2018-10-28

BLな俳句 第16回 関 悦史

BLな俳句 第16回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第151号より転載

青年なまめく乾草ぎつしり納め来て  能村登四郎『定本 枯野の沖』

農作業と無縁な生活をしていると滅多に使わず、また身辺で現物を見かける機会もあまりないのだが、「乾草」が夏の季語である。

登四郎のまなざしはここでも変わらず青年の身心に釘づけになっている。労働現場を詠んでいるはずなのだが、この色気は何なのか。

まず水田関係の泥くさい作業ではなく、古い洋画や絵本に出てきても何の違和感もない「乾草」であることがポイントである。とはいうもののその乾草が絵本のなかのような空想の世界にとどまっていたらリアリティのある句にはならない。乾草は乾いたまま「ぎつしり」と密集し、相応の重みをもって青年にのしかかるのである。別に乾草攻め、青年受けというカップリングの話ではない。そこまで暴走せずとも、乾草を納めて来たばかりの青年の身心は、重荷を下ろした瞬間、こころよい汗と解放感に満たされる。息も多少上がっているかもしれない。それが「青年なまめく」の、実質であるはずだが、他の俳人の誰がここにいきなり青年の身心の色香を見出すだろうか。

なお『枯野の沖』には似た趣向の句として〈おどろくほど若し二月の耕人は〉というのも収められている。青年の身体にまなざしが密着するかのような〈青年なまめく~〉と比べると、こちらは遠くから萌えの対象を発見した瞬間の句といえようか。

少年の死地や真葛も紅・むらさき  能村登四郎『定本 枯野の沖』

「田原坂 四句」と前書きのあるなかの一句。

田原坂(たばるざか)はいうまでもなく西南戦争最大の激戦地で、西郷隆盛はここを奪われた半年後に、城山で政府軍に包囲されて自刃した。西郷に付き従った若者も多く戦死し、民謡「田原坂」には「右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上ゆたかな美少年」の文句がある。つまり少年とはいえごっこ遊びの句ではなく、本当の「死地」なのである。田原坂公園には今も騎馬姿の美少年の銅像が立っている。

「真葛も紅・むらさき」というこの句のフレーズ、一般的には季語は修飾すると句がゆるむので、するべきでないものとされており、この部分も季語「葛」にあらかじめ含まれている情報に過ぎない花の色「紅・むらさき」を並べて水増ししてしまっただけと見えかねないのだが、これは単に花の色をいっているわけではない。真葛「も」なので、それ以外のものも「紅・むらさき」だといっている。無論それは、少年の惨死体である。登四郎の想像力と美意識はここで残酷美の方に傾くことは避け、「紅・むらさき」で血や臓腑を暗示しながら、それらを今現在の「真葛」に回収させている。

この句には時制がない。つまり過去の激戦を想っているとも、今まさに少年たちが死を賭して戦っているとも、文法上は定めがたく、ただ死地の「少年」と「紅・むらさき」の「真葛」が句のなかに並べ置かれている。この過去とも現在ともつかない、というよりも、そのどちらでもある場面のなかでの並置には、死んだ少年が真葛に転生したという神話的な想像力もひそんでいよう。やりようによってはごく陳腐で平板な想像の句に落ちかねないが、この句にはいわば、歴史的時間と神話的時間をつなぐ装置としての登四郎の身体が介在し、それを防いでいる。

裸で汲む肥後酒の名は「美少年」  能村登四郎『定本 枯野の沖』

こちらも「田原坂 四句」と前書きのあるなかの一句。

ちなみに全四句の構成は〈芒穂の稚きうるみや田原坂〉〈弾創の樹々も夏逝く暗緑に〉〈
少年の死地や真葛も紅・むらさき〉〈裸で汲む肥後酒の名は「美少年」〉の順となっている。

ふりかえってみると、じつは少年愛の句として一番鮮烈なのは、一句目の〈芒穂の稚きうるみや田原坂〉であるのかもしれない。「芒穂」の先端性とその「稚きうるみ」は少年の性器の隠喩にも見えてしまうが、それでいて清冽ではあり、下五の「田原坂」で稚き戦死者を想う句であることは、この一句だけからも想像はつくからである。

さてこの四句目〈裸で汲む肥後酒の名は「美少年」〉では、「美少年」はただの酒の名に変じ、さしあたり田原坂の若き惨死者たちのイメージとは切れている。この句にあるのは平穏な酒宴の景に過ぎない。

