳時記」(同前)の鈴木棠三による解説は比較的ニュートラルなものと言える。
夏季、汗臭くなりがちな髪を洗うこと。土地によっては、髪を洗うのがたなばたの日の特定の行事となっている例がある。たなばたは水に縁のある日で、井戸替えをこの日にするのもそのいわれによるが、東北地方では、女が必ず髪を洗う日としていた。また近畿地方には、人畜が水浴する日とする習俗もある。
ところで、そもそも日本人が頻繁に髪を洗い出したのは高度成長期以降のことだ。Web上にはこういうまとめ
https://togetter.com/li/1224540
なんかもあって、まんまと企業戦略にのせられているという声なんかもあるけれども、話はそう簡単でもないだろう。先にあげた歳時記群の記述を素直に受け取るならば、夏の女性の髪は臭うという男のまなざしが常にそこにあり続けているのだから。それでも、ここにあげられた広告によれば、女性も昭和一ケタのころは月に二回もシャンプー(せっけん)では髪を洗っていなかったことがわかる。これは、先に引用した歳時記①~③の時代に相当する。そして、歳時記④、⑤の時代に相当する前の東京オリンピックの頃ですら、五日に一回を売り手がおすすめしている程度だったこともわかる。そしてこのようなことを前提に、「髪洗う」という季語の説明をみなおすと、ちょっと風景がかわってはこないだろうか。今日の常識からすれば、昭和初期の女性たちは驚くほど髪を洗ってはいないのである。言い方を変えれば、私たちは現在の常識でものを見すぎてはいないだろうか。そもそも、この時代の女性たちはどこで、どのように、〈何回も〉髪を洗っていたというのだろう〔注5〕。あるいは、何度も髪を洗う女とは、何者のことであったのだろう。
思うに、かつてあまり洗髪がされていなかったのは、昔のシャンプーでは洗った後に脂がとれすぎて、きしきししたり、髪を傷めて不快だったからなんじゃないだろうか。80年代のことだったか、「キューティクル」とか「天使の輪」とかキャッチーなキーワードを使って髪が傷まないことを強調した商品のCMがあったと記憶する。強調するということは、その前はそうではなかったということなんだろう。洗った後の髪を乾かすのにも、今のようなハイパワーのドライヤーは普及していなかったから、冬はつらいだろう。そもそも、高度成長期前後の日本では、一般家庭でドライヤーをつかっただけでブレーカーがあがる程度の電気しか分配できなかった。電力供給の安定は、高度成長と平行して各地に原子力発電所ができて以降のことになるだろう。そして水資源の平均化と上下水道の整備も必要になる。もちろん水は自然のものであり、一般に、日本は水資源が豊かなので「湯水のように使う」という俚諺が生まれたとはいうけれども、細かく見てゆけば水は偏在している資源である。例えば、瀬戸内式気候かつ水源の貧困な地域で育った私の経験では、もっとも髪を洗いたい夏こそもっとも水が不足するのであり、ダムができるまではしょっちゅう断水していたし、一番ひどいときは、生活排水も流れ込んでくる川の下流で水をくみ上げ、無理矢理塩素で浄水して使用していたことさえあった。飲料水に事欠くのに、毎日シャンプーなんてとんでもないことだったろう。さらにいえば、髪を毎日のように快適に洗うためには、シャワー施設があることも重要になる。いまや日本のお風呂には浴槽とシャワー施設が必須だと思うけれども、世界標準で考えればこれは決して一般的なことではない。そして昔ながらの日本の風呂は浴槽重視であり、シャワーはなかった。たしかユニットバスは前の東京オリンピックの宿を急いで建てるために発明されたものと記憶するが、やがてその浴槽とシャワーの〈ユニット〉化は各家庭のシャワーの普及にもつながることとなったのではないか。毎日快適にシャンプーをする、ということのためには、品質のよいシャンプーだけではなく、安定した電気と水の供給とシャワー施設がなければならない。逆に言えば、これらのものがそろったとき、毎日シャンプーすることは当然の慣行となり、しないことは許されないような〈空気〉が醸成され、やがてそのことが人々を抑圧しはじめる。言い方を変えれば、人間のありようを変容させてしまうのだろう。
さて、これまで見てきた内容を踏まえて、新版の⑥「角川俳句大歳時記 夏」(角川学芸出版。2006年)の藤本美和子による解説を読むと、なかなか含蓄に富む。
七夕行事との関連を指摘する見方もあるが、そうでなくても夏は汗のために髪が汚れやすく、頻繁に洗うことが必要である。暑さゆえ、洗髪後の清涼感もひとしおである。髪を洗うのは女性だけに限らないが、句に詠まれているのは女性が多く、「洗い髪」の風情は女性だけのもの。
夏の髪は「頻繁に洗うことが必要」なことが当たり前になったことと、この季語について語られてきた意味内容が微妙にずれている。そして、この「洗い髪」の風情が「女性だけのもの」なのは、何に由来することなのかも、歳時記群の中で閉じてしまった記号とその意味内容の受け渡しが、今日まで何かをずらし続けているようにも見えなくもない。
注1:四版までの例句も含めた情報はこちらの記事を参照
三島ゆかり「角川歳時記のあゆみ」(ウラハイ2008年7月3日の記事)
http://hw02.blogspot.com/2008/06/blog-post.html
注2:本稿とは直接関係ないが、俳書堂周辺の事情はこちらの記事が参考になる。
藤田加奈子「昭和8年師走の東京の空の下――渋谷大和田町の「いとう旅館」と「いとう句会」のこと・『俳諧雑誌』から『春泥』への歳月【前篇】」
http://d.hatena.ne.jp/foujita/20151031/p1
注3:今井柏浦の活動については以下の拙稿を参照。
今井柏浦ノート―『明治一万句』を中心に―(「鬼」23号09年3月)
http://haiku-souken.la.coocan.jp/report&essay/oni23%20hakuo.htm
注4:拙稿「近代俳句の周縁 1〈豊かな時代〉の網羅主義 昭和八年刊改造社『俳諧歳時記』」
(週刊俳句2007年5月20日号)参照。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/05/blog-post_8742.html
注5:例えば、リクシルのHPによれば、「家庭で内風呂が一般化したのは第二次世界大戦後の高度成長期を迎えた頃から」である。
http://www.lixil.com/jp/stories/stories_08/
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