2019-07-07

『今井杏太郎全句集』を読む会 報告「六月のしるべ」レポート 鴇田智哉

『今井杏太郎全句集』を読む会 報告
「六月のしるべ」レポート
付)今井杏太郎年譜 

鴇田智哉


「六月のしるべ――『今井杏太郎全句集』を読む会」は、

パネリスト:西村麒麟・福田若之・小川楓子・生駒大祐
司会:鴇田智哉

によって、6月23日(日)、月島区民館にて開かれた。

パネリスト4人がそれぞれの観点から『今井杏太郎全句集』を読み、それをもとにディスカッションするという企画である。

以下に、4人の発表についての私(鴇田智哉)のメモ、質疑応答の要約等を書く。

◆「西村麒麟:削らなかった言葉」について ≫読む

■西村氏は、「本当によく晴れてゐて秋の山」は、(仮に自由律の)「秋の山」という句と意味上ほとんど変わらないという。同様に、「春の川おもしろさうに流れけり」は「春の川」とほとんど変わらないという。俳句は省略の文芸、といわれるが、杏太郎の句は省略できる言葉を削っていくと、どんどん削れてしまう。これを示したあと西村氏は、では、これらの句がなぜ面白いのかを考える。

■杏太郎にも、意外性のある句はあり、そうした句は初期に多くてしだいに減少する、後期へ向かうにつれて、杏太郎は意外性から当たり前を好む傾向にあると、西村氏は見る。

この点に関しては、私の見方を少し述べておきたい。

杏太郎のなかでは、意外性と当たり前が意外に同根であったかと思われるのである。たとえば、意外性の例として挙げられた「向日葵をきれいな花と思ひけり」は確かに、意外性がある。ここには杏太郎の、〝あなた方は向日葵を力強く重厚な花、死を感じさせるどぎつい花、だと見るだろうが、私は「きれいな花」だと思うんだよ、どうだい?〟といった、杏太郎ならではの天邪鬼的性質が見られる。

■一方、当たり前の句の例として挙げられた「朝早く起きて涼しき橋ありぬ」は確かに当たり前なのではあるが、西村氏が「通常は暑い昼間に散歩をしていたらふと涼しい橋が、という展開にしがちではないでしょうか」と分析しているように、ここからは〝あなた方は昼の句で展開させるかもしれないが、私は朝の句にするんだよ、だって朝は涼しいだろ?〟という天邪鬼性を見ることもできるのである。

■西村氏は、「杏太郎俳句は、削ることが可能に見える言葉をわざと残しているような印象があ」ると述べる。例として「など」「なにか」「おもしろく」。

確かにこれらは、一般的な俳句添削教室においては削られてしまいそうな言葉たちだ。これに助詞を加えたら、もっと増えるだろう。ただ、助詞を省略すると、杏太郎独特の調べがなくなってしまう。これはこのあとの生駒氏の発表に関連する。

■西村氏は杏太郎の「季語に惚れろ」という言葉に注目している。杏太郎自身たしかに、そういうことをよく言っていた。全句集巻末の「季語索引」を見ても、季語によって句の数に相当の偏りが見られる。句を削っていけば、季語だけが残るんだという話をよくしていた。俳句(十七音)は長いね、とも。俳句は足し算だ、とも。

■西村氏は、杏太郎が、十七文字のすべてに意味を込めなくてもよいという考え方をしていた、と見る。季語の邪魔をしない透明な絵の具を加えて十七文字にしているようだ、とも。

■今回西村氏が作ってくれた杏太郎作品リストは、削れそうな言葉のある句を集めたという。添削してみると面白いかも。「不要な言葉を削らないでいられるのが杏太郎の技術なのかもしれません」と西村氏。

何か別の機会に、この「技術」について西村氏たちと掘り下げられたら面白いことになりそうだ。杏太郎は、俳句が「うまく」見えることを嫌っていた。その杏太郎の「技術」とは具体的にどういうものなのか。いや、どうどう巡りになる可能性はあるが。


「福田若之:そのつど、偶然に出会う――〈老人俳句の杏太郎〉から〈杏太郎俳句の「老人」たち〉へ」について ≫読む

■福田氏は、「老人」を俳句の対象としたのは杏太郎が初めてではないこと、永田耕衣にすでに三人称的かつ一人称的な「老人」のモチーフがあり、やがて同時代の作家に広がり、「鶴」にも波及し、杏太郎まで伝わったと見る。