とはいうものの、なぜただの酒宴に「裸」で臨まなければならないのか。

ここを考えるとやはり一句を実際の情景に還元して事足れりとするわけにはいかなくなる。

テクスト論的に、隣接するものは関わりあうという法則を適用すれば、これは「美少年」の語が一句に書き込まれているから「裸」になったのだとしかいいようがない。「肥後」の地名がかろうじて土地褒めや、歴史想望といった文脈への紐帯をのばしているとはいえ、それもいわば言葉・名前のみの「美少年」に一句のなかで「裸」の語り手と対等たるべく受肉させるためと見ることができ、そうした手続きを経てはじめて、舌へ、喉へ流れ込む「美少年」は、なまなましい身体性を一句のなかで手に入れことができるのである。
 ちなみに薩摩をはじめとして、九州一帯はもともと稚児趣味の盛んだった土地柄であったようで、はるか後年の夢野久作の美少年趣味(「暗黒公使」や「犬神博士」にあらわだが)にもその一端は垣間見られる。もともと日本では特異なことではなかった同性愛が「異常」とされるようになったのは明治三十年代あたりかららしい。

その辺の話、たしか石原千秋『百年前の私たち―雑書から見る男と女』(講談社現代新書)で触れられていたと思うのだが、本が手元にない。興味のある向きはそちらをご一読ください。

露ちるや一言で足らふ男同志  能村登四郎『定本 枯野の沖』

この句の、多言を費やさなくてもわかりあえるという、むきだしのホモソーシャル賛歌は、それはそれとして批判もあるかもしれないのだが当面措く。

ホモソーシャルはそれ自体が男性同士の疑似同性愛的連帯関係であるにも関わらず、同性愛嫌悪(および女性嫌悪)を特徴とするという。

この句は「男同志」(これも通常は「同士」であろうが原文のままである)の連帯感をあらわすのになぜ「露ちるや」などという過剰に性的な上五が据えられるのかが目を引くところである。登四郎はホモソーシャルとマッチョな同性愛がほとんど見分けのつかない両義性のなかにあることを認識した上で、そこに秘められた欲望をあっさり上五「露ちるや」に露呈させているのである。これはホモソーシャルのなかでは軽侮され、排斥される危険なポジションなのかもしれないのだが。

いずれにせよ、似た句材を扱った高浜虚子の〈彼一語我一語秋深みかも〉の「秋深み」の枯れた脱我志向に比べると、「露ちるや」の生々しさは際立つ。それは「男同志」の連帯が成った瞬間の破顔一笑の隠喩でもあり、ひっくり返すと性交を完遂したという隠喩でもあるからだ。

しかしそれはべつにこの句の長所とはならない。季語が隠喩でついてしまう句は、ありていにいって大概ヘボ筋だからである。

にもかかわらず、この句に掬すべきところがなおあるのだとしたら、それは隠喩が、いま上げた両者のどちらにも収まっていないからだ。この「露ちるや」は、「一言で足らふ」という、最小限の言葉によるホモソーシャル的関係成立の瞬間を、あたかも射精に等しい快楽の場面として位置付けている。快楽と満足とは違う。「露」が全きままならば、それは感情的な満足でしかない。ところがこの句はそれを「ちる」という性的快楽に等しいものとして描いているのである。

実際のところ、応答が得られる満足というのは何にも代えがたいものではあるので、それが意中の男からのものだとすれば、それ自体が充分な快楽となりうるものかもしれないのだが。

潮焼にねむれず炎えて男の眼  能村登四郎『定本 枯野の沖』

「潮焼」が季語で、海辺での日焼けを指す。

『定本 枯野の沖』ではこの句の前後に海水浴の句が並んでいて、男への関心の句と思えばそうも思える句が多い。〈泳ぎつつ摑むや青き岬の端〉〈裸児にはじめての海・濤つばさ〉〈あたらしき水着の痒さ海まで駈く〉〈何か告げたき子の唇の泳ぎつく〉〈あきらかに泳ぎし黒瞳・黒睫毛〉〈背泳にしばらく水を忘れゐる〉〈夕潮に泳ぎし後もむつつりゐる〉と来て、その次がこの〈潮焼にねむれず炎えて男の眼〉となる。

そうした句の並びからすると外で海水浴中の景とも取れるが、一句単独で読んだらやはり印象としては夜、寝床に入ってからのことととる方が自然だろう。前回の〈シヤワー浴ぶ若き火照りの身をもがき〉と似た、総身の火照りに悶えている男の感情に踏み入る句である。

この句のなかで強烈なのは「男」の一語で、このために単なる知人や友人をわきから見ている句ではなく、ほとんど「雄」というのと同義の、性的身体の句となっている。その代わり、作中の語り手と「男」との関係は曖昧なものとなり、無人称のナレーター的な視点から男を見ている句のように見えてしまうのだが、その安定した距離を突き崩すのが「炎えて」「眼」の連結である。これは距離がゼロに近い。そうした至近距離で、なおかつ語り手の身体も「男」の脇に横たわっているものと想定すると、単なる友人程度の存在だったものが「潮焼」の火照りに突き動かされて「男」に変貌してしまうという、やや恐ろしい句となり、語り手も無事で済むとは思えなくなってくる。

必ずしも、無事では済みたくはないのではないかという気もする。

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