2019-05-05

【空へゆく階段】№11 雑詠鑑賞 田中裕明

【空へゆく階段】№11
雑詠鑑賞

田中裕明
「青」1982年5月号・掲載

深夜の交差点をぐるぐると何度もまわっているうちにわたしは何人ものわたしになって、そのうちの一人が俳句読者などというものは本当に存在するのだろうかと、長い間胸に抱いてきた疑問を言うように言う。あるいはこういうことが夢なのかもしれない。

近代的読者という意味での読者が俳句という文学の領域において見あたらないことは既に述べたけれども、俳句の読者とはいったい誰なのかもう一度問いなおしてみたい。発句の独立性が意識されはじめた頃の作者と読者の関係はまだ主客の関係だったと言えて、主人ならば客のことを考えずに一方的な挨拶をするわけにはゆかないし、またただもてなしを受けているだけでは客は客でなくなる。このような主客の関係がいまも俳句の作者と読者の間にあるとすれば、俳句は詩を作る人が詩を読むという意味をこえた読者を持っていることになる。主客の関係はいつでもたやすく逆転するので、主人から客への挨拶と客から主人へのそれは本質的に何ら変わりがない。これは作者と読者が未分離の状態にあるというよりももっとほかにうまい言い方がありそうに思えて、そのときに作者と読者が畳敷きの小さなへやに向いあって坐っているような気がする。またべつの部屋を思いうかべればそこには数人が車座になっていて、そうなれば誰が作者で誰が読者という区別はない。

俳句を作者とは全く違ったコンテクストにおいて読むということから作者と読者がこんんなに離れた文学はほかにないのではないかという、それまでの私のものと正反対ともひびく意見を聞いたときにまず浮かんだのは、俳句読者が別の読み方をするとは別の俳句を作ると言ってもかまわなくて、近代的読者になりえないとは一つの作品をはさんで作者と読者が近いということを意味するのではないという考えである。一句をはさんで作者と読者の距離は絶望的に遠いけれども、読者がすなわち作者であるという意味において主客の区別をなくすことが可能となる。

  緋蕪を牛に食はせて雪まろげ  栄子

作者としてわたしたちはまだ読者を信用しているけれども、読者としてのわたしたちは作者を信用していない。そのようなことがある筈はなくて、そもそも作者と読者にわたしたちを分割できると考えること自体がおかしいとも言える。だから作者であるわたしたちが読者になると言えばそれは犬が猫になったような印象を与えかねないが、変化とはつまり持続にほかならないから、わたしたちは俳句を作る者でありつづけることによって俳句読者になるし、またほかになりようがない。

掲出の句について言えば、わたしたちは何故下五に雪まろげという言葉があるかを作者として知っている。あるいは読者としてその理由を知らないとは言えなくて、それがどれくらい知っているかを言えば知っていることを言う必要がないくらい、おかしな言い方すれば知らないと行っていいくらいに知っているのである。これを作者と読者の暗黙の了解事項と言うのはつまらないので、本来同一のものである作者と読者が偶々ひとつずつ頭を持っていると行っておく。しかしまた、たとえ知っていたところでこの雪まろげという季語の唐突さから飛躍という言葉が浮んで、作者が読者にそれも作者でありつづけることによってなるというのは飛躍に違いないという気になる。ついでにこの飛躍から創造的進化という言葉にも思いがおよぶ。

  鯉喰ひしばかりに冬のさるすべり  ヒロシ

心の動きそれも俳句を読んだときの心のうごきを考えるときにも、ひきつづいて飛躍という言葉が頭にのこっているわけで、創造とは飛躍なしにはありえないとすれば俳句を読むときに忘我の瞬間がおとずれることがある。変化は繰りかえしであると言えば四季の変化のようなことを考えているわけで、このように変化が持続であると言うようにわたしたちは作品の世界に持続的に浸ってゆくのではないから飛躍ということになり、そこに創造がある。もういちど言えば飛躍とはわれを忘れることだから気がつけば詩のつくりだした世界の中にひとりいるとしても、実際には作品とわたしたちの関係には持続的な変化が、それこそ夜が朝になるような変化があった筈である。この実際にはという言葉が曲者で、もちろんそのようなものはないのだがそれを言わなければ考えるということの意味がなくなる。目が覚めれば朝だったというぐあいにわたしたちは詩を読むから、また夜がしだいに明けて朝になるので朝がわたしたちに親しいものであることを知っているから、少しずつ詩に近づくことによって詩が親しいものになると思う。しかしそういうことはないので、ここでまた飛躍という言葉をくりかえす必要があるだろうか。

朝と同じくらいあるいはそれ以上に夜がわたしたちにとって親しいことを考えてみれば、変化という言葉の意味がはっきりする。詩を読む前と読んだあとで自分がまったく別のものになっていることに気づくような幸福はなかなか得られないように思われるが、読む前後で読者がまったく同じものであるような詩がありうるかを考えればよい。朝が来るのを知らなければ朝になってもそれとわからないということもあるだろうし、また朝になることを知っていても朝は来るたびにあたらしい。

詩を読む行為を夜明けにたとえるのと同じことを述べてきたけれども、わたしたちはまだ夜にいるのではないかという意識がどこかにあって、しかもこの夜ははたして朝になるのかこころもとないこと甚しい。だからわが俳句読者は深い夜をぐるぐるとめぐっているのかもしれなくて、また読むことと俳句を作ることが同じであると言う必要はもうない。


解題:対中いずみ

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