福田氏のレジュメにおいて、耕衣その外の作家の「老人」句をズラリ見られたのは圧巻。これらの複数の作品の中に、「狂気」をもつ耕衣的老人と、より人間的(?)な老人という大きな二つの流れがあるようだ。「鶴」系の老人はもちろん、後者に属するだろう。

■杏太郎の「老人」は複数である、と福田氏は言う。「老人」が固有名をもちうる存在として、個体として立ち現れている。そういう杏太郎からすれば、「老人の日」と国民的に一括りされる「老人」は個別でないから、杏太郎は嫌ったのではないかとも。

■福田氏は、「存在感」が確立するのは、物が「老人」にあらかじめ折りこまれてはおらず、「老人」たちもまたその物にあらかじめ折りこまれてはいないからだと述べる。それぞれの存在感が偶然の出会いのなかで勝手に、存在感を確立し合う。これは杏太郎俳句の自動詞の多さにもあらわれていると。

自動詞への注目は鋭いと思う。

■福田氏の、杏太郎はイデアとしての「老人」を描いているのでなく、杏太郎の世界には複数の個性的な老人がいる、という観点は面白かった。

私は今まで、どちらかというと、ややイデア寄りで杏太郎の「老人」を解釈していたところがあったが、福田氏の発表を聴いて少し考えが進むことになった。

ドキュメント的でありありとした具体的な個性ではないものの、そのつどの輝きや、そのつど寂しさをたたえた、一句一句にそのつど立ち現れる、一句一句の老人の個性のようなものではないかと、私なりに理解した。

■福田氏は、「老人俳句の杏太郎」ということで切り取ってしまわないために、そうではない読み方の一例を示したという。「老人」と何かが遭遇する、あるいは何かが「老人」に遭遇することにより、互いが触発されたり、相互作用が起きたりする、という観点は面白いと思う。

この点について、私の私見だが、次のような観点を加えると、話がより立体的になるのではないか。

初期の句は老人へのあこがれ度が強い。五十代という年齢を考えても想像できる。その後、あこがれは保たれつつも、実際に自分が老いていくという現象とそれに対する思いとのなかで、杏太郎の「老人」にゆらぎがもたらされていくと思う。

少年は老いて北風に吹かるる」「老いてゆく恋人よ葡萄棚の下」どちらも『海鳴り星』(杏太郎72歳)の句だが、老いを意識する内面のうつろいが思われる。

あこがれ、涼しさ、あたたかさから、さびしさ、寒さ、「葱の匂ふ」といった暗さ、春の遊びあり、楽あり、といった安らかさなどへとニュアンスは移り変わっていく。

「老人」にまつわる相互作用も、「老人に会うて涼しくなりにけり」のときは恐らく「老人」は出会う対象でありつつ自分のそうなりたいあこがれであったが、「老人と老人のゐる寒さかな」はそれこそ自らが老人であるという現象を、あこがれとともに溶かし、包み込んでいるようにも思われる。


◆「小川楓子:今井杏太郎――からだとことば」について
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■小川氏はまず、「半覚醒の混沌としたうす暗い頭の中」で俳句が生まれるという杏太郎の言葉に注目している。

明方の布団の中での「半覚醒の混沌としたうす暗い頭の中」で俳句を作る、という話は、杏太郎自身から聞いたことがある。それで私も実践してみたりした。

杏太郎の文章の中では、「いつ、俳句をつくるか」という話のなかで、この話題になったと。「やあ、僕もそうだよ。朝、醒め際の布団の中だな」と、森澄夫氏が言っていたとのこと。杏太郎だけでなかったらしい。こういうのが流行っていたのだろうか。

■小川氏は、杏太郎の「半覚醒の混沌としたうす暗い頭の中」という言葉と、野口三千三の体の解放と意識のあり方についての言葉を結びつける。

小川氏の話を聞いていて思い出したのだが、杏太郎はたとえば、句のなかで途中の三音足りない、三音の言葉がほしいという状態になったときは、その部分を「フフフ(ン)」みたいにして句全体をときおり口ずさんでいれば、そのうち何か出て来るよ、みたいなことを言っていた。このあと一杯飲めば出てくるよ、とも。

