2019-03-17

【空へゆく階段】№7  雑詠鑑賞 田中裕明

【空へゆく階段】№7
雑詠鑑賞

田中裕明
「青」1982年3月号・掲載


パスカルが人間存在を規定したように有限と無限の中間者なるものという言い方をすれば、すべて人間の営為はそのカテゴリーを脱するわけにはゆかないのだから、俳句読者というものを考えるときにも中間者的存在という言葉が便利なものとなってくる。俳句という詩型にしても、定型というものを難しく考えるひとにとっては最短詩型というその短かさしか目にはいってこないから、日本語による文学の一方の極にある(他方の極には何があるのだろうか。長編小説か)と見られるが、たとえば発語の初源と終焉という非常に奥行きの深い軸を持ってくれば、俳句ももちろんその両極の中間者にとどまる。初源と終焉と言えば時間的なひろがりしか浮ばないが、ここでは宇宙における時間軸と空間軸がふたつながらに収束し発散するところという意味あいでの初源であり終焉を考えてもらえばよい。

俳句がこのような中間者的存在であるとき俳句読者はいかなる立場にあるかを簡潔に言えば、読むことと書くことの中間にあるということになる。印刷技術が未発達な時代においては文字は手写によって伝達されたが、このテクストを書き写すという作業は目で読むという行為と手で書くという行為が分かちがたく結びついたものであって、俳句の詩性をこれにたとえることも可能である。俳句において読むことと書くことがひとつになっているということは、これまでに述べた俳句読者というものでその一面を表現しているが、それだけではない。

俳句読者は俳句をよく記憶しているという事実を、他の領域の読者と比較して考えてみれば、俳句読者が読むことと書くことの両極を往来していることの意味が明らかにならないだろうか。これは文学のすべての領域で、読者がいるから古典も生まれるのだというしごくあたりまえのことと考えればよい。もちろん俳句の短かさやリズムがその記憶しやすさに大いに与っていることはまちがいないがそれだけでもない。

ひとが俳句という詩型に手を染めるときはまず古今の名句、あるいは自分の心持ちに適う作品を記憶することからはじめる。そしてどのようにして記憶するかを思い起こせば俳句を音読していた自分に気づくはずであるけれども、この音読という行為の相の中に俳句読者が読むと書くの中間的存在にあることの秘密があると思われる。

いくつかの外国語を見渡したときに、〈読む〉に相当する言葉が一様に〈声を出して読む〉という意味を語源のうちに持っていたことは、あたりまえのことながらひとの読むという行為の正体が音読にあったことを教えてくれるけれども、近代的読者が忘れて久しい。文字がなかった時代には詩はうたとし肉声で伝えられたけれども、口誦文学においては近代的な意味での個性や独創というものはないし、わたしたちが普通に使う批評家という言葉もその対象となるものをみつけることができない。

俳句読者は忘れたうたを思いだしたのか。作者の立場があり読者の立場があるとするならばそのどちらでもない俳句読者を定立することはディアレクティークをおかしな形式論理とすることにはならないはずだ。

 秋の水そこで太鼓を打ち始む  ヒロシ

さきに俳句における比喩の問題をイメジという言葉を軸にして考えたが、この比喩というものからひろくレトリックへ考えをひろげればまた少し違った俳句読者が浮んでくる。一般に俳句においてはレトリックというものは考えられていないように思われるが、意識するしないにかかわらず表現はすべてレトリカルなものだとすれば俳句もまたレトリックをとり入れることによってその詩性を伸ばしてきたのかもしれない。

たとえば黙説(レティサンス)という手法について考えれば俳句は最短詩型であるという特性をもっていてその作者はこの手法について無関心ではいられない。黙説というのはわかりやすい例で言えば小説などで《……》というふうに表記される沈黙の部分であって、もちろん俳句にはこのような表現はない。しかしながら俳句の十七文字すべてが《……》に相当すると考えることも可能であって、たとえば人が存在しないことを表現するにも空っぽの部屋の情景を描写しなければならないとすれば沈黙を表現するにも十七文字が必要になってくる。

黙説とは言いさしておいてそこでやめることだから、これは俳句でよく見られるかたちであって、読者はそのとき臨時の作者となって沈黙の部分を自分で想像する。この臨時の作者というのは先にのべた読者の想像力と同じことで、そういう自覚にたってはじめて俳句読者は語られない部分を読むのである。言わなくてもわかることは言わないでおくというのが黙説という表現の生まれるそもそもの契機であったけれども、その言わないでもわかることがそのまま伝わるわけではなくて、今まで繰りかえしてきたように作者と読者のコンテクストにはずれがあるのだから黙説の効果がその余情にあると言っても、読者それぞれの余情は微妙に違っているはずである。この余情の相違を読者の想像力の相違と言ってもそれは俳句読者のことを言ったことにはならない。

黙説の生まれる契機にはもうひとつあって言わなくてもわかることは言わないというような意図的なものでなしに、作者自身がそこである感興の昂まりによって言葉を続けられなくなったinterruptionと呼ばれる非意図的なものがある。こちらのほうが俳句読者には親しいとも考えられて、切れ字などその特徴的なものだとも言える。本気で逆説を言うならまずそのつもりにならなければならないのだけれども、切れ字は何も言わないからこそ多くのことをチャージする。黙説という手法を意識するようになれば、切れ字という表徴にも意識的にならざるを得ず、使うにしろまた意識して使わないにしろ、作者にしてかつ読者であるという異様なる自己認識が深まるのだと言えば牽強付会になるだろうか。そうは思わない。

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