【歩けば異界】③
大滝町
柴田千晶
初出:『俳壇』2017年5月号「地名を歩く」
柏木田、皆ヶ作、安浦。昭和の中頃辺りまで、横須賀には三つの遊里があった。最も有名なのは、山口瞳の小説『血族』に登場する柏木田遊郭だが、その前身となる遊郭が幕末の大滝町にあった。
子どもの頃、大滝町は横須賀でいちばん華やかな町だった。デパートや映画館がある町。家族で余所行きの服を着て出かける町。だが時代とともに町は寂れてゆき、緑屋が消え、丸井が消え、さいか屋大通り館が消え、4つほどあった映画館もすべて消えて、最後に残った成人映画館「金星劇場」も2012年に閉館した。
商業施設が次々と消えてゆく町で、三笠ビル商店街だけは今も賑わっている。
軍艦三笠を彷彿とさせる鉄筋コンクリート四階建ての商店街。一階は通路になっており、通り抜けができる。
この商店街には不思議な空間がある。
ドブ板通り方面から商店街に入ると、中ほどの左側にある地球堂靴店の脇に短い横道が現れる。真っ赤に塗られた通路に、てらてら光る白ペンキで「参道」とあり、硝子張りの引き戸に突き当たる。商店街の裏側は豊川山の崖。その中腹に豊川稲荷がある。硝子戸はお稲荷さんの入口になっている。
異界への扉のような硝子戸を開けると、豊川山に上る長い石段が現れる。
赤い手摺りを摑んで石段を上る。途中、生白い女の足とすれ違ったような気がした。はっとふり向くと、女の姿は見当たらず、石段の麓に白い紫陽花が揺れている。少し開いた硝子戸から、赤い参道が見えている。
百七十段を上ると、ようやく山門に辿り着く。山門をくぐり、境内から横須賀の町を一望する。
大昔、豊川山の真下はすぐ海岸線で、豊川稲荷の辺りから大きな滝が海に落ちていたという。
幕臣小栗上野介による横須賀製鉄所の建設が始まり、慶応2年に滝は埋め立てられ、翌年そこに遊郭が作られた。軍港の歴史と遊女たちの肢体が重なる。
明治21年の大火により大滝町遊郭は消滅し、遊郭は柏木田に移転した。
横須賀市史年表には、「明治22年(1889)6月、柏木田田圃を埋立てここに大滝町遊郭を移す」と、一行あるのみで、遊女たちの消息はどこにも記されていない。
滝が消えて、遊女たちが消えて、軍港だけが残った。
横須賀中央駅東口のYデッキから中央大通りを見下ろす。
山口百恵の「横須賀ストーリー」の駅メロが流れる夕闇に、ふいに怒号のような滝音がして、三笠ビル商店街の裏、豊川山の中腹に、巨大な山椒魚のような隧道が現れる。
隧道の赤い闇の向こう側に、お稲荷さんの石段を素足で上ってゆく、艶やかな遊女たちがゆらゆらと見える。
はんざきの傷くれなゐにひらく夜 飯島晴子
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