■小川さんの野口体操実演はすばらしかった。ことに、倒れない酔っ払いのしなやかさ、吊皮につかまった状態のふらふら感。体をこんな状態にして「フフフ(ン)」と言っていれば、俳句の推敲に悩むこともなくなるかも。

■小川氏は、「一句の流れは、五・七・五で、プツン、プツンと切られている訳ではなく、体内を流れる血液の流れのようなものである」という杏太郎の考えを取り上げる。
実際杏太郎は、一句のなかの「調べ」を大切にしていた。「切れ」はたいへん意識していたが、これ見よがしの切れは好まなかったようだ。

■小川氏は、杏太郎の句が自分(の体に)合っているという。何の抵抗もなく読める、という。小川氏のなかでは、杏太郎の句、そして杏太郎の散文の言葉は、野口体操と非常に親和性をもって溶け合っているようだ。

杏太郎は、文章にも書いているが、強迫観念みたいなものがよくないことをよく言っていた。句を作るとき先に「秋風や」などと置くべきではない。そんなことをすると、「秋風や」「秋風や」……と延々と唱え続けて、何もできなくなってしまうから、というような話があった。


◆「生駒大祐:杏太郎の切れと助詞―上五の処理を中心にして」について
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■生駒氏は、杏太郎句の上五の最終語の使用率を調べたところ、「助詞」が圧倒的に多く70~85%だった。ちなみに虚子の「五百句」では、助詞66%であり、杏太郎との違いは名詞止めが多いことだったとのこと。上五でちょっと切れて繋がっていくというのが多いとも。「金亀子擲つ闇の深さかな」などのことだと思う。

私の記憶では、杏太郎は実際の結社の指導においても、そうだった。上五が五文字の名詞で、続く言葉がそれを主語とした用言である場合などは、上五が六音になってもいいから「の」などの助詞を入れろ、と言っていた。

■私としては、杏太郎句の上五最終語の「助詞」の使用率の高さの他に、「名詞」の使用率の低さに注目したい。すべての句集において10%未満である。生駒氏は言い忘れてしまったのかもしれない。当日補足すべきだった。

■生駒氏は、杏太郎は五七五ではないと言う。九五三、九三五などが多い。だから「上五」という言い方は適切でないと。杏太郎句の分析において上五の最終語に助詞が多いのは、その次に続いていくことが多いからだと。上五の「の」は下に続くよ、ということでもある。

■生駒氏の、アベカンは「の」が少ない、「の」はクレイジーさが出ないからだという指摘は面白い。

■生駒氏は、杏太郎の上五最後の「の」は、下に続く「の」の場合が多いと述べたが、確かに数からいえばそうである。ただ、私はこれに対して、そうではない例をいちおう示しておく。「春の日のねずみいろしていてふの木」「雨傘の八十八夜明りかな」「八月の水の入つてゐる枕」の「春の日の」「雨傘の」「八月の」などは、私は「の」で切れていると見ている。読者によりその解釈の違う余地はあるが。

■生駒氏は、杏太郎の句は、常に弱い切れでできている句が多いとし、リズムと呼吸でつなげていくと述べる。「東京をあるいてメリークリスマス」は「を」「て」で少し切れながら、つながりながら進んでいく。

■生駒氏の結論「口を閉じると呼吸できない」は逆説的な言い方がユニーク。裏返すと、〝口を軽く開けば口ずさめる〟ともなろうか。

歌である。つぶやき、呼吸をするように音を紡いでいる。

生駒氏の説明によれば、「○○の○○」「○○に○○」という連なりによって、「の」「に」は軽く口をあけることにつながり、口を閉じずに句を読み続けられるという。それが句をなめらかに口ずさませるということにつながるという。

呼吸をするように音をつむいでゆく。

■生駒氏は、「七月の十八日を昼寝せり」の意味のなさ、「し・じ・せ」音感の感じのよさに注目した。また、「いくつもの船がこはれて春をはる」は、長い時間のことを一句の中に圧縮しつつ、でもそれに気づかれない句だと。時間の凝縮がありながら、とうとうとした韻律により、一瞬息を吐いた瞬間に句が読み終わってしまうところの面白さに注目している。

■生駒氏の発表を聞いていて、杏太郎にとって、上五をいかにスムーズに乗り切るかは、大きな関心事だったのではないかと、改めて思った。つなげながら切る、に最も有効なのは「の」である。たとえば「の」で上五を乗り切って中七の途中で「に」「を」「て」などの形は多い。上五、というか句の冒頭部分のことをよく、杏太郎は「イントロ」と言っていた。そんなことも思い出す。


◆質疑応答要約

【Q】今井杏太郎の句の好きなところを聞かせてください?

