【週俳3月の俳句を読む】
一本の線
鈴木茂雄
ひとつひとつの文字を点になぞらえると、さしずめ俳句はその点と点を結ぶ一本の線に例えることができる。その線の上に整然と並んだ文字のおおかたは、俳句骨法に則っていて端正だと思うが、そこには詩的吃驚がない。平々凡々退屈で味気ない生活を驚かすものが詩である。もっと歪んだり捻れたりして、引かれた線から外れたり跳ねたりしている方がずっと面白い。文体などもいやに老成した感じのものより、荒くても若々しい方が好ましく思われる。そう思って引いたのが次の作品。
多喜二忌の紙飛行機が蝶になる 安田中彦
紙飛行機が蝶になるという。そんなはずはない。現実の世界ではあり得ないことだ。あり得ない出来事に人はアッと驚く。突拍子もないものには人はただ呆れるだけだが、意外な結びつきは人を吃驚させる。見たことがないものに人は惹かれる。SFの世界がそうだ。最初から最後まで人をハラハラさせてくれる。いまだかつて見たこともない世界を広げて、時空の彼方にさえ人を連れて行ってくれる。揚句の多喜二忌と紙飛行機というこの取り合わせもまた読者の意表をつく。一読、この句もまた紙飛行機が蝶になるという早春の野へ連れて行ってくれようとしているが、季語の多喜二忌に重きをおいて再読すると、一句は、にわかに明暗の暗に転じて、小説『蟹工船』の著者である小林多喜二に思いを馳せることになる。彼の書いたものは当時の官憲の手によって紙片同然の扱いにされ、留置場で拷問死したという多喜二の無念の思いは、蝶になったのだという作者感慨の上掲句につながる。同時作の「墜落の蝶に真白き昼ありぬ」もおそらく多喜二を念頭に置いて描いた作、死のイメージが強いのはそのせいだ。それにしてもなんという明るい真昼なのだろう。
故人みな大脳にをり黄沙ふる 安田中彦
故人はみな自分の大脳の中にいるという。この大脳という表現が意外で人はハッとする。ふつう、記憶の中にとか心の奥にとかいうものだが、そう予期して読んでいるところに大脳という言葉が不意に現れる。この意外性に、文字が線の上でちょっと揺らいだように感じる。この揺らぎに人は詩を感じるのである。季語の黄沙もまた並みの黄砂ではなくて、まるで砂嵐のようなイメージで迫ってくる感じがする。それはこの線上で意外性を帯びた「大脳」という文字のあとに置かれた結果、後置の文字「黄沙」が反応することで増幅されて感じるからだろう。こういう感じがすることを錯覚というが、この錯覚にもまた人は驚きを隠せない。この驚きが人を詩的空間へとを誘う。
「パイロンて何」早春の交差点 加藤綾那
オーソドックスな句の、いわゆる立て句が並んだ作品群の中に置くと、この句は、やはり読者の意表をつくだろう。「パイロンて何」と書かれた鉤括弧の表記が一句に混在することによって、いわばポピュラーな五七五の俳句形式の常軌からは少なからず逸していて、多かれ少なかれ人を驚かす。いまでこそインターネット上に書かれた横書き俳句はふつうに見えるが、それでもそこに混在した記号はやはり人の目を惹く。少なくともわたしにはそう見える。しかも、一見、散文の一行とも思える文体のこの句が、詩的に見えるのは取りも直さず〈「パイロンて何」〉と〈早春の交差点〉との間に偶発的に生じた、抒情的空間ともいうべき切字の存在だろう。パイロンて何、と聞かれたので答えておくと、パイロンは道路工事などの注意喚起をする、あの赤い円錐形の標識(「カラーコーン」は商標名)のこと。これを「早春の交差点」に置くことによって、にわかに周囲の風景は立ち上がり人を配して物語が始まるのだ。
つばくらめ地図は読めないけど分かる 加藤綾那
日常なにげない風景にとつぜん「つばくらめ」が現れると、毎年のことながら人はハッとして空を見上げる。見上げて心を弾ませる。若い女に「地図は読めない」と言われると、どうするんだろうと傍目にもハラハラする。「けど分かる」と分かって、心配した分だけ損をしたとたいがいの人は憤慨する。だが、女はときに詩のような嘘をつく。ほんとうに分かるのだろうかという不信の念が常に先に立つが、こういうたわいない嘘はせわしい日常や退屈な人生に飽きた心を何故か弾ませてくれる。たとえそれが本当の嘘であっても「つばくらめ」と「地図は読めないけど分かる」といった新しい関係に接すると、人は自ずからその心象風景に詩的な空間を繰り広げる。そういえば、『話を聞かない男、地図が読めない女』という本がいっとき話題になったことがあるが、そのタイトルからしておそらく男女の性差について書かれたと思われるこの本を読んでいたら、「女」のことはともかく「地図は読めない」ことについて、少しは理解出来たかも知れない。
パンケーキ来るまで白きチューリップ 高勢祥子
この句にかぎらないが、俳句はこの句のように散文の一行を読むように読んでもすっと頭に入ってこない。試みに「(注文した)パンケーキ(が)来るまで(テラスの)白きチューリップ(を見ている)」と、作者が省略したと思われる個所を埋めてみると、読んだものが同時通訳を聞くようにすうっと頭に入ってくる。では、どうして俳句形式に収めた言葉は意味を追うようにすっと理解出来ないのか。それは「パンケーキ来るまで」と「白きチューリップ」の間に論理的断層があるからである。加えて「パンケーキ」と「来る」の間の助字の欠落や「チューリップ」の体言止めの強引な切断によって軽い衝撃波が生じているからだと思われる。このズレや衝撃によって詩は発生する。五七五という俳句形式に収めようとして収めきれない収縮性に富んだ言葉を収めるために、作者は省略という修辞的技巧を駆使する。省略は単なる五七五に収めるための削除ではないのである。その結果、上記の散文的思考は「パンケーキ来るまで白きチューリップ」という詩的思考へと切り替わる。そこに詩的情感が生まれて、人は感動を余儀なくされるのである。
2019-04-14
【週俳3月の俳句を読む】一本の線 鈴木茂雄
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