【句集を読む】
ガスの火のあとさき
小川軽舟句集『朝晩』の一句
西原天気
俳句においては「神は些事に宿る」とばかりに、些細なこと、なにげないこと、特別でないふつうのことが、多く詠まれます。
ガスの火は穴に引つ込み春浅し 小川軽舟
一般的言説では「だから何?」といった反応を呼ぶようなことが(世間は実用や意義をもとめます。貧しく直接的に、あるときは病的なまでに)、俳句では尊ばれる。無数の些事が共鳴しあうことが世界の豊かさであること、些事が降り積むことこそが時間の哀れであることを、俳句は知っているとでも言うかのように。
掲句。
秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな 中村汀女
と対を成しているわけですが(ガスの火のはじめと終わり)、ガスの栓を締めるときに繰り返された/繰り返されるこの事象を、わざわざインクの染みとして定着させる作法は、俳句だけがもつ神々しさであると、私などは本気で思っているのですよ。
句集『朝晩』より、些事を扱う神々しい所作は他に、
手にゆるく包む画鋲や秋はじめ 小川軽舟
まるめたる銀紙軽き花見かな 同
夏負けやタイルに響く便所下駄 同
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ここからは余談。
よい話、たのしい話ではないので、ここに書くのは憚れたが、ちょっと驚いた、というか、気になること、ひとつ。
句集の帯に、著者の「あとがき」から一文を引いて、「句集名の『朝晩』は文字通り朝と晩であるとともに、いつも、常々、日々の暮らしの中で、という意味合いが込められている」とある。
後半の「いつも、常々、日々の暮らしの中で」は「込め」なくても、「朝晩」という語にもともと備わった辞書的な意味。それを帯に大書して説明しなくてはいけないところまで、私たち読者の日本語読解レベルは落ちちゃったのかなあ、とびっくりしたのですよ。まあ、こだわるようなことではないといえば、ないのですが。
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