【A】
福田:「老人に楽あり春にゆふべあり」(『海の岬』)、「老人に楽あり春のゆふべあり」(『風の吹くころ』)の2句の「春に」「春の」が部分的な違いでありながら、決定的な違いに見えてくる。

暮れてきて秋のゆふべになりにけり」(『風の吹くころ』)は、もしかすると「春のゆふべ」でもよいかもしれない。しかし、「秋のゆふべ」となっている。これはたまたまそうなったという感じでもある。他でもありえたなかから何かに絞られていく感じ、偶然がどこかで必然になっていく感じ。この人は「秋のゆふべ」にしたんだなと。そこに魅力がある。平易な言葉で書かれているが、底深いところがあると、そこにひかれている。

生駒:連続性と反復性です。

連続性は、強い切れが少ない、ところ。一句のなかでの連続性です。また、作家として見たときに、同じようなテンションで複数の句が並んでいくことろ。
反復性は、一句のなかでのリフレインなどのこともあるが、複数の句において共通するモチーフ、同じ言葉が繰り返されるところ。

「連続性」「反復性」の反対の意味の言葉を考えてみると、連続性の反対は「切れ」、反復性の反対は「一回性・一句独立」になる。〔「切れ」「一回性・一句独立」は一般的には俳句特有の価値であるはずなのに杏太郎はその反対のことをやっているように見え、:括弧内補足鴇田〕俳句と真逆のことをやっているように見えて、いかにも俳句であることをやっている。その矛盾のようなところから、俳句の不思議、本質が立ち上がってくるところが魅力。

小川:今井杏太郎と自分の親和性を感じるところ。私は、俳句は体だと思っている。力んでいない、健やかなところ。いろいろなエピソードも似ている。

私はもともと阿部完市が好きで俳句を始めたのだが、句は違うようだけれど、何か精神に触れてくるものの心地が似ているように思う。

はくれんの花のまはりの夜が明けぬ」が好き。ひとつの花は小さな世界でありながら、夜が明ける大きな世界を連れてくるというところ。大気までもまとってくるような、ささやかであり、健やかであり、ひろがりのあるような、そうしたところが魅力。


【Q】杏太郎からの影響はありますか?

【A】
鴇田:僕自身は杏太郎の弟子であり、句の形はかなり引き継いでいるところがある。あとは、杏太郎のものの考え方に非常に共鳴した部分があった。ものの考え方と俳句とのつながり。杏太郎は、ものを細かく、分析的に見ていくところがある。

見えてゐるところが冬の峠道」は、当たり前のようで、ちょっとおかしい。見すぎというか、ちょっと異常だ。「こつこつといふ音のして枯るる山」の「こつこつ」とは何か。この句における耳を済ませ方。「ゆふかぜの先にうかんで雀の子」など。

生駒さんは影響を受けていそうだ。

生駒:ある意味すごく影響を受けている。どういうふうに句を立ち上がらせるか。そういう骨格。言葉をどういうふうに構成するか。いかに切れを目立せずに作るかといったところで影響を受けている。

また、杏太郎の句に似ているとか、そういう意味ではなくて、伝統の逆張りをするという意味では、けっこうそういうスタンスの人はあるのではないかと思う。

福田:影響というのとは違うが、すごく勇気づけられる部分がある。奇をてらわないところ、すっと抜けたところをとても感じさせてくれる。猿が木を登ることの面白さ、を言うのは勇気のいることで。やってはいけないことを、より少なく見積もれる、自由になれる感じがする。では、杏太郎みたいな句を作るのかというと、そうではないけれど、やっていけないことはないんだと、非常に勇気づけられる。

小川:認識(無意識?)の底に触れるところがある。阿部完市は不思議な言葉の連なりにより、非意味みたいなところに行くが、杏太郎は平明でありながら、認識(無意識?)の底に触れてくるようなところ。一冊全部読むとそういうことがわかってくる。

麒麟:一句をどれくらいの時間見続けることができるか、というのは僕のなかでの俳句の評価につながる。僕自身がそういう句を目指している。杏太郎の句は長い時間見ることができるので、そういう意味ではいいなと思う。

杏太郎に似た俳句があるか考えたが、あまり思いつかなかった。特に現代だと思いつかない。しいていえば、鴇田さんは似ているかなと。杏太郎との句にひらひらとしたイメージを感じるが、鴇田さんの句にも感じる。解釈を選べところ、解釈を一つに強要しないようなところ。

上野泰「ストーブの中の炎が飛んでをり」とか、細川加賀「寒鯉をぐるぐる巻に新聞紙」とかは、似ているかもしれない。

【Q】「言葉を削らない」作り方だと、類想が生まれやすいというリスクがあると思いますが、いかがでしょう?

