【週俳10月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅦ
瀬戸正洋
竹岡一郎句集『けものの苗』(2018年10月/ふらんす堂)を読んでいる。集中、「バチあたり兄さん」は、「週刊俳句」第535号に発表した四十句を三十二句に書き直したものである。「あとがきに代えて―咒とは何か」のなかで、竹岡は、
なつかしいものは、いっだって惨たらしい。産土も人間も積み上がった惨たらしさを抱えて、だからこそ、その惨たらしさを焼き尽くし、なつかしさを遠く離れ、生き変わり死に変わりを超えて、立ちたい。
と書く。惨たらしさを知っているひとは立つことを願う。だが、それができないことは誰もがわかっていることなのだ。惨たらしさを抱えて生きていくしか方法はない。自分の方がすこしましなのかも知れないと思うことが唯一のなぐさめなのである。竹岡の作品は難しい。生きることは難しいことなので当然のことなのかも知れない。
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象も蝶も一頭分の涼新た なつはづき
象と蝶の存在が、この作品の面白さだと思う。大小に係わらず秋の涼しさは変わらない。当然、ひとであっても何も変わらない。だが、その感じ方は、それぞれに異なる。一頭分の涼新たとは惨たらしくても生きていかなくてはならない個性のことなのである。
賢治忌や更地になって空の青 なつはづき
宮沢賢治の詩を読んだときではない。童話を読んだときでもない。ひととの関係が拗れたときでもない。更地になったとき、家の家族の想い出は消えた。家を壊しているときの複雑な感情も消えた。何もかもが消え去り、唯一、残ったものは賢治忌の更地と空の青さだけだったのである。
風見えるまでの沈黙ほたる草 なつはづき
ほたる草がゆれているのを見ると風が吹いていることを感じる。だが、風そのものを見ることはできない。ほたる草は、はなしたくてもはなすことはできないのだ。ほたる草は饒舌になることはできない。永遠に沈黙を守らなくてはならないのである。
くすり指鵙がことさら鳴く夜の なつはづき
鵙のことを、英吉利では「屠殺人の鳥」、独逸では「絞め殺す天使」と呼ぶ。江戸時代のころ、鵙は凶鳥で鵙の鳴く夜は死人が出ると信じられていた。洋の東西を問わずあまりよい印象は持たれていないらしい。くすり指とは薬を塗るとき、紅を塗るときに使う指である。薬師如来が右の第四指を曲げていることに由来する名であるともいわれている。
夜に鳴く鵙の声を聞く。両のてのひらをひろげ、くすり指をじっくり見つめてみる。
少女期や夜の鯖雲ばかり見て なつはづき
鯖雲が好きだから見たわけではない。月が出ていたから見えたのである。少女期に特別な感情があるわけではない。鯖雲ばかり見て過ごしたのは偶然なのである。だから、考えるのである。だから、思い出さなければならない。どうして、そのときに鯖雲ばかり見て過ごしてきたのかを。少女期とは、はるかかなたの惨たらしい思い出なのである。
檸檬切る初めから愛なんてない なつはづき
檸檬を切ろうと切るまいと愛などあるはずがないのである。初めから終わりまで愛など存在しないのである。愛とは錯覚なのである。愛とは妄想なのである。だから、「本当の愛」「偽りの愛」などということばを、誰もが気楽に使ったりするのである。
虫時雨この横顔で会いに行く なつはづき
正面の顔であろうと横顔であろうと自分の顔は見ることはできない。鏡の顔は自分の顔ではない。写真も動画の顔も同じである。誰も、自分の容姿もこころも見ることはできない。何も知らないのである。それでも会いに行かなくてはならない。虫時雨とは野次なのか、声援なのか。夜は、ただ更けていくばかり。
白い部屋林檎ひとくち分の旅 なつはづき
白い部屋とは存在しない空間のことなのである。林檎ひとくち分の旅とは、甘酸っぱく、あっという間の出来事のことなのである。そのひとは林檎の皮をむく。四つに切って皿のうえにおく。ただ、それだけのことだったのである。
