BLな俳句 第21回
関 悦史
関 悦史
『ふらんす堂通信』第156号より転載
ひとり身は老いも恋めく白絣 能村登四郎『寒九』
何やら妖しい境地に入ってきた。
「恋めく」とは書かれているものの、誰か対象となる人物がいるわけではない。恋めいているのは、「ひとり身」の「老い」それ自体である。自分の身体への関心が同性のそれへの関心へ横滑りすることは、珍しくないだろうし、そこから恋に似た感情が発生してもおかしくはない。思春期ならば普通にいくらでも起こり得ることだ。
ただしこの句の人物はそんな年頃ではない。「老い」ているのだ。
「白絣」を着た瞬間の、自身の姿と肌触りの変化から引き起こされた艶めいた感情は、自愛を含むものでありこそすれ、自己愛とはややずれている。気に入った服や、新しい服を着てみたときの姿の変化は、気分に華やぎをもたらす。それが「恋めく」というところまでは、ある程度誰にでも共通するのだろう。
その華やぎは、しかしこの句では「ひとり身」であると明示されることで、どこへもさまよい出ることなく、「老い」た身体自体に帰着する。ところがそれが、一向に鈍重でもなく、閉塞感もない。「白絣」の着脱にともなって、自身までもが位相を変え、揺らぎ続ける身軽さを「老い」ゆえに手に入れたようであり、その揺らぐ身体を透して、恋の対象たりうる幻の男の像も見え隠れしているのだ。
同じ『寒九』に収録されている〈夏果ての男は乳首のみ老いず〉も、男の身体と老いの句だが、こちらは逆に乳首一点にのみ注意した格好。男性にとっては特に使い道もない器官である乳首のみが老いないという滑稽味もあるが、こちらの句でも乳首と自身との間に微妙な隔たりと揺れ動きがある。性愛の要素を含みながら、生殖とは関係しないという点でも同性愛に通じるところがある。
〈昔ほど男は佳けれ白絣〉(これも『寒九』)でふたたび「白絣」が出てくる。こちらは昔の映画俳優の類を懐かしんでいる風情だが、一般論的な「男」の抽象性を「白絣」が突如具体的に肌身に添わせることとなっている。
鷹の眼をもつ若者とひとつ湯に 能村登四郎『寒九』
以前にも〈曙色となり若者の初湯出づ〉(『冬の音楽』)という句があったが、今度ははっきり一緒に入浴している。「ひとつ湯に」である。この言い方にも、何やら心の弾みがうかがえる。
若者のキャラクターをあらわすのに「鷹の眼をもつ」と猛禽類を引きあいに出していることから、語り手側が視線に射すくめられかねないようにも見えるし、若者のほうが攻めキャラと一見思えてしまうのだが、その辺は意外と含みがありそうだ。
普通ならば当の若者は、自分が登四郎的視線にまつわられていることなど感知せず、湯船につかっているだけになるはずなのだが、「鷹の眼をもつ」となると、そこまで何の注意力もなく、無防備にかまえてばかりいるとも思えない。目つきの強烈さを思えば、正面から睨み合っているとは考えにくいが、一瞥を交した瞬間には、句の語り手の関心、欲望のありどころくらいは直ちに見抜いていてもおかしくはない。はたして語り手側の関心は、若者に見抜かれているのか、いないのか。
仮に見抜いていたとしても「鷹」たる若者の側からすれば、相手がもし不埒なふるまいに及べば、瞬時に簡単に退けることができるろうから、気付いた上で黙っており、相手の視線が自分の裸身にまつわるのを、余裕をもって放置しているということもあり得る。
そしてその場合、若者はさしあたり、相手の欲望を受け入れ、受け流していることとなるので、その包容性を考えれば、猛禽類的キャラだからといって、必ずしも「攻め」とばかりは決めつけがたくなってくるのだ。
といった、どちらが何を欲望しているのか、いないのか、その探り合いと妄想が生むサスペンスが色気に転じつつも、実際にはともに大人しく湯船につかっているだけという句で、何も起きていない二人から、さまざまな妄想を引き出せるあたりから、文学理論用語でいう「内在する作者」ならぬ「内在する腐女子」といった言葉まで思いついてしまったが、これは閑話休題とするほかはない。
もはや脱ぐものなき竹の照し合ふ 能村登四郎『寒九』
単なる植物同士の話である。
夏の季語「竹の皮脱ぐ」の時期の竹を描いているだけである。
作者として能村登四郎の名が付されているとはいえ、本来は同性愛に引き寄せた鑑賞などせずとも済む句ではあるはずである。
しかしこの色気は何なのか。
