2018-11-04

2018角川俳句賞受賞作 鈴木牛後「牛の朱夏」を読む みっしりとしている……上田信治 ≫読む

2018角川俳句賞受賞作 
鈴木牛後「牛の朱夏」を読む
みっしりとしている 

上田信治 


50句を読んで「稠密」という印象をもった。みっしりと充実した句群だ。

それは、もちろん、牛がいることによって、そうなっている。

発情の声たからかに牛の朱夏

タイトルとなった一句。「朱夏」という夏の異称、青春という語とセットであることによってライフサイクルの連想があり、あからさまに「朱」くもある言葉を牛に貼りつけて、発情の状態にある牛の生命をことほいでいる。ただ、それより何より、この句は「たからかに」だ。

牛を飼う人にとって発情の声が「たからか」であることなど当たり前だろうから、これは言い過ぎのはずなのだけれど、その声をわざわざ高くひびかせて、夏の空間を立ち上げ、そこに力をみなぎらせている。

涅槃雪牛の舐めゐる牛の尿

牛が別の牛の(?)おしっこを舐めている。「涅槃雪」という言葉のもつ、幸福感/恍惚感に包まれているのだから、それは、牛のシアワセなのであろうと推測される。

牛は、予想のつかないことをするから、よい。牛が人間の思いと関係なく勝手にその生を、シアワセに生きていることを「私」が見ている。

自戒をこめていえば、平成の俳句は、ともすれば、言葉と言葉を、あるいは言葉と心を、関係づけることばかりをしてきたのだけれど、そこに牛が加われば、言葉と牛、牛と世界の、こんなにも分厚い関係の運動がはじまる。

自然、あるいは世界は、牛にとって景物ではない(当たり前だ)。同様に作者にとっても、牛は俳句に奉ずる景物ではない。

この人の牛の句に現れているのは、世界が生きるためにある、という絶対的な健やかさなのだ。

季語のコノテーションが、そこに抑制された彩色を加えていることも、俳句的には見逃せない。

一方〈牛の乳みな揺れてゐる芒かな〉のような句は、取り合わせの構図によって芒も牛も景物化してしまい、やや弱いと感じるのだけれど、それでも、牛は、低くなってゆく気温を感じつつ、自分のおっぱいが揺れていることについては、何も感じていないだろう……などと想像すると、世界が生き返ってくる。

そうやって、俳句に、生きた世界を持ち帰ってくれる人として、牛後さんは俳句に歓迎され続けるだろう。

かつての角川俳句賞といえば風土詠の時代の諸作と違うのは、この50句「牛飼いの生活譜」であるよりも多く「牛の譜」であって、その牛の句があまりにも牛本意なので、そこにかすかなアイロニーが生じていることではないかと思う。

仔牛待つ二百十日の外陰部〉にしても、仔牛を待つのは私だけではなく、その「外陰部」も、また、自分から仔牛が出てくるのを待っている(上五で切れると読むと「二百十日の外陰部」が別ごとになってしまい、迫力を減ずる)。私が「外陰部」を見つめ続けるあまり、世界が「外陰部」か、「外陰部」が世界かというほど一体化して、面白くなっている。二百十日が、仔牛の誕生を待っているようですらある。

牛の外に広がりを見せる句も、読み応えがある。

節分の牛舎へ雪の小さき階
牛糞の苦さを漱ぐリラの風
牛糞を蹴ればほこんと春の土

これらは「生活」の句。

寒いので、牛は牛舎にいる。人が牛舎に通って世話をするわけだけれど、わずかな高低のあるところの雪を踏み固めて、階段のようになっている(のでしょう、たぶん)。毎日の行き来の結果を、ただ書いている。ここから、すこしづつ春になっていく。そうして日々が続いていく。

リラの風はキレイですけれど、牛糞が苦いのはすごく汚いです。ううう、ぺっぺとなるのだけれど、口を水で漱いでいると、リラの風が吹いてさわやかである、まるでリラの風に漱がれているようだ、と。(いや、牛糞の匂いが苦い、ということなのだろうか?)。

牛糞と春の土にグラデーションの質感を発見することとともに、これは汚さを含む生命や自然に隣りする暮らしのよろこびというものだろう。

それぞれの青を雲雀と風と牛

「言葉」の句。それぞれの「青」とは、とりあえず空の色。空にあるものとしての雲雀、空間に吹く風、そして牛、とだんだん下に降りてくる。牛が空を見上げれば、視線はまた上方に帰っていく。わざと青「空」と言わなかったのは、その日の空気感といったところまで、イメージを拡げるねらいだと思う。牛は、空の青さではなく、たとえば高気圧で草が美味いとか、そういうことをよろこんでいそうだし。

表題句である「朱夏」の句もそうだけれど、このような知的操作が勝った句は、かなり牛で救われていると思う。

50句中に散見される言葉の操作で書かれていて、しかも牛がいない〈杭打つて山の眠りを覚ましけり〉〈ああ言へばかう言はれたる三日かな〉〈菜の花に畑いちまいの膨らみぬ〉のような句は、平均点以上のものではないだろうから。

牛死せり片眼は蒲公英に触れて 

これは、圧倒的な句。

骸といっても死んだ牛と言っても、概念でしかないのに、この牛は、圧倒的に死んでいる。この眼球は、あの世に触れている。その一点から裂けてしまわないように、世界は、とても緊張している。

この人の、今後の作品が、楽しみでならない。
鈴木牛後さん、受賞、本当におめでとうございます。





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