【週俳600号に寄せて】
正直意外
岸本尚毅
「週刊俳句」600号おめでとうございます。何かと活用させて頂いています。本稿では特に勉強になった記事に触れ、一言御礼を申し上げたいと思います。
それは2011年11月6日付の大野秋田氏による「助動詞「し」の完了の用法」です。
≫http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/11/blog-post.html
この記事については島田牙城氏のコメントに同感なのですが、読んでためになったということを私も申し上げたいと思います。
助動詞「き」の連体形の「し」については「過去」として使うべきものだと思っていました。芭蕉の「梅白し昨日ふや靏を盗まれし」の「し」は明らかに過去です。ところが同じく芭蕉の「衰ひや歯に喰ひ当てし海苔の砂」の「し」は、過去というより完了とも思えます。ようするに口語の「食い当てた」と同じなのです。芭蕉は近世ですから、私たちが学校で習ったより以前の古文の文法よりもっと「口語的」なのでしょうか。
口語では助動詞「た」が多用(酷使?)されています。そのことは藤井貞和氏の著書で読んだ記憶があります。また安藤宏氏の小説論(たしか岩波新書)では「た」が言文一致以後の近代小説で重要な役割を果たしたとの記述がありました。
子規「菖蒲提て鳴雪の翁来たまひし」「浅草の鐘の配りし夜風哉」や虚子「先生が瓜盗人でおはせしか」「コレラの家を出し人こちへ来りけり」の「し」は口語の「た」とほとんで同じです。その中にも、虚子の「草摘みし今日の野いたみ夜雨来る」の「し」のようなはっきりした過去が混ざっています。時代とともに「し」の過去性が希薄になって行ったのは話し言葉や言文一致における口語の「た」の影響なのでしょうか。などとモヤモヤしていたとき、頭の整理になったのが冒頭に触れた大野秋田氏の記事です。
大野氏の記事は「澤」2011年10月号からの転載だそうですが、痒いところに手が届くような説明でした。ようするに完了の「し」は鎌倉時代に現れ、近現代に至るまで多くの文学者が使って来たものであり、「大空に又わき出でし小鳥かな」(虚子)や「玉の如き小春日和を授かりし」(たかし)のような用法が誤用だというのが誤りだというのです。本居宣長も平安時代の美しく整った文法を尊重する立場から、そこから外れた「し」を批判したそうです。大野氏は、完了の「し」は何百年にわたって使われ、近世以降は多くの偉大なる文学者によって使われたので、俳人や歌人は堂々と使ってよいと言うのです。
完了の「し」は鎌倉時代からだそうですから、言文一致とは無関係です。ただし話し言葉の影響はあるかもしれません。無言で句を案じるときも頭の中で話し言葉の影響を受ける可能性はあります。一茶の「ふしぎ也生れた家でけさの春」は「也」が文語ですが、「た」は口語の「た」と同じです。「ふしぎ也生れし家でけさの春」でもよいのですが、そうなると助詞の「で」が気持ち悪い。一方、同じ一茶の「敷石や欲でかためし門の松」は「欲でかためた」でも行けそうです。「敷石や」の切れ字の「や」ですが、調子は文語調です。こんなことを実作者は頭の中で漠然と考えるものだと思います。
言うまでもなく作品にとって重要なのは、文法より表現です。もちろん文法の誤りが表現の美しさを損なうなら致命的です。その意味からは、表現を大切にするために文法に関する知識はしっかり持っていたいと思います。
「週刊俳句」にこのような文法の記事が載っていたのは正直意外でした。学者の論文を探さなければならないと思っていましたが、「週刊俳句」で実作者としての安心感は得られました。感謝申し上げます。
2018-10-21
【週俳600号に寄せて】正直意外 岸本尚毅
Posted by wh at 0:04
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