そのひとは自転車で来る豊の秋 なつはづき
そのひとは、歩いて来るのではない。そのひとは自転車に乗って来るのである。稲のよく実った畦道を自転車に乗って来るのである。黄金色の大地と真っ青な空。そのひとは、ときどき、手を振ったりもしている。
月白や鏡の中で待つ返事 なつはづき
鏡に映るものはホンモノではない。偽りのものなのである。月白とは、月の出のころに東の空が白んで明るく見えることをいう。うすい青を含んだ白色の空がある。作者は返事が偽りでないことを確信できたから待っているのだ。だから、鏡の中で待つことができるのである。
暁や真白き月を抱く鴉 市川綿帽子
夜明け前の空が月の光を侵しはじめた。鴉が鳴いたのである。その声で目が覚める。あまりよい目覚めではない。雨戸をあけると電線に無数の鴉がとまっている。鴉は月が太陽によって西の空に追いやられることを悲しんでいるのだ。生ゴミを出すために玄関のとびらを開ける。
鵙の贄希望ヶ丘の駅は谷 市川綿帽子
希望ヶ丘駅のとなり三ツ境駅は「馬の背」である。相鉄線は「馬の背」を伝わって横浜駅へ向かう路線なのかと勝手に思っていた。だが、希望ヶ丘駅改札口を抜けると登り坂が待っている。鵙の贄とは、食べるつもりの餌を忘れてしまったものだとあった。自然は無駄を許さない。自然の美しさとは省略されたもの・・・。だとすれば、贄には何か他の理由があるのかも知れない。それにしても、「希望ヶ丘」駅とは、よい名をつけたものだと思った。
すつぽりと網に軟禁水蜜桃 市川綿帽子
網とは水蜜桃を守るためのものである。水蜜桃はすっぽりと自らの意志で網に入ったのである。それは他人から見れば軟禁されているとしか思えない。このようなことはどこにでもある。水蜜桃が幸せならば、それでいいのではないかというひとがいる。だが、ひとりぐらいはまともなひとが傍にいて、碌でもないアドバイスをしてもいいと思う。
牌楼へ伸ぶる獅子舞天高し 市川綿帽子
中華街へはよく出かけた。獅子舞にお目にかかったことはない。JR京浜東北根岸線の「石川町」駅から、あるいは、みなとみらい線の「元町・中華街」駅から歩く。どちらにするかは行く店によって変わる。中華街には牌楼が十基建っている。牌楼とは、信仰による方位の守護神なのだそうだ。牌楼へ伸びるとあるので国慶節慶祝パレードなどだと思う。
明洞(みよんどん)てふカラオケ喫茶ゑのこ草 市川綿帽子
横浜には「明洞」というカラオケ喫茶があるのだろう。「明洞」とはソウル最大の繁華街のことである。マスターは韓国のひとなのかも知れない。それにしても、地味で平凡な花が咲いている。マスターの人柄を象徴しているのかも知れない。
遊廓の跡にたばこ屋小鳥来る 市川綿帽子
遊郭には渡り鳥が似合う。遊郭の跡には渡り鳥が似合う。渡り鳥にはたばこ屋が似合う。遊郭の跡にはたばこ屋が似合う。似合わないものが何もないということは、不似合なことで怖い風景なのだと思う。
海猫帰るベイブリッジの印の中 市川綿帽子
横浜中央郵便局の風景印を見つめ尽したのちに「海猫帰る」ということばが浮かんできたのである。何故、海猫なのかと問われたとしても答えることはできない。海猫は四月から七月にかけて集団をなして定住し繁殖する。繁殖期が終わると海上で過ごすことが多いのだそうだ。
秋風や磯蟹すべて奈落へと 市川綿帽子
秋風とは激しく荒い風のことである。万物を零落させる風ともいわれている。奈落とはどん底のことである。地獄へ落ちなさいといっているのだ。こう書くことでこころの折り合いをつけようとしているのである。こう書くことで、とにかく、この場から逃れたいと思っているのである。
点滅のネオンと語る秋の雨 市川綿帽子
ネオンと語ることは碌でもないことに決まっている。点滅のネオンとは壊れたネオンのことなのである。そうでなければ語る必要もないだろう。ましてや、秋の雨も降りはしないだろう。そのことが自分にとって大事なこと、必要なことだと思うのは、その瞬間だけなのである。二晩、三晩たてば、どうでもいいことなのだと解るはずなのである。
永遠に建設中や秋暮るる 市川綿帽子