まず「もはや脱ぐものなき」なる言い方である。「全裸だ」という言い方をしても指示内容はさして変わらないはずだが、こちらのほうが気合が漲った、堂々たる脱ぎ捨て方による裸身というふうに見える。「もはや」で、一枚一枚順に脱いでいき、ついに身にまとうものが何もなくなったという不可逆の経過が示されている点も見逃せない。
そして最後に、垂直に力強く伸び、「照し合ふ」ほどに張りつめた色艶を持つ竹同士の関係が詠まれることになる。どちらも皮を脱いだばかりの、みずみずしく繊細な皮膚感覚を持ち、しかし触れ合うところまでは接近していない。それがなおのこと竹たちの若さと充実ぶりを強調するのである。
強いて暗喩的な、鈍重な読み方(ラカンが登場する以前の通俗的なフロイト解釈のような)をしてしまえば、棒状に伸びた竹は男性器以外の何ものでもなくなってしまうのだが(皮まで脱いでいる)、そうした、似ているもの同士を暗喩的に密着させてしまう読み方は、俳句においては退けておいたほうがよいという読解上の規範をも、竹たちは触れあわないまま「照し合ふ」ことで体現しているかのようである。
この句は遠回しに書かれたバレ句などではいささかもない。だからこそ堂々たる健やかな裸身の誇示に色気が宿るのだ。
麦秋の野にもつこりと男神山 能村登四郎『菊塵』
男神山と呼ばれる山は佐渡島にもあるらしく、全国に何ヶ所か同じ呼び名の山があるのかもしれないのだが、これは秋田県の山らしい。昭和六十二年の句だが、年譜を見るとこの年、登四郎は俳句大会に招かれて、秋田県横手市に赴いている。そのときにでも男神山を目にしたのではないか。地図を検索してみると横手市からは車で二時間ほどの距離にあるようだ。
というような話が、ほとんどどうでもよくなってしまう詠みぶりの句である。
男神山の近くには当然のごとく女神山もあって、二つを一緒にした二神山という呼び方もあるようなのだが、登四郎は女神山のほうはあっさり句から削ってしまって、男神山のほうのみをクローズアップする。
たしかに「もつこりと女神山」では互いに打ち消しあってしまうので「男神山」のほうが、麦秋の野に不意に立ちあがった山影がすんなりとイメージできはするのだが、問題はもはやそこでもなくて、よりにもよって「男」に付けられた形容が「もつこりと」であることである。
暗喩的とか何とか考える間も与えないようなダイレクトな男性性指示としか見えなくなってしまうのだが、景色としてはあくまで鄙びた、明るいものである。それがまた素朴で壮健な、自分の魅力に無自覚な男性というキャラクター性を立ちあがらせてしまう。
無情のはずの木石や山河までをも有情として描くこと。それは下手をすると陳腐な擬人法的共感や、理念の先走った公式的なアニミズムに陥りかねないのだが、登四郎の写生の仕方はそうではなく、竹や山の形姿を身体感覚によって取り込み、なぞるといった回路で行われているらしい。
白地着て帯締め男濃くなれり 能村登四郎『菊塵』
白地着て白き褌も思ひ立つ
「白絣」「白地」と白い和服への偏愛が続く。二句並べてみると、「帯」「褌」という締める要素も入っている。白の清潔感やノイズのなさと、帯などによる引き締めが「男」を意識させるポイントであるらしい。
実際に普段着ではあったのだろうから、その意味では服装倒錯でもコスプレでも何でもないのだが、この皮膚感覚、身体感覚が「恋めく」老いや、皮を脱いだ竹や、男神山の「もっこり」に通じて拡張されていくわけで、着替えることが持つ官能や変身の要素は登四郎の句にとって、思いのほか重要なのものであったのかもしれない。
去勢後の司馬遷のゐる桃林 能村登四郎『菊塵』
武田泰淳の『司馬遷』では、刑罰として去勢された「生き恥」から『史記』の非人間的スケールの歴史認識に至るダイナミズムが語られていたが、登四郎の関心はそこにはない。性器を奪われた、言い換えれば、性器から自由になった賢才と「桃林」との取り合わせである。
固定された性別からの解放が、一種のユートピアとして捉えられているのではないか。
*
関悦史 明易
総受けの細腰のごと春兆す
少年未明微光の四肢も春愁
兄弟喧嘩馬乗りに春の内股よ
金髪の奴と目が合ふ入学式
恋には非ず春宵上司に肩を揉まれ
友を泊めひとり覚めゐて明易き
美味さうと囃され日焼男子なる
水飯やみめよき貧乏神侍り
石油王こそ攫へ汗きらめく青年
迢空忌布団にはかに重くなりぬ
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