【週俳4月の俳句を読む】
チューリップ
彌榮浩樹
チューリップ散つて校舎の影が凸 金丸和代
散るときの贖罪めきてチューリップ 常原拓
をとうとも四十路でありぬチューリップ 佐藤りえ
わずか十七音の、同じく「チューリップ」を詠み込んだ作品でありながら、三者三様の個性が露出するその様相を、とても興味深く感じた。
金丸和代さんの句。
はじめ「校舎の影が凸」とは何を表現しているのかピンと来ず一瞬戸惑ったのだが、“地面に映った校舎の影が凸の形をしている”2次元の写影を表現したものだろうと思い至り、納得した。チューリップの花の硬質な色彩の点在と、校舎の影のモノクロームな凸型との、組み合わせのドラマだ。
今回の金丸さんの十句は、どれも“空間的な質感の機微”を味わうべきもので、それぞれに位置関係や素材の肌触りにドラマが潜んでいて、さらにそこに季語が大きな時空を呼び込むことで、全体に“明るいけだるさ”を感じさせる世界が立ち上がっている。
掲句、「散つて」というドラマが句の味わいになっているし、最後に「校舎の影が凸」と句の触感が収束する爽快感を感じさせる、その前の伏線として、「散つて」といったん感覚を開放している、その一句全体の“措辞の触感のドラマ”を首肯できるのだが、例えば「チューリップならぶ校舎の影が凸」等のように、“散らないドラマ”というのもチューリップの場合にはありかな、と感じもした。あの立ち姿そのものにすでにドラマがあるのではないか、それと「校舎の影が凸」との3次元的な交響もまた掲句とは別の濃厚な味わいがありうるだろう、と、金丸さんの句を楽しみつつ事後的に感じたりもしたのであった。
常原拓さんの句。
今回の常原さんの十句は、おおむね<季語×印象的な景>というなりたちをしているが、その中で、掲句だけが、十七音ぜんたいで「チューリップ」のありようを描出するいわゆる一元句であるのだけれども、やはりこの句も、モティーフは<チューリップ×贖罪>という二元的構造の詩的感興によるものだろう、と僕は感じる。一句ぜんたいが、うっすらとグロテスクさをまとった(うっすらと可笑しい)オブジェっぽく仕上がっていることは、他の九句にも共通する、今回の常原さんの作品群の個性的な風貌だ。
掲句は、やや晦渋だと僕は感じる。「散るときの」の「散る」という現在形(原形?)が、「チューリップ」の具体的なイメージを立ちあげないのだ。例えば「散りし」「散れる」等、<時間>を明示すればそのイメージは鮮明になるのだろう。しかし、そうすると今度は、掲句の持つ<原理>的な魅力的な味わいは消えてしまうだろう。難しいところだ。などと、勝手に悩ましい思いを抱いたりしている。
あるいは、「散る」と「贖」とが、「散る」と「罪」とが、ほんの少し過干渉を起こして「贖罪」と「チューリップ」との塊としての詩的イメージの量感をやや減衰しているのかもしれない。散る以前からすでに「チューリップ」とは「贖罪」のかたちなのではないだろうか。常原さんの句に触発されて、そんな思いに至っている。
佐藤りえさんの句。
「をとうとも四十路でありぬ」という措辞は、佐藤さんの今回の十句に共通する、人事を中心としたこの世の生の営みのいわば<皺>を描出したもので、味わい深い。
可笑しいといえば可笑しいし、哀しいといえば哀しいし、ナンセンスといえばナンセンスな、<皺>。
どの句も、主観的な抒情の露わな表出ではないけれど、単なる客観的な景の描出でもない、匂いや体温を纏った<皺>の、造型的な提示である。
掲句は、その<皺>に「チューリップ」が加わる。<皺>を「チューリップ」が受ける。その“深度”が、ちょうどよい気がする。「三十路」では浅いし、「五十路」では熟しすぎ。「四十路」と「チューリップ」が絶妙に合う。
例えば「いもうとも四十路でありぬチューリップ」でも遜色ないと思うが、「をとうとも」に何の文句もない。
と、句の鑑賞はどうしても「をとうと=四十路」と「チューリップ」との組み合わせをめぐる意味の次元を中心にした語りになってしまうのだが、完成した俳句作品の鍵となっているのは、例えば、「をとうとも」のひらがなの明るさ・開放感であったり、それを「でありぬ」の措辞が明るさを保ちつつ確かに収束する触感・質感であったり、なのだろう。そうした措辞の帯びている身体感覚と「チューリップ」の質感との双方向の交歓・交響。そこに、「をとうとも四十路でありぬ」と「チューリップ」とのマリアージュの鍵があるのだと思う。
第625号 2019年4月14日
2019-05-12
【週俳4月の俳句を読む】チューリップ 彌榮浩樹
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