秋の田の先づ遠きより刈りはじむ 杏太郎
また一人遠くの葦を刈りはじむ  素十

芋の葉の露が大きくなりにけり  杏太郎
芋の葉の大きな露の割れにけり  湘子

病院の庭広ければ小鳥来る    杏太郎
研究所の空広ければ小鳥かな   裕明

東京をあるいてメリークリスマス 杏太郎
東京を一日歩き諸葛菜      悟朗

類想を怖れない、また自己模倣を怖れないというのは一つの姿勢だと思いますが、私にはできない作り方。

【A】
西村:他人の句と似た類句と、自分の句と似た類句がある。

他人の句と似てしまう確率は、「言葉を削らない」作り方では高いと思う。
秋の田の先づ遠きより刈りはじむ 杏太郎」「また一人遠くの葦を刈りはじむ 素十」などは、2つの句を誰かに見せて、どちらを支持するかと問うことが、問われた人の俳句観を見せることにつながるようで興味深い。これは俳句の宿命だと思って、楽しみたいと思う。

自分の句と似た類句は、僕自身もやりがち。好きな言葉、よく使ってしまう言葉遣いなどがある。作りたいときはどんどん作ってしまうが、まとめて発表するときなどは、類句が多い印象を避けたバランスをとろうとはしている。

福田:杏太郎は類想をおそれない人だったのだろう。自己模倣というのも、自分を真似しているということではないので、外れるだろう。そのとき、そのときで、書いていたら、結果として近似したものが出てきたということであって、自己模倣ということではないと思う。あるいは、自分かかつて書いたものを、明確な意識をもって書き直しているか、そのどちらかではないか。

確かに、素十の句や湘子と一句一句で良し悪しを比べるということになると、杏太郎は苦しい場合もあるかもしれない。しかし、杏太郎を擁護したいところがあって、それは、一句一句で見るよりも、句の集積を見ると、作家として何をやろうとしたかが見えてくるというところ。何をやろうとしているかが、素十や湘子と違うことは明らか。

作品の集積、集まったときに見えてくる何かを、杏太郎は初めから意識的に考えていた人なのではないかと思う。そこに、類想を怖れないでいられる強さがあったのではないか。

小川:杏太郎が「俳話抄」(『今井杏太郎全句集』p328)で次のように言っていますね。

「人間の思考のレベルに、そう特別な差異がみられないことが、世の中の平和につながっている、ということからみれば、たまたま、同じような句が出来たからといって、そう無闇にめくじらを立てるほどのこともない、と思うこともあるが、さりとて、文芸とは創作であることを考えれば、他人の思考を奪取してまで、同じようなものを拵えなければならない理由は存在しない筈である」

「俳句を作る過程でもっとも気をつけなければならないことは、先人のすぐれた作品に触れたとき、そこに使われている言葉にのみ、目を奪われてはなるまい。その時は、ゆっくりと目を閉じて、その言葉のはるか彼方にひろがる作者の心を、存分に思いうかべることが、何よりも大切なことになろう」

「そうすることによって、人真似ではない本当の自分の句をつくることが出来るのではあるまいか」

鴇田:杏太郎自身は、類想・類句を避けよという指導はあまりしなかった。似ているという判断は、案外難しい。ただ、杏太郎の全句を並べてみると、かなり近い句が入っていることも確か。

言葉の向こうにある作者の心、という意味では、杏太郎は句会で、ときおり作者に対して、その句がどのような状況や、どのような思いのなかでできたのかということに注意を払っていた。作者自身からそれを聞こうとしている場面があった。作者とやりとりをし、それをよく聞いたうえで添削するということがよくあった。

【Q】「春の川おもしろさうに流れけり」について、西村麒麟さんが、春の本意を「喜び」とするならば「おもしろさうに」も削ることが可能と発言していましたが、その発言の本意を理解したうえで、〝喜び〟と〝おもしろさうに〟には決定的なズレがあり、そこに読みどころがあるのだと感じています。

なぜ「喜びさうに流れけり」ではイマイチで、「おもしろさうに」の方が確かに一歩踏み込んだ印象になるのか。それを西村麒麟式に言語化するとしたらどうなりますか?

