【週俳3月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅪ
瀬戸正洋
日本文学全集の配本は月に二巻から三巻ぐらいだったと思う。各社のものを気まぐれに何の脈絡もなく買っていた。巻末の解説や略年譜、月報(付録)が面白かった。昭和、戦後、現代などと、ずいぶんと多くのものが書店に並んでいたはずだ。半世紀近くも前のことである。他に読みたい作品があれば文庫本で探し、文庫本になければ個人全集で探す。そして、いつのまにか、その小説家は飽きてしまうのである。
本棚は、自分の性格そのものであることがわかる。何もかもが歯抜けていて、てんでばらばらなのである。
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多喜二忌の紙飛行機が蝶になる 安田中彦
小林多喜二といえば、掌編「人を殺す犬」を思いうかべる。小樽高商「校友会誌」第38号に発表された作品である。略年譜の最後、自宅での告別式では参加者全員が検挙されたとあった。掌編「人を殺す犬」は、中央公論社のアイボリーバックス日本の文学39「葉山嘉樹 小林多喜二 徳永直」のいちばんはじめの作品であった。
紙飛行機を飛ばした。それをながめていたら蝶になればいいと思った。そう思っていたら、本当に蝶になりどこかへ飛んでいってしまった。二月の寒い風が吹いている。
言葉無き母をげんげに眠らする 安田中彦
何故「眠らする」としたのか。理由は必ずあると思う。言葉無き母とは、ことばを失った母なのかも知れない。亡くなってしまった母なのかも知れない。
子どものころ紫雲英の咲いている田に寝ころんで空をながめていた記憶がある。近ごろ紫雲英は見かけなくなった。紫雲英の種を蒔かなくなったからだという。
墜落の蝶に真白き昼ありぬ 安田中彦
高いところから落ちることを墜落という。意志とはかかわりがないようである。真白き昼があるのならば、それだけでいいのかも知れない。他には、「社会的地位や所属が落ちる」「水準や条件に達しないために受け入れられない」「その状態をもちこたえられなくなる」などという意味も墜落にはある。
夢に象見てより春の闌けるなり 安田中彦
Eテレ「100分de名著」の3月11日の「夏目漱石スペシャル『夢十夜』と不安な眼」を見た。老人は単純だから、それだけの理由で「夢十夜」を読みたくなる。真実でない現実があり、現実でない真実がある。何もかもが「偶然」なのである。
関取が土俵に足の裏全体を吸い付かせようとする仕草をする。「夢に象見てより」から、そんな光景が眼に浮かんだ。春もさかりを過ぎ、もうすぐ夏となる。老人にとっては、からだに堪える嫌な季節は目の前である。
囀の降れり魚類の身のほとり 安田中彦
囀るのは雄である。雌はそんな余計なことはしない。囀りとは繁殖期の雄の鳴き声だという。鳴き声が飽和状態になるから降るのである。節度がない。鳥の世界でも雄はどうしようもないのだ。耐えることができないのである。あわれなものだと思う。
魚類は生まれたときは全て雌である。成長の過程で性別を変えるのだ。雌雄同体である。要するに、変幻自在で面白すぎるのである。囀りは空中から水中へ。水中から地中へと果てしもなく降りつづいていく。
犬を野に不満の春をどうしよう 安田中彦
不満であろうとなかろうと犬は野に放たれたのである。不満なのは「犬」なのである。不満なのは「野」なのである。不満なのは「春」なのである。不満だから存在することができるのである。満足したものは存在することができないのである。故に、ひとは「生きるとは何か」を考え続けなくてはならないのである。
中也なら黒い旗見し春の空 安田中彦
角川書店「中原中也全集」は全巻持っている。大岡昇平の「中原中也」角川書店を読み、全巻揃えた。筑摩書房の「啄木全集」も、全巻持っている。小田切秀雄の新書の啄木論を読み(題名、出版社ともに失念)その気になった。個人全集で全巻持っているのは、中原中也と石川啄木だけというのも、おかしな話だと思っている。要するに、なりゆきなのである。
詩集「在りし日の歌」の中に「曇天」という作品がある。 ある朝 僕は 空の 中に、/黒い 旗が はためくを 見た。/からはじまる。
中也だから「黒い旗」が見えたのである。凡人には何も見えない。「中原中也全集」を、いくら熟読玩味してみても、春の空に「黒い旗」は見えないのである。
故人みな大脳にをり黄沙ふる 安田中彦
