2019-04-14

成分表80 蓼食う虫 上田信治

成分表80 蓼食う虫

上田信治


その駅の構内の通路には、幅1メートルほどの小さなガラスケースがあった。

結婚して二番目に住んだ郊外の駅のことだから、かれこれ二十年以上前の話なのだけれど、半年くらい通勤に使いながら、自分はそのケースの存在に気づいていなかった。

あるとき、駅で前を歩いていた子供がとつぜん走り出した先にあったのが、それで、子供は、貼りつくようにして中を見はじめたのだけれど、すぐあとから追いついた親が、彼をケースから引き剥がしていった。

自分が、あとから近づいていって見ると、それは駅前にある玩具店のショーケースで、中にはいくつかの玩具が飾ってあった。

その日まで、自分には、そのガラスケースが見えていなかったのだ。

子供は「子供用」のものを、見逃さない。

世界は、子供にとってほとんど無関係なおそろしく退屈な場所だから、自分をもてなす例外的な小部分に、はげしく反応し愛着する。

それは、動物が、自然界で、自分の食性の対象を見逃さないのと同じことで、そういえば、ベランダに小さな葡萄の鉢を置いていたら、みごとに一本ツノのスズメガの幼虫があらわれて、わずかな葉を食べ尽くしたことがあった。近所でスズメガなんて見たこともなかったのに、彼らは、その小さな鉢をあっさりと見つけ出す。

つまり、子供も、スズメガも「蓼食う虫」であり、彼らにとって、世界とは、光かがやく「蓼」とそれ以外なのだ。

私たちには、もう、幼稚園や小児科医院にバカのようにおどけた動物の絵があると「どう」いいのか、その切実な必要を、身に沁みて分かることはできない。

ところで、自分たち夫婦は、日常生活のなかの「笑い」や「悟り」を取り出して漫画に描く、という仕事を二十年以上続けている。アイディアを出すことの中心にあるのは、人生の意味ありげな小部分を「思い出す」ことで、自分たち自身の記憶はとっくに描き尽くしてしまって、もう一個、人生があればいいのにと、いつも思っている。

別の誰かの生きてきた記憶がそっくりもらえれば、また二十年分のアイディアが作れるのではないかという話だけれど、じつは、人から聞いた話を元に漫画が描けたことは、ほとんどない。

きっと人はお互いどうし、蓼食う虫なのだろう。

人の話は身に沁みない。そして、世界じたいが退屈極まりない場所であることは、大人にとっても変わりないので、ある人は、作品世界を「自分用」の場所に変容させるということをする。

たとえば、それは「自分用」のショーケースのようなものを、記憶のそこここに設置するという遊びだ。

  山河晴れたれば伏せおく白盃 柿本多映『仮生』

それはまったく自分へのもてなしだけれど、人への馳走でもあることが、表現になっているかどうかの分かれ目だ。

すべての表現は、子供だましのように簡単なからくりで、人が皆ばらばらに違うと同時に共通に存在することを、、あるいは、世界が毎日同じであることと同時に、生命にとってそれは退屈ではないということを、証している。

それは、本人の「身に沁みる」という領域を通じて、行われる。

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