成分表78 国産ワイン
上田信治
「里」2013年8月号より改稿・転載
以前と違って、国産ワインというものが、ずいぶん当たり前に飲まれるようになった。
いわゆる原産国のそれとはぜんぜん似ていなかったりするけれど、かえってそのことが面白く、その面白さを含んだ美味しさがある。
つまり、美味しさは絶対値ではなく相対的な差分から生まれるわけだけれど、日本のワインは、何をどう目指して、その独特のかんじになるのだろう。
ワインの醸造家は、自分の畑に運命づけられている。彼らは、自分の運命から何を引き出し実現するかを、最も真剣に考えている人たちであり、しかも、現代の醸造家は、同時代のあらゆるワインとの関係において、自分が差分として何を生み出しうるかを意識しないわけにいかない。
いや、もっと単純に考えよう。
作り手は本性として自分の酒を美味しくしようとし、さらには「もっと」美味しくしようしているはずだ。
「もっと」は人間だけの領域に属する。
「美味しい」は、犬猫もそれを知っている自然性から生じるわけだけれど、その価値を新たに自分の手で創造するためには、「もっと」とはどっち方向の「もっと」なのか、それが決まらないと、第一歩が踏みだせない。
「もっと」ふっくらとした、「もっと」強い、「もっと」淡い、「もっと」その地域らしい、「 もっと」知的な、「もっと」エロチックな 、もっと、もっと……と、それぞれ見上げるものは違っても、それらは皆、自然な「美味しい」を、方向感覚へと変換したエッセンスのようなものだ。
つまり、作ることは具体の極致であると同時にとても抽象的なことで、ワインに限らず、そうしてものごとは必然的に洗練されていくわけだけれど、その洗練は、抽象的なものの表現として生まれる。
人がなぜその抽象を望むかといえば、人には、誰かが目指した高みを共有することで、生きる動機のより深い部分が慰められる、ということがあるからだ。
ワインの素朴で自然な美味しさと、抽象レベルの価値の関係は、美人と写真作品の関係に似ている。美人は写真になりにくい。そして、俳句は内容ではない。
さらに、国産ワインは(ほんとうに美味しいものもあってそのあこがれの高さと強さに思いをはせることもあるけれど)多くの場合、ちょっと美味しくないことが、面白くて「おいしい」。
そのいちいちの面白さは、それが「ワインになっているかどうか」を考えさせる。
それも、ひとつの価値の共有である。
ひし餅のひし形は誰が思ひなる 細見綾子
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