【週俳3月の俳句を読む】
気づきの余地
木村オサム
一つの極論だが、俳句は「気づき」であると思う。我々が生きている中で出会うさまざまな情景の中に、何か新たな気づきがあった時、俳句は生まれる。さすがに、江戸~明治~大正~昭和~平成と時間を重ねていく中で、もうすでに多くの気づきが俳句化されてしまい、令和の時代に、もう新たな気づきの余地は少ないのではないか?そんなことを思っている時に、ちょうど週刊俳句3月号の句を読ませていただいた。そして思った。いやいや俳句に新たな気づきの余地はまだまだある、と。
卒業や呼ばれてわたしだと気づく 加藤綾那
私自身、学生生活の中で大勢の生徒がいる前で表彰されたり、任命されたりすることなどほとんどなかった。そんな者にとって、卒業証書授与の際、名前を呼ばれて前に進み出て、証書を受け取る事は、ちょっと不思議な時間なのである。名前を呼ばれることによって、自分が二つに分かれるのである。「本当の自分」が幽体離脱して、真上からぼうっと、かしこまってお辞儀などしている「名前の自分」を眺めている。多感な青春時代だからこそ気づく「わたし」の曖昧性なのである。
恋をしてつるつるの鼻かわず鳴く 加藤綾那
なぜかわからないが、恋する乙女が、鼻がつるつるになっていることに気づいてしまったのである。誰もそんなことには気づくこともなかろうが、畦に潜む蛙には気づかれてしまった…そんな気がしないでもないのである。
墜落の蝶に真白き昼ありぬ 安田中彦
虫の眼から見える花の色は人間が見る花の色とは全く異なるらしい。(以前「チコちゃんに叱られる」で観ました。)そして、蝶が力尽き、地面に墜落していく時に見ている最後の空間は、天界を想像させる白一色。掲句は、作者が蝶の視覚というものに気づき、生まれた一句なのである。
犬を野に不満の春をどうしよう 安田中彦
久しぶりに犬を散歩に連れて行って、リードを解き、広い野原に放ってやったのである。犬は喜びいさんで駆けまわっている。作者はその瞬間ふともう自分には、何もかも放り出し気ままに生きる自由などほぼ無い立場であることに気づいてしまったのである。
落椿地(つち)の起伏のあきらかに 広渡敬雄
地面すれすれの低い位置から落椿を眺めているのである。すると椿のことよりも、その周辺の地面に微妙な起伏があることに気づいたのである。もうこうなると地球の表面がミクロ的には起伏だらけであることが気になって気になって仕方ないのである。
偽物は少し大きく春ショール 高勢祥子
「世の中には色々な偽物が出回っている。そしてたいてい偽物は本物より微妙に大雑把で、模様にしてもサイズにしても微妙に大きい場合が多いのではないか…」少し暖かくなって、有名ブランドのまがい物のショールを巻いて出掛けたある春の日、作者はふと、そんなどうでもいい法則に気づいたのである。
2019-04-14
【週俳3月の俳句を読む】気づきの余地 木村オサム
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