横浜駅は永遠に建設中である。改札口を抜けるたびに導線が悪いと感じるのはしかたがないことなのだ。不快な出来事も多々ある。それは、建設中である横浜駅のせいにすればいいのである。横浜駅はJR、地下鉄、私鉄が交わる。乗り換えには便利な駅なのである。ひとが集まるのには最良の場所なのである。秋も深まり酒が恋しくなる。不快になることは承知のうえで、そそくさと改札口を抜け雑踏の中に消えていくのである。
丹波栗鳥獣戯画に拾ひけり 今井 豊
秋になる前に、はじめてついた庭の栗の実は落ちてしまった。神奈川県の西のはずれなので名もない栗である。この集落には、いたって平凡な鳥獣等が野山を駆け回っている。恥ずかしいはなしだが、鳥獣戯画に丹波栗が描かれているのか、その関係についても何も知らない。だが、作者は拾ったと言っているのだから拾ったのである。はなしは、ずれるが、創作とは、自分自身を知るためのものである。さらに、ずれるが、読者は作者を知るために、その作品を読むのである。
曼珠沙華すつかり枯れて地に刺さる 今井 豊
枯れた曼珠沙華は茎が茶色になり花は落ちる。確かに地に刺さっている。地に刺さった細い棒が乱立しているのである。あざやかな花のいろとの極端なコントラストが、この花の不気味さをきわだたせる。地に刺さった棒が墓地に乱立してる風景を思いうかべれば、なおさらのことである。
稲の穂の擦れあふ音のかすかなる 今井 豊
両手で稲の穂をつつみこみ、その重量感を味わう瞬間が至福のときであるという。五か月間の苦労が報われたのである。てのひらから離れた稲の穂はかすかな音をたてる。かすかな音は山からの風とまじりあい十月の空に消えていく。
ひと房も残さずみどり葡萄の木 今井 豊
収穫の終わった葡萄の木を見て不自然であると感じたのである。葡萄の木に問うているのである。身軽になった葡萄の木は、そしらぬ顔で、みどりの葉を風に揺らせているだけだ。葡萄の木もひとも飼い馴らされている。もちろん、歪んでいるのは葡萄畑だけではない。
穭田の匂ひあまさず美術室 今井 豊
臭覚を視覚で表現したいと思った。穭田の匂いを作者は感じたのである。それが何であるのかよく解らない。だから、すべてを描くことにしたのである。視覚で考えようとしたのである。描くことによって、それが何であるのか、解るかも知れないと思ったのである。
稲の香に噎せて男の咳払ひ 今井 豊
噎せてとは、単に稲の香に刺激されて息がつまるということだけではない。豊作に対する喜びのようなものも感じられる。さらに、それを隠すための咳払い。農夫のはにかみのようなものも感じられる。
秋冷の闇どつぷりと一フラン 今井 豊
フランとは通貨の単位のことである。一スイス・フランは、百十円前後である。スイスは、EUに加盟しているのだとばかり思っていた。「秋冷の闇どっぷりと」の「闇」とは歪みはじめた日本。そして、EU諸国のことなのかも知れない。
作業着のポケットに本十三夜 今井 豊
本といえば文庫か新書である。上着のポケットに本を入れておく生活とは理想的である。ページをひらくと、鉛筆でいたるところに線が引いてある。句集は文庫版に限る。鉛筆は半分くらい使った長さ。それを、いつもポケットに入れておくのだ。作業着のポケットであることもいい。十三夜であることも、さらにいい。
泪してこのよならずや菊枕 今井 豊
松本清張の短篇「菊枕―ぬい女略歴―」を思いうかべる。この俳句を味わったあと、久女を読み返せばいいのである。菊枕とは、乾燥させた菊の花弁を使った枕。菊は、邪気を払い不老長寿を得ることができると信じられている。
裕明と花野の端を横切りぬ 今井 豊
秋草の咲いている広々とした野原の端を横切ったとある。咲き乱れる花のにぎやかさとさびしさが感じられる。花野の端には、ひとりでしか歩くことのできない小径がある。並んで歩くことができず、裕明のあとを追って歩いたことを思い出しているのかも知れない。
あたらしき靴で来たりし星祭 中岡毅雄
「文字や裁縫の上達を願う」「神の来臨によるみそぎ」「牽牛と織女は、この日にしか会うことができない」星祭である。
