2018-10-07

師系、その先へ──爽波・裕明から受け継がれているもの 2018年9月9日(日)山口昭男さんの「読売文学賞」受賞を祝う会

師系、その先へ──爽波・裕明から受け継がれているもの
2018年9月9日(日)山口昭男さんの「読売文学賞」受賞を祝う会レポート

常原拓


「秋草」主宰の山口昭男さんが句集『木簡』で、第69回(2017年度)読売文学賞を受賞された。過去の受賞者を見ると、小説賞では三島由紀夫、大江健三郎、村上春樹、村上龍ら。詩歌俳句賞では、石田波郷、飯田龍太、長谷川櫂、小澤實ら。…これは、物凄い賞なのではないか。月例の句会で受賞のことをお聞きした時、恥ずかしながら、読売文学賞のことを私はよく知らなかった。(「読売」という名前に、何か凄そうな気配は感じていたが…。これは関西人の性か。)句会の帰りにスマホで検索し、出てくるビッグネームの数々に、何故か私がビビッてしまったのであった。

先日、大雨の降る日曜日、神戸の中華料理店「東天紅」にて山口さんの受賞を祝う会が行われた。はりまだいすけ氏はじめ6名の発起人の呼びかけに、多くの関西の俳人が集まった賑やかな会であった。とは言っても、句歴2年余りの私にとっては、名前は存じているが顔を拝見したことのない人ばかりである。座席表を片手に、「あっ、この人知っている!」とか「この方の俳句、読んだことあるわぁ。」などとミーハーな気分でお声を掛けさせていただいた。田中裕明のファンである私が特にうれしかったのは、対中いずみさん、森賀まりさんとお話しできたことである。(後日、対中さんからは句集などを恵送して頂き、大変感激した。)

お祝いの会では、「山口昭男さんの俳人像と句集『木簡』を語る」という企画が行われ、3名のスピーカーの方からのお話があった。


彌榮浩樹氏は、山口さんの『木簡』の句と、その師である波多野爽波の句で文体の似ているものを対比しながら、ホワイトボードに示された。

鳥の巣に鳥が入つてゆくところ     波多野爽波
氷柱より光のぬけていくところ     山口昭男

掛稲のすぐそこにある湯呑かな     波多野爽波
盆梅のその奥にある金庫かな      山口昭男

恥づかしきものげんげ田に捨ててあり  波多野爽波
むづかしきことをしてをり金亀子    山口昭男

文体は似ているが、質感というか気配が異なることに着目され、爽波が対象をそのまま写生しているのに対し、山口さんは写生したものを〈オブジェ〉として提示しているとし、それはマルセル・デュシャンが男性用小便器に「泉」というタイトルを付けてみせたことと同じであると指摘された。

確かに、山口さんの俳句を読んでいると、「だけじゃない」何かを感じる。というか、深読みに誘うような何かを感じるのである。彌榮氏から〈オブジェ〉という言葉をお聞きして、確かに対象を〈異化〉して捉えることで、山口さんの俳句をより深く楽しむことができると感じた。それと同時に、山口さんの俳句にあるリアルな手触り、それは、俳句の礎として「しっかりと対象を見る」ということが爽波から脈々と受け継がれているからであるということも再確認することができた。


中田剛氏は、『木簡』に出てくる女の句の中から、

舌打ちの女出てくる大文字
待つてゐる女が芒持つてゐる

という二句を挙げ、そこにグロテスクさを感じると独特の語り口で話された。「グロテスク」の語源は、イタリア語の“grotto”(「小さな祠」「洞窟」という意)であり、この感覚はリアリズムでありながら境涯性が薄いことに起因するのではないかと指摘された。そこで示されたのは、山口さんのもう一人の師である田中裕明の

浮寝鳥会社の車かへしけり     田中裕明

という句である。会社の車を返すという、サラリーマンの最後の意地というか、サラリーマンであるという境涯性に依拠した句に対して、山口さんの女の句は、男に対する女とか、そういう境涯性・脈絡がない。そこにざらっとした異物感があるのだと話された。

