2018-11-11

BLな俳句 第17回 関悦史

BLな俳句 第17回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第152号より転載

ここ三回ほど能村登四郎ばかりが続いているのだが、これで終わりという気配が全然ない。この先もまだまだ果てしなく続くのだが、今回はその登四郎のBL句のなかでも最大の連作「西大寺会陽」を取り上げる。いわゆる裸まつりである。

西大寺(観音院)は岡山市の寺。そこのホームページに詳細が載っていて、それによるとまつりの起源は奈良時代にさかのぼる。実(じっ)忠(ちゅう)上人が創始した修正会(新年の大祈禱)が、永正7年(一五一〇年)忠阿(ちゅうあ)上人の時、参詣の信者に守護札を出したところ奪い合いにあったのが始まりなのだそうだ。もとは揉みあいのなかで体の自由を得るために服を脱いだだけのことが、のちに水垢離と結びつき、裸まつりとなったらしい。

「西大寺会陽」は十五句ほどの連作であり、登四郎がどこに興奮していたかが経時的にわかる実況中継的なつくりとなっている。褌、壮年を多く含む裸と、BL的には少々マイナーな萌えポイントが揃うが、BL食らわば褌までである。

裸詣りしばらくを沿ふ夜の河   『幻山水』

まつりは昼のうちから行われる。現在の日程では午後に子供たちの裸まつりがあり、宵から宝木の争奪戦に参加できない女性たちが太鼓を打ち鳴らす。だが目当ての裸があらわれる宝木投下は夜十時からである。「夜の河」の水気、しずけさ、量感が、これから盛り上がる裸詣りの色気や充溢への期待感を担う。

裸詣りひとり走りてみづみづし   『幻山水』

始まりは、秩序の破れとして不意に来る。目はおのずと走りだした一人の肉体に吸いつけられる。「みづみづし」さはひとつの身体だけではなく、直ちにまつり全体に波及する。

裸詣り食ひ込む褌(ふどし)あなましろ   『幻山水』

このあたりから登四郎の食い入るようなまなざしが浮上しはじめる。褌に対する「食ひ込む」と「あなましろ」である。「食ひ込む」は褌の形状、線形性を舐めるように目でたどり、絞められる皮膚感覚までも追体験しているようだ。下五の「あな」も趣き深い。「真白なる」などとあっさり流してしまってはいけないのである。古語の感動詞「あな」を用いた全てひらがな(ということは音数と一対一対応)の「あなましろ」は、まつわるまなざしのしつこさと同調して、それ自体皮膚に食い入ろうとしている。

裸詣り波立てて待つ禊(みそぎ)(いけ)   『幻山水』

一読して景のわかる句だが、よく見るとやや不思議な作りである。「波立てて」とあるから、すでに禊の一団が足を踏み入れてはいるらしいのだが、なお「待つ」と重ねて、この後本隊が来ることを予感させる時間的に錯綜気味な表現もさることながら、「待つ」主体が「禊池」自体になってしまっているように読めて、さらに波を立てられているのではなく、自主的に立てていると見える辺りがその原因である。登四郎その人が、まつりに見入っている間に、踏み荒らされ、波立つ池の歓喜に感情移入してしまっているのだ。

裸詣り濡れ身走れば湯気はしる   『幻山水』

次第にまつりは高潮してきた。禊を済ませて濡れた身体は、寒中に湯気を立てて走る。裸詣りは二月の行事である。参加者にとっては相当に厳しい冷たさとなるはずだが、その温度差から生じる湯気は、登四郎から見れば、男たちの裸を荘厳する後光のようなものだったのではないか。「走れば~はしる」のリフレインが「濡れ身」と「湯気」の不即不離の力強さに呼応している。

裸詣り陸続裸海嘯(つなみ)来る   『幻山水』

先ほどの「濡れ身」にもその気配は見られたが、まつりの盛り上がりは作者にもうつり、二つの語を圧着した造語を呼び寄せる。「裸海嘯」である。それも「陸続と」「来る」裸海嘯。逆からいえば、作者の感興はこうした表現の仕方からこそうかがい知ることができる。こうした句材は往々にして、言葉の上で力んでいるだけの句になってしまいがちなものだが、この句は「来る」の一語で登四郎が裸海嘯に身をあけわたし、ブランクをなしていることで、かえって裸の大群の充溢が伝わってくる。

裸詣り遂に濡れ身の遮二無二押し   『幻山水』

この「遮二無二押し」も一種の造語といえるだろう。本堂前の押し合いが「遂に」始まり、「濡れ身」(とはしかしこの場合、全身が性器と化したかのような言い方だ)が、視界の限りぶつかりあう。しかし「遂に」の事態を俯瞰する視線が、みずからはその肉弾戦の渦中からは遠ざけられていることを示している。これが登四郎の基本的な立ち位置である。