思い出とは大切なものである。思い出すということは生きることと同様に大切なものなのである。からだが滅ぶと、本当にこころも滅んでしまうものなのだろうか。
黄砂ふるとは中国奥地で発生した黄砂が偏西風に乗って飛来したものだという。偏西風も余計なことをするものだと思う。
ピン止めの蝶の如きがあらはるる 安田中彦
蝶が目の前に現れただけなのかも知れない。それにしても、ピン止めの蝶のようなものとは、いったい何のことなのだろう。ピンに止められた蝶ではないことだけは確かなのである。
不満の春をどうしたらいいのか考えるべきだと思う。
かの人をみとりし人も死す黄蝶 安田中彦
看取るとは病人の世話をするということなのである。この場合は、死ぬまで世話をしたということなのだろう。かのひととは三人称である。それほど近しいひとではないのかも知れない。かのひとを看取ったひとも死んだのである。私も死ぬのだと思った。
そこに突然、黄蝶が現れたのである。黄蝶に出会うということは、これからの人生に何か変化のあらわれる兆しなのかも知れないなどと思ったりもする。
雪暗や海猫(ごめ)風に乗り飛び尽くす 広渡敬雄
雪の日のそらは暗い。あるいは日暮れが近いからなのかも知れない。何かの拍子に海猫がいっせいに飛び立ってしまった。風は吹いていたのかも知れない。海猫がいっせいに飛び立ったことにより風が起こったのかも知れない。海猫がいなくなったことは確かなことなのである。風が吹いていることは確かなことなのである。
焚火の香纏ふ神事の始まりぬ 広渡敬雄
焚火とは火を燃やすことである。火そのものでもある。燃えている火の香が巻きついたのである。絡まりついたのである。神事をはじめるために巻きつけたのではない。たまたま、そうなったのである。たまたま、それに気づいたのである。それは、偶然気づいたということなのである。故に、神事であるということなのである。
頬紅き子もえんぶりの列に付く 広渡敬雄
たびびとだから子の頬の紅さに気づいたのである。子の頬の紅さに気づいたから、たびびとであることを知ったのである。列に付いていくことのできないことを知ったのである。たびびととして、よみがえったひとつひとつの思い出にたいして不思議なことだと感じているのである。
掃きありし磴に零れて沓の雪 広渡敬雄
履いて歩くためのものを「沓」という。神主が履いているようなものなのだろう。掃き清めた磴に雪が零れるのである。「沓」から雪が零れるのである。これを些事だと思うことは間違いなのである。この「沓」の雪こそ、真実であるということを噛みしめることが必要なのである。
落椿地(つち)の起伏のあきらかに 広渡敬雄
天に対しての地である。「場所」指すこともある。それを「つち」と読ませた。起伏とは平らでないことをいう。さまざまなできごとがあったのである。散り落ちた椿の花を見て、そのことをあらためて思いうかべたのである。
お庭えんぶりおんこを丸く刈り揃へ 広渡敬雄
お庭えんぶり「明治、大正時代の財閥の邸宅『更上閣』の庭園で開催され、前売入場券2,100円(全席自由)せんべい汁、甘酒付」とあった。八戸では、二月の重要な観光行事のようである。その庭の「おんこ」は、丸く刈りそろえてあった。
八戸へは十数年前に仕事で行ったことがある。研修会、交流会のあと、屋台村へ出かけた。ホテルからタクシーで行ったのか歩いて行ったのか忘れた。屋台村では知った顔ばかりに出会った。ここでの雑談も仕事なのだと思った。
朳唄乾の風の容赦なし 広渡敬雄
シベリアから吹きつけてくる乾いた北西の季節風が容赦なく襲いかかるのである。朳唄がかき消されたのかも知れない。だが、乾の風にしてみれば何も変わらない日常であるということなのである。
藁靴の軋む音こそ恵比寿舞 広渡敬雄
恵比寿の面をつけて釣竿を持つ。大漁祈願と航海安全を願うものなのである。八戸で欠かすことのできない舞なのかも知れない。雪中で用いる藁で編んだ靴を藁靴という。雪の上で藁靴が軋む。それがいかにも八戸の恵比寿舞だと思ったのである。
燠となる篝えんぶり猛りけり 広渡敬雄
篝火は猛り狂っていても唄や笛や太鼓や踊りは整然と通り過ぎていく。整然と通り過ぎていくことが、何故か不思議に感じてしまうのである。生きるということは、このようなことなのかも知れないと思ったのである。
舞ひ了へて啜るや熱きせんべい汁 広渡敬雄
せんべい汁を啜ることにより、そこにいる誰もがひとつになったのである。二月の八戸は寒いのである。藁靴を履き素手で踊るのである。見るものも演ずるものも寒いのである。