田中裕明と山口さんの俳句の違いについて話されていたのだが、私は二人の俳句に共通点を感じることが多くある。具体的に指摘するのは難しいが、まさに中田氏の仰られていた「ざらっとした異物感」である。それは、田中裕明のいう「詩情」に近い感覚なのかもしれない。何かわからないけど何かが残る、そこが堪らなく心地よいのである。山口さんから、「思い切った句を作ればいいんですよ。ただし、そこに詩があるかどうかが問題なわけで。」と言われたことがある。「詩情」・「詩」という具体的に言い表すのが難しい何かで二人の俳句は繋がれているのだろう。

山口さんは、爽波・裕明の名前をよく口にされる。「秋草」の季語句会や言葉句会にもよく爽波・裕明の句が挙げられる。お祝い会でも山口さんから「波多野爽波先生、田中裕明さんに少しでも恩返しができた。」という言葉があった。

結社に所属していない俳人や同人誌で鎬を削っている俳人もいるが、結社に所属して主宰のもとで俳句を学んでいる俳人もまた多くいる。先にも述べたが、私は句歴2年ほどの初心者であるが、主宰の選を受けることで主宰の俳句に学んでいる一人である。山口さんも、二人の師からたくさんのことを学んでこられたのだということが、彌榮・中田両氏のお話を伺ってから、改めて『木簡』を読み返してみて、よくわかった。言葉面だけではなく、骨肉となって俳句に滲み出てくる師系の色というか、影響の強さを感じずにはいられなかった。


川柳作家の樋口由紀子氏は、山口さんは物書きにしては普通の人であり、しっかりと物をよく見て作られた俳句も平明でわかりやすいが、何かが変であるとして、

何するでなく蠅叩もつてをり
月を待つみんな同じ顔をして
黄落よ立方体のクルトンよ


等の句を挙げられた。『木簡』の俳句に貫かれているのは、人を疑わない・あれこれ迷わない・自分を大きく見せようとしないという山口さんの人柄であり、「少年の薄暗さ」ではなく「少女の可愛らしさ」を感じるという。

普段の山口さんを知る私は、残念ながら山口さんから「少女の可愛らしさ」を感じたことは一度もない。しかし、結社誌『秋草』において、橋本小たかさんが山口さんのことを「無欲の変態。または愛敬」と評していたことを思い出した。何かを狙っておかしなことをするのではなく、真面目な人が真面目な顔をしたまま思いっきりずれたことをしているときほど、おかしいことはない。いたって真面目に蠅叩を持っていたり、黄落にクルトンを感じていたりする。そう、この感じ。少女的なのかどうかは置いておいて、確かに可愛らしさを感じるかもしれない。少女的・変態・愛敬など様々な言葉で語られるところに、山口昭男俳句の確固たる独創性があるのではなかろうか。

これから山口さんの俳句はどう進化していくのであろうか。また、私たち「秋草」に集うものはどのような俳句を残していくことができるのであろうか。波多野爽波・田中裕明・山口昭男、そして、その先について考えるよい機会となった。

【追記】
お祝いの会の日の午前中、「山口昭男先生お祝い句会」が開かれた。参加者は、黒岩徳将さんの呼びかけで集まった若手俳人の方たちと「秋草」のメンバーを含め総勢18名であった。約5時間で、持ち寄り句会(7句出句)、言葉句会(主宰から7つの言葉が提示され、その言葉を使った俳句を7句出句)、季語句会(主宰から7つの季語が提示され、その季語を使った俳句を7句出句)を行うという過酷な句会であった。(私は季語句会が始まる前に中座したのだが…。ちなみに「秋草」では年に数回、このような鍛錬会・稽古会がある。)普段の「秋草」の句会では見られない句もたくさん出され、大きな刺激を受けた。「俳人は俳句で勝負をしないと駄目なんですよ。」という山口さんらしい企画であった。

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