【A】
西村:はっきりと答えが出るものではないと思いますが、たとえば「春の川喜びさうに流れけり」と比べて「春の川おもしろさうに流れけり」の方が上等な気がするとすれば、それはなぜかを考えてみた。

「喜びさうに」よりも「おもしろさうに」の方が、おもしろみがわかりやすい気がする。先ほど僕が杏太郎さんと鴇田さんの句を、ひらひらする感じがすると言ったが、「おもしろさうに」もひらひらした感じがする。「喜びさうな」にはイマイチそれがない。

杏太郎は、「俳句の面白さ」を「意外性」「飛躍性」にあり、「俳句の滑稽さ」は「なんでもないような風景と、それでいて何かありそうな、もやもやとした気配」にあると書いている(『今井杏太郎全句集』p320)が、「喜びさうに」は、杏太郎にいわせれば前者になるのかなあと思う。

鴇田:調べや語感が違うが、もっとも大きな違いは、「喜びさうに」だと主語、つまり「喜ぶ」主体が十中八九「春の川」になるが、「おもしろさうに」だと、おもしろがっている主体が「春の川」である場合と、作者である場合とがあるところだと思う。〝春の川さん(主体)が何かを面白がっているように流れている〟とも読めるし、〝春の川があって、それを見る作者(主体)がその川の流れ方を面白そうだと感じている〟とも読めるところ。

【Q】杏太郎句のなかの自動詞と他動詞について、詳しく知りたい。

【A】
福田:種を土に植えて水をかけると、芽が生えてくる。そのことを「水をかけて根を生やす」という言い方はできる。しかし、杏太郎はたぶんそう考えない。「根が生える」ととらえるだろう。「生える」は自動詞ですね。水をかけて芽が出たことを、「私が水をかけて芽を生やしたのだ」ととらえるか、「芽が(水を勝手に吸って)勝手に生えてきた」ととらえるかの違い。自動詞的と他動詞は、出来事のとらえ方の違い。

その言葉遣いの違いに、ものとものとがどういうふうに世界において共存しているのか、その考え方の違いが出てくるのだと思う。

鴇田:杏太郎自身、結社でのいわば教育的場面においてよく、「花を咲かせて」「雨を降らせて」という言い方は違う、「花が咲く」んだ、「雨が降る」んだと言って指導していた。使役を含めた他動詞的な言い回しでなく、自動詞を使うべきという話は、俳句の世界では(少なくとも私は)よく聞く言葉のように思ってる。杏太郎自身は、「鶴」の先輩からそのあたり叩き込まれたのかもしれない。

ただ、福田氏が自動詞の話を「老人」の句のなかで持ち出したこと、句のなかにおいて、老人と他者が「存在感」を勝手に確立し合うというあり方に、自動詞が大きく働いていることを述べたのは卓見と思う。

【Q】今回の発表は全体的に、〝構築より脱構築の杏太郎句〟という印象を受けました。杏太郎はそれを意識的に行っていたのか、無意識的なのか、意見を聞かせてください。

【A】
生駒:構築・脱構築という言葉が合うかどうかはわかりませんが、既存の俳句のあり方にたいしてのアンチテーゼの意識はあったと思います。〝人がこうやるなら、俺はこうやってやる〟という他人の向うを張っていくという思想は相当強くあるように思う。たとえば、周りがヤンキーだらけだったら、自分は真面目になる。アンチテーゼとして真面目をやる。周りが尖っているとき、自分は尖らないことで逆に尖っている。

【Q】杏太郎はどんな老人だったと思いますか。

【A】
西村:あくまで文章からの想像ですが、やわらかそうに見えて頑固、優しそうに見えて厳しい人。

福田:句のイメージから。些末なことにはっと気づいては、切なくなる、というような思いを繰り返してきた人なのかと思う。「さびしい」「かなしい」という言葉を多く書いているし、それがだんだん増えていくことなどからそう思う。「夏めくはさびしいよ風吹きにけり」みたいに、風が吹けば