子どもたちが孫を連れてあそびに来た。そのうちのひとりがあたらしい靴を履いている。あたらしい靴を履くときは幸せを招くための何らかの理由づけが必要なのである。
星祭一筆箋に二行書き 中岡毅雄
笹竹には願いごとを書いた短冊をつるす。歌ではなく願いごとなのである。それも多すぎて二行になってしまった。欲ばりだと思う。それでも神さまは願いごとをかなえてくれる。星祭である。
スプーンにかすかな翳り星祭 中岡毅雄
幸せであるはずの食卓の風景のなかで、かすかな翳りをスプーンに感じてしまった。どこか知らないところで災いが芽ばえはじめているのではないか。その不安は、誰もが感じていることなのである。だが、安心していい。星祭である。それらの不安や怯えの何もかもを神が天へ持ち去っていってくれるのである。
ゆつくりと吐く息大事花木槿 中岡毅雄
息をゆっくり吐くことは大切なことなのである。ゆっくり吸うことも大切なことなのである。ラジオ体操と同じなのである。ゆっくり考えることは大事なことなのである。ゆっくり読むことも大事なことなのである。ラジオ体操が終わったあと、公園のベンチにひとり腰かけて花木槿をながめる。いちばん大切なことなのである。
鼻唄はグレングールド木槿咲く 中岡毅雄
Eテレの三十分番組で、バッハの「ゴールドベルク変奏曲」を特集していた。グレングールドよりゆっくりとした演奏であったような気がした。演奏者の名は忘れたが自分の楽器を持参したといっていた。私の頭のなかでは、風に揺れる木槿の花とそのチェンバロによる「ゴールドベルク変奏曲」が流れている。
底紅や昼からともる洋燈館 中岡毅雄
老人になると昼からお酒の飲むことのできる店がいい。老人はわがままだから自分の好むものしか飲まなくなる。嫌いなものは何もかも拒否する。底紅をながめていれば気持ちも明るくなる。昼酒を飲むためのとびらを開くうしろめたさ。それを底紅が忘れさせてくれるのだ。
はるかなる街のかがやく花木槿 中岡毅雄
はるかなるとは距離であり時間である。つまり、はるか彼方の、永遠の街ということになる。この場合は、花木槿に何か特別な感情があるというよりも、花木槿のことが好きで好きでしょうがないといったことなのだろうと思う。
曼珠沙華孤心の奥に孤心あり 中岡毅雄
岩波国語辞典第二版に「孤心」はなかった。「孤」は、「ただひとつ、ひとりぼっち」等と書いてあった。「孤心」の項がないことに新鮮な驚きを感じた。孤独な心の奥に孤独な心があるということなのだろう。曼珠沙華は群生する。その曼珠沙華をながめてそう思ったのである。読者は、曼珠沙華をながめながら「孤心の奥に孤心あり」と何度もつぶやけばいいのだと思う。
子午線の通る海峡秋燕 中岡毅雄
子午線とは任意の地点を通る南北線のことである。地上から見た海峡の秋燕ではない。もっとおおきく地球をくるくるまわる秋燕なのである。日本列島がある。海峡がある。それを、天空からながめているのだ。秋燕は子午線にそっておおきく飛びまわっているのだ。
蓑虫にひびいてきたるハーモニカ 中岡毅雄
誰かがハーモニカを吹いている。蓑虫をながめていたら、いつのまにか蓑虫になっている自分に気づいた。耳を澄ませてハーモニカの音色を聴いている。蓑虫といえば、枯葉と寒い風のイメージがある。まいねん、裏の縁側の軒先にぶらさがっていた。最近はあまり見かけない。蓑虫はオオミノガの幼虫のことで絶滅危惧種なのだそうだ。
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もうすぐ日が暮れる。やまみちを三十分下れば国道に出る。外灯もなく草虱がついてしまうような道である。雨は上がったばかり。落ち葉を踏みしめ、すべらないように歩く。歩くことは健康のためだなどと言い訳を考える。国道沿いには、居酒屋も珈琲店もある。これを書き上げたご褒美だなどと言い訳を加える。老妻の不快な顔が頭のかたすみを過ったりしている。
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