「パイロンて何」早春の交差点 加藤綾那
つるつるしているものである。カラフルなものでもある。道路や工事現場に置かれているものである。展示会場やスーパーマーケットの駐車場に置かれていることもある。早春の交差点に置かれていたのかも知れない。
「パイロンPL顆粒」という風邪薬もある。
好きだった人殴るなら春キャベツ 加藤綾那
好きだった人がいた。嫌いだった人がいた。苦手だった人がいた。何もかもが思い出なのである。好きな人はいない。嫌いな人もいない。苦手な人もいない。それも思い出なのである。
何も考えないようにすればいい。春キャベツにしてみれば迷惑なはなしなのである。からだも傷つかないし、こころも傷つかない。思いきり殴ってみればいいのである。
卒業や呼ばれてわたしだと気づく 加藤綾那
こんな生き方が最善なのかも知れない。期待してはいけないのである。すこしさめているくらいがちょうどいいのかも知れない。自分にとっていちばんたいせつなことだけを考えていればいいのである。張りきったからといって、それがいったい何になるというのだ。疲れるだけなのである。
取りあえず、返事だけはしておいた方がいいと思う。
花売って生きていけそう長電話 加藤綾那
「生きていけそう」と思うことができれば、それで十分なのである。すこしでも希望があれば、それでいいのである。花を売ろうが自分を売ろうがどうでもいいことなのである。だが、たまにこころがゆれるときがある。こころがみだれるときがある。そんなとき、長電話をすればいいのである。他人と話すと、こころのゆれはおさまることもあるのである。
うららかや男の耳に触れてみて 加藤綾那
男の耳になど触れない方がいいのである。
男の耳に触れてみたらどうだったのか。男の耳はやさしかったのか。男の耳は冷たかったのか。男はどう動いたのか。男は何かことばを発したのか。
触れてみたから、何かを知ったのである。お日さまは明るくのどかに微笑んでいる。
マンホール亀は鳴いたと思うけど 加藤綾那
亀が鳴くなどということは嘘八百なのである。そう思ったことがすべてなのである。そう思うことが、唯一、亀が鳴いたことになるのである。マンホールとは縦孔である。地下にある下水管、電気、通信ケーブルの管理のためひとが地上から出入りするためのものである。
春ののどかな昼にだけマンホールの蓋は開き、亀は鳴くのである。
腕時計しない手首に春の雨 加藤綾那
どちらにも腕時計はしていなかったのかも知れない。都会のくらしでは、腕時計など不要である。腕時計のかわりになるものは街中にあふれている。
時刻が気になったとき、絡みついていた腕時計を思いだしたのである。時間に絡めとられていたころの自分を思いだしたのである。春の雨はすきなだけ降ればいいと思う。
つばくらめ地図は読めないけど分かる 加藤綾那
ひとは地図を読みながら目的地へ向かう。つばくらめに地図は存在しない。本能(そう言っていいのかわからないが)のまま目的地へ向かう。ひともつばくらめも、目的地につく確率は同じなのである。ひとの幸不幸も、そういうものなのである。
恋をしてつるつるの鼻かわず鳴く 加藤綾那
恋をすることは幸せなことなのだろうか。つるつるの鼻であることは幸せなことなのだろうか。かわずが鳴くことは幸せなことなのだろうか。
恋をすることは不幸せなことなのである。つるつるの鼻であることは不幸せなことなのである。かわずの鳴くことは不幸せなことなのである。
すずらんの揺すられ隠さない眠気 加藤綾那
何らかの魂胆があってすずらんを揺らすのである。すずらんは、それが何であるのかわからないが、取りあえず、揺れてみるのである。流れのままにしてみることも、ひとつの方法なのである。流れのなかで探っていくことも、ひとつの方法なのである。何も隠す必要などないのである。眠気を悟られても何の問題もないのである。
船腹の膨らみ春の夜を圧す 髙勢祥子
船腹とは船の胴体であり荷物を積み込む場所である。また、積載量のこともいう。それは荷物によって膨らむものではない。既に、決められている容量なのである。
春の夜とは、あたたかくひとのこころをゆったりとさせるものなのだ。船腹のふくらみ、あるいは、積載量は、春の夜を押さえつけているのだという。いったい、そうさせているものは何なのだろう。
春風や船を一周する順路 髙勢祥子
春風は不規則に吹いているのではない。しっかりとした考えがあり、意志を持って動いているのである。当然、船を一周するのにも、それなりの考えがあって順路を決めているのだ。春風は疲れるのである。船も疲れるのである。当然、海も疲れるのである。だから、ひとはやさしくなくてはならないのである。