水かけてすぐ湯気となる裸押し   『幻山水』

句を順番に見ていくと、前の句の「裸詣り」と「遮二無二押し」がさらに圧着され、「裸押し」になる局面まで至ったとも見えるが、「裸押」はこれだけで西大寺の「会陽」の傍題として季語になっているらしい。

この句の「湯気」、熱気と興奮をあらわす単なる物理現象としてよりも、「若い人のエキスを…」などというときどき見かける妙な言い回しの「エキス」のように見つめられている気がしなくもない。

曳声と熱気にくもる裸押し   『幻山水』

「曳声」というのが辞書を引いても載っていないのだが、泉鏡花「貝の穴に河童の居る事」や三田村鳶魚「相撲の話」の用例を見ると、大魚を運んだり、相撲で相手を打ち倒したりしている場面でこの語が出てくるので、要するに力を揮う際に発する気合のようなものを指すらしい。

そうした力と裸のぶつかり合う声とも合わさり、先の句の「湯気」は視野一面を「くも」らせるまでに広がった。いや「湯気」から「熱気」への変化で汲みとるべきはそうした単なる量的拡大ではなくて、むしろ視覚にとどまっていた「湯気」が肌で感じられる触覚的な「熱気」にまで接近してきたということだろうか。

神木降下待つ裸男の梁にゐる   『幻山水』

神木降下一斉に伸びし手の林

神木目がけ裸落花す次から次

神木奪ひし刺青一瞬睥睨(へいげい)

神木争ふ裸雪崩(なだれ)の階を墜つ

裸押し高潮に翔つ簷の鳩

連作のクライマックスであり、いよいよ神木が投げられる。一句目、神木を待つ男のうち一人あるいは何人かは梁にのぼっている。これまで「裸」と群れで表現されてきた者たちが「裸男」と個別化されたのは、そうした少数者の立ち位置の変化に対応している。一瞬だが、個別の肉体への注視が復活したのである。待ち受ける肉体の緊張がそこに宿る。

二句目、ついに神木が投げられ、一斉に蠢く肉体はふたたび群として捉えられる。「一斉に伸びし手の林」とは裸の男たちを群として捉えると同時に、身体を断片化し「手」のみに縮減した見方だ。この句に限って、性的なまなざしを投げかけられるべきは、男たちの裸体よりもむしろ降ってくる「神木」のほうではないかと思える。男たちの手の林はさながら触手となって殺到するからである。神木が「総受け」の立場になっているのだ。

三句目は、ふたたび男たちの裸体のほうが関心の的となる。神木を目がけて集まる裸の男たちを「裸落花す次から次」と散る花に見立てた表現は、落ちていくゆえに花と見る回路が、情に走りすぎて概念的ということになりかねないのだが、それを「次から次」と重ねて押しきられるとここで改めて、裸の男たちの重量が即物的に感じられてくる。神木を目がけて殺到する動きのなかで、見ている側だけが酔っているような美化と、具体としての身体がめまぐるしく入れ替わっているのだ。

四句目、勝者の地位についたのは刺青の男だった。彼はその異形ならではの力感を誇示してあたりを睥睨するが、それも一瞬のことに過ぎない。投じられる神木は一本ではなく、混乱はまだ続くからだ。とはいうものの、手に入れた神木を奪われまいとして反射的に取ったのであろう、この役者が見得を切ったようなポーズは「一瞬」だからこそかえって強烈である。なお現在は西大寺ホームページによると「イレズミをした人、地下足袋、トビ足袋での参加は絶対禁止」とされており、イレズミをした人が宝木を取得しても福男にはなれず、宝木は没収されるという。

五句目、またも造語の「裸雪崩」があらわれ、群の力への魅了ぶりが示されるが、最後はやはり「階を墜つ」の目くるめく失墜となり、ことは終わっていく。六句目の、高潮をよそ目に簷を発つ鳩という視点の転換は、ことを終えた後の虚脱をすでに暗示しているようだ。

*

関悦史 春野


冬帝のツンのデレ初めたる日差し

春はすぐそこだけど性別が同じ

   カフカ 二句
オドラデクに迫られ抱かる春の父

「掟の門」即男の肛門(アナル)春疾風

君の亀頭ほど敏感に石鹸玉

水と温みて眼鏡の兄に見つかりぬ

俺を急に押し倒すバカを春野へ蹴る

脚のばすと友のふぐりや春ごたつ

夜の桜非在の少年たち絡む

落城のやうに僕たち落花の中

性差無く受け攻めありて蓮の花

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