神上がりましぬ
中島夜汽車句集『銀幕』の一句
岡村知昭
吹雪てふ鷹老いて神上がりましぬ 中島夜汽車
(『銀幕』二〇一四年 書肆蜃気楼)
「神上がり」を検索してみると「神上がる(かむあがる)」と出てきて、意味は「神として天に昇る」。そこから転じて、多くの場合は天皇はじめ皇族の死を現す言葉として使われているのだそうである。
しかし、この一句で描かれているのは、天皇でも皇族でもなく、それどころか人ですらない。「吹雪」という名こそ与えられてはいるものの、つまるところは一羽の鷹にすぎない。にもかかわらず、「神上がりましぬ」と天皇・皇族に使われるはずの言葉によってその死を嘆じられているのは、ほかならぬ「吹雪」という名の一羽の鷹なのである。
世が世ならば、鳥ごとき鷹ごときに「神上がる」を使うなど、ふさわしくないどころか不敬の誹りを受けてもおかしくはない(現在も意外とそのあたりは変わりないのかもしれないが)。しかし「神上がりましぬ」としか「吹雪」の死を嘆じることができない、いや、そのように嘆じなければならないほどに、この人物が「吹雪」の死によせる悲しみは深く、大きい。
そして「吹雪」の死を目の当たりにした悲しみからもたらされた深く大きな嘆息は、この一句全体に通奏低音となって鳴り響いているのである。
若かりし日にはおそらく、鋭い風貌、鋭いまなざし、鋭い嗅覚、鋭い四肢と爪をもって、数多くの獲物を捕らえ、わがものとしたであろう「吹雪」という名の鷹。齢を重ねて、まなざしも四肢も翼も衰え、ついに死のときを迎えた「吹雪」。
しかし、この人物の目の前には、死してもなお若かりし日と変わることなく、鷹としての雄姿を示し続ける「吹雪」がいる。骸ではない「吹雪」がいる。死してなお「吹雪」は、そのたくましさ、強さ、威厳の残像によって、この人物の心を震わせる存在としてあり続けている。「神上がりましぬ」との嘆息は「吹雪」に対しての最大の賛辞であり、弔意であり、深い慟哭であるのだ。
だがこのとき、この人物の心を占めているものは、はたして「吹雪」の死への嘆息のみにとどまるのだろうか、とも考えてしまう。
通常の使われ方とは大きく異なるのは承知の上で、「吹雪」と名付けられた鷹の死を「神上がりましぬ」と嘆じ、「吹雪」は神となって天へ昇っていったのだ、と断定するこの人物が、人の世における「貴種」とされる存在、「貴種」は無条件で崇め奉らなければならないと定められたシステムに対して、反抗心をくすぶらせているとしても、決しておかしくはないのである。
この一句をはじめて句会で見たとき、「神上がりましぬ」がどうしても分からなくて、一句としての立ち姿が魅力的でありながらも、なかなかイメージをつかみ切れず、結局、選から外してしまった記憶がいまなお残っている。
「神上がりましぬ」の意味が分かった今となっては「取りこぼした」という気持ちになるのだが、まあ、この種のことは句会ではよくある話ではある。だが、ようやくこの一句のイメージをつかめたかもしれないというのに、拙いながらの自分の鑑賞を、もう作者には伝えられないという現実。これもまた「よくある話」としてしまえば、それまでなのではあるのだが。
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2019-05-05
神上がりましぬ ~中島夜汽車句集『銀幕』の一句~ 岡村知昭
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