【句集を読む】
異形の傾(かぶ)きと軋み
佐藤りえ『景色』を読む
西原天気
いわゆる俳句らしい俳句、メインストリーム的な俳句と、措定っぽく、オーソドキシーを仮想することにあまり意味がなく、また危ういことは承知の上で、そうした「俳句」があるとして、いや、まあ、あるだろう、カジュアルにいえば、よく目にする俳句、優劣好悪は別にして、俳句と聞いて世間一般が思い浮かべるような俳句。
一方、そこから遠い位置にある句群はたしかあって、佐藤りえ句集『景色』も、そのひとつ。
一読、この句集は、俳句と思わないほうがいい、といった感想を軽はずみにも抱いてしまったそこに、価値判断の意味合いはない(つまり「これは俳句ではない」といった排他でもなく「俳句を超えたもの」といった礼賛でもない)。
反=俳句、非=俳句とまでは言わないにしても、冒頭に述べた「俳句らしい俳句」からは距離を置いた句群との感想をもったのは、ひとつには、無季の句を少なからず含み、かつ、それらが有季の句に増して秀逸であること。
あるいは、「科学的」な素材。
アストロノート蒟蒻を食ふ訓練 佐藤りえ(以下同)
西方のあれは非破壊検査光
あるいは、マボロシのような美しいシーン。
バスに乗るイソギンチャクのよい睡り
またバスに乗る透明な火を抱いて
あるいは、批評的/メタ俳句的な一句。
ここへ来て滝と呼ばれてゐる水よ
さらには、異形的な事物。
人工を恥ぢて人工知能泣く
人間に書けない文字や未草
かはほりに歌ををしへる女のありき
いずれも、人間の範疇と非=人間の範疇のはざま/境界/閾を思わせる。
人の道すれすれに行く傾(かぶ)きの覚悟は情事の最中にも発揮される。
望月に小便かかる体位かな
雅な季語「望月」へのこの態度・この所業にはちょっとにんまりしてしまう(悪いって素敵ですね)。
つらつらと挙げてきた句群、「俳句の国」から逃亡/脱出するかのような句群を、私自身、たいそう楽しんだのですが、きっと、この句集は、たくさんの善良な俳句(俳句のオーソドキシー)とは、遠い関係でいる、というより、それらとの関係において摩擦や軋みを生じ続けるのだろうな、と思います。
露霜や此の世はよその家ばかり
作者にはこれからもストレンジャーであり続けてほしいと、読者の身勝手として思ったことですよ。
佐藤りえ『景色』2018年11月/六花書林
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