偽物は少し大きく春ショール 髙勢祥子
偽物は脅かさなくてはならないのである。偽物はひとのこころを乱さなくてはならないのである。だから、少し大きめにつくらなくてはならないのである。春のショールを身にまとい、生きるために、少し、苦労をしなければならないのである。
船上に短かきレール春の星 髙勢祥子
車輪を支え一定方向に円滑に走らせるために敷く細長い鋼材のことをレールという。貨物船、あるいは工事用の船舶の船上には短いレールが敷いてある。おだやかな春の夜なのである。短い二本のレールは満天の星に照らされている。まんまるのお月さまも出ているのかも知れない。
考ふる額の尖りゆく朧 髙勢祥子
習慣や先例を参考に判断することを「考ふ」という。つまり、ひだりへ行くかみぎに行くか決めることなのである。決めるとき額はどんどん尖っていくのだ。いくら額が尖ってみても、そうやすやすと真実を知ることはできない。要するに、何が何だかわからなくなっていくのである。それを「考ふ」というのだ。
春眠のピーナッツ袋置いてきし 髙勢祥子
春の夜は短く、眠りはここちよい。だから、考えることを忘れる。だから、ピーナッツ袋を置いてきたのである。忘れたのではない、置いてきたのである。
ピーナッツのことを南京豆という。落花生ともいう。南米原産で東アジアを経由して江戸時代に日本に持ち込まれたものだという。
パンケーキ来るまで白きチューリップ 髙勢祥子
パンケーキが届いたらチューリップの花のいろが変わるのかも知れない。それとも、変わらないのかも知れない。パンケーキが届くまで何も考えず、取り敢えず、待ってみようと決めたのである。
チューリップのいろが変わるなどと、誰も思ってはいない。いろが変わることなど、誰も願っていない。だから、待つ時間を得ようとするのである。待つ時間があるということは大切なことなのである。
朝寝して軀に裏と表あり 髙勢祥子
いつまでも寝ていることができる。いつまでも寝床から離れたくない。そんなとき、軀に裏と表のあることが気になったのである。ひとは健康なときは何も感じない。頭が痛いときに、はじめて頭のことを意識する。胃の調子がわるいときに、胃のある場所に手を当てる。
作者は、朝寝したからこそ軀に裏と表のあることに気づいたのである。
春の風邪遠くで喋つてゐる会議 髙勢祥子
無理して会議に出ている。会議があるから出社したのかも知れない。遠くで喋っているのを聞いているのだから担当者ではないのだろう。取り敢えず出席して会議の内容を知っておけばいい。その程度のことなのだろう。
遠くで喋っているように聞えるほど体調がわるい。出席というアリバイ作りも必要なことなのかも知れない。
うしろより耳朶透けてゆく春日かな 髙勢祥子
目の前にひとがいる。そのひとは前を向いている。表情はわからないが、うしろの耳朶が気になった。耳朶を見ていると、だんだんと透けてくる。そのひとの前の風景が見えてくる。春日のなかの風景が見えてくる。そのひとの考えていることが見えてくる。
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神楽坂俳句会で川村蘭太氏から、昨年刊行された「横光利一句集」(宇佐市民図書館)を見せてもらった。横光の死後、追悼のため高浜虚子らが計画し戦後の混乱のなかで中止になったものだという。序文が、高浜虚子、久米正雄、水原秋櫻子であり、石塚友二による二百六十八句選の句集である。
横光利一の本といえば、「『菜種』昭和十六年三月二十日、甲鳥書林刊」と「改造社名作選『旅愁』第一篇から四篇、昭和二十一年一月二十日、改造社刊」を持っている。もう一冊、「新潮文庫『家族会議』昭和四十九年一月三十日、三十四刷、解説、佐々木基一」がある。この文庫本には思い出がある。昭和五十二年、私は「多田裕計論」を書くため福井県立図書館へ行った。その帰りに三国へ寄ったとき「福井県三国町『よしかわ駅前店』」という書店で見つけて買ったものである。多田裕計の故郷で、横光利一の文庫本を買った。ただ、それだけのことなのではあるが。
これで、私の書棚に「横光利一句集」が並ぶことになる。
2019-04-14
【週俳3月の俳句を読む】雑文書いて日が暮れてⅪ 瀬戸正洋
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