2018-07-22

【週俳6月の俳句を読む】少しの詩 柳本々々

【週俳6月の俳句を読む】
少しの詩

柳本々々


俳句はどうして〈少し〉にびんかんなのかなあとときどき思う。

そう思うようになったのは、上田信治さんの句集『リボン』をずっと読んでいたときで、どうしてこんなに俳句は、〈少しのちがい〉に敏感なんだろう、とかんがえた。俳句には、少しの思想があるんじゃないかと。

  電線にあるくるくるとした部分  上田信治

電線にある「くるくるとした」少し。この「少し」に俳句は眼をむける(たぶん電線全部がくるくるとしていたらこれは俳句にならない。川柳になってしまうかもしれない)。

「少しの詩」があるのだとしたら、それは、俳句だ。

  月涼し切符と切手すこし違ふ   小山玄黙

切符と切手はすこし違う。その「すこし」に語り手はきづいた。「すこし」だから、似ているところもある、ぜんぜんちがうところもある。この、すこしの詩学。

  死の話少しだけして冷素麺  浅川芳直

死の話をたくさんはしない。「少しだけ」する。ここにも少しの詩=死がある。死を、ぜんぶとしてうけとらない。うけわたさない。すこし、だけ。

  夏の星映画の半券を呉るる  佐々木紺

やっぱりわたしがもらったのは「半券」という少しだ。この世界に「少し」というイベントが起きたときは、それは、俳句どき、なのか。俳句のチャンスなのか。少し、は。もしわたしが俳句を語ろうとするなら、あなたが呉れるものは映画の半券でなければならない。

この俳句の「少しの詩」に対して、川柳は「ぜんぶの詩」ということもできるかもしれない。おそれずかんがえてみよう。たとえば、

  なにもない部屋に卵を置いてくる  樋口由紀子
    (「卵」『ジャム・セッション』12号、2018年1月)

  二人乗りの舟ってふつうにこわいね  八上桐子
    (『川柳ねじまき』4号)

「なにもない部屋」や「二人乗りの舟」という〈ぜんたい〉としての〈ぜんぶ〉を考えようとする発想が現代川柳にはある。「なにもない部屋」をわたしはどうするか、「二人乗りの舟」に対してわたしはどうおもうか。現代川柳は世界のそこここにある〈ちいさなぜんぶ〉をひろいあげようとする。

これはたとえばこう考えてみるとわかりやすいかもしれない。俳句は、眼を特権化したものだから、眼が感受する〈すこし〉のちがいに敏感であり(いつもとちがうように見えるよ)、川柳は、心(無意識)を特権化したものだから、わたしを規定している〈ぜんぶ〉のちがいに敏感なのだと(いつもと違うように感じるよ)。

思いつきがすぎるだろうか。とってもあついからだろうか。夜だからだろうか。連休だからだろうか。ファミレスだからだろうか。孤独だからだろうか。

でも、少し、だよ、過剰になってはだめだよ、と声がする。わたしは上を向く。

どうしてこんなに孤独になっちゃったのか。

わたしは、すこしだ。

そういうわたしにとって、俳句は、「少し」の先生だと、おもう。



浅川芳直 捩花 10句 読む
佐々木紺 信号は青 10句 読む
小山玄黙 倫敦は雨後 10句 読む
丸田洋渡 濡らす 10句 読む
第583号 2018年624日 
八鍬爽風 そうふうはいく 10句 読む

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