【句集を読む】
薔薇と軍艦
金丸和代『半裸の木』を読む
西原天気
いわゆる「二物衝撃」との用語が宛てられることばの作用は、俳句において、今もひとつの大きな魅力だし、未来もきっとそうだろう。何億回、何兆回、言い古されようが、ミシンと蝙蝠傘は出会い続け、句は解剖台であり続けるはずだ(そうであってほしい)。
ただ、俳句は、培われてきたマナーのせいかスタイルのせいか、それほど大仰に劇的に、あるいは衝撃として、出会いを取り扱わなかったりする。
二十分で見慣るる薔薇も軍艦も 金丸和代
薔薇と軍艦が、例えば日常会話のひとつの話題にのぼることは少ないだろうし、範疇としても組成として質感としても、互いに近くにはない。さりとて対照的でもない。ここにふたつがあるのは、たまたまだ。作者の口吻において、想念において、あるいは能記において、偶然のように(美しく)同居した。ついでにいえば、「二十分」という時間の長さににも、背景や理由は見つかりそうにない。
薔薇と軍艦は、たまたま、ここに、読者の目の前に並んでいる。放っておかれている(放置とは、背景や理由の欠如/脱落からくる、ある種自由な状態)。だが、ここで作者は、薔薇と軍艦の同居についてべつだん驚くわけではないし、そこに感動を生みたいわけでもないらしい。だって、「見慣れてしまう」のだから。
句集『半裸の木』には、飛距離のある二物の同居が多く見つかる。
北極の細る世紀や桜餅 同
百年単位の自然の変化と目前の、あるいは口中の桜餅。作者の住む神奈川県と北極とは7,000キロメートル近く離れている。
ポストに音水平線の凍みにけり 同
この句にも、飛距離がある。「音」が届くくらいの近さと水平線のはるけさ。ただ、《一物》から別の遠い《一物》へと到るに、なにかしらヒント、というか取っ掛かりがあって、この句の場合は、郵便というもののもつ移動の距離感が句全体に響いている。ただ、ことばの飛距離を生み出しているのは「音」なのだ。
蘭鋳は過剰の二乗ぷらす泡 同
二物衝撃とはちょっと違うが、取っ掛かりという点で、おもしろい句。「蘭鋳は過剰だよなあ」とは誰もが思う。そこから「二乗」。数式へと連想。「ぷらす」の表記が楽しい。「ぷ」の右肩の丸が泡みたいで楽しい。このあたりは、なにげないけれど、すばらしい遊び心・サービス精神。
ヒントや取っ掛かりが見つからない句もある。
ハイソックスとスカートの間鮫通る 同
これって「絶対領域」と呼ばれる箇所でしょう? そこをなぜか鮫がよぎる。
公民館の青いスリッパ初夢に 同
いやに現実的な夢を見たあとは、荒唐無稽な夢よりも恥ずかしかったりする。同時に、不思議だったりする。それにしても「公民館の青いスリッパ」とは。このスリッパは、はたして現実的なのか荒唐無稽なのか。
星月星一直線や蛇出でて 同
この句の蛇は目の前に出てきた蛇なのだろう。けれども、(想像上の)コスモロジーのようにも思えてくる。夜空の壮大さが、「蛇」という(しばしば象徴性・神話性をまとう)事物によって、また別の壮大さを手に入れる。
ほかにもおもしろい句、たのしい句がすくなからずあるのですが、これくらいにしておきますね。
乱文乱筆ご容赦。ラヴ&ピース!
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