【週俳6月の俳句を読む】
少しの詩
柳本々々
俳句はどうして〈少し〉にびんかんなのかなあとときどき思う。
そう思うようになったのは、上田信治さんの句集『リボン』をずっと読んでいたときで、どうしてこんなに俳句は、〈少しのちがい〉に敏感なんだろう、とかんがえた。俳句には、少しの思想があるんじゃないかと。
電線にあるくるくるとした部分 上田信治
電線にある「くるくるとした」少し。この「少し」に俳句は眼をむける(たぶん電線全部がくるくるとしていたらこれは俳句にならない。川柳になってしまうかもしれない)。
「少しの詩」があるのだとしたら、それは、俳句だ。
月涼し切符と切手すこし違ふ 小山玄黙
切符と切手はすこし違う。その「すこし」に語り手はきづいた。「すこし」だから、似ているところもある、ぜんぜんちがうところもある。この、すこしの詩学。
死の話少しだけして冷素麺 浅川芳直
死の話をたくさんはしない。「少しだけ」する。ここにも少しの詩=死がある。死を、ぜんぶとしてうけとらない。うけわたさない。すこし、だけ。
夏の星映画の半券を呉るる 佐々木紺
やっぱりわたしがもらったのは「半券」という少しだ。この世界に「少し」というイベントが起きたときは、それは、俳句どき、なのか。俳句のチャンスなのか。少し、は。もしわたしが俳句を語ろうとするなら、あなたが呉れるものは映画の半券でなければならない。
この俳句の「少しの詩」に対して、川柳は「ぜんぶの詩」ということもできるかもしれない。おそれずかんがえてみよう。たとえば、
なにもない部屋に卵を置いてくる 樋口由紀子
(「卵」『ジャム・セッション』12号、2018年1月)
二人乗りの舟ってふつうにこわいね 八上桐子
(『川柳ねじまき』4号)
「なにもない部屋」や「二人乗りの舟」という〈ぜんたい〉としての〈ぜんぶ〉を考えようとする発想が現代川柳にはある。「なにもない部屋」をわたしはどうするか、「二人乗りの舟」に対してわたしはどうおもうか。現代川柳は世界のそこここにある〈ちいさなぜんぶ〉をひろいあげようとする。
これはたとえばこう考えてみるとわかりやすいかもしれない。俳句は、眼を特権化したものだから、眼が感受する〈すこし〉のちがいに敏感であり(いつもとちがうように見えるよ)、川柳は、心(無意識)を特権化したものだから、わたしを規定している〈ぜんぶ〉のちがいに敏感なのだと(いつもと違うように感じるよ)。
思いつきがすぎるだろうか。とってもあついからだろうか。夜だからだろうか。連休だからだろうか。ファミレスだからだろうか。孤独だからだろうか。
でも、少し、だよ、過剰になってはだめだよ、と声がする。わたしは上を向く。
どうしてこんなに孤独になっちゃったのか。
わたしは、すこしだ。
そういうわたしにとって、俳句は、「少し」の先生だと、おもう。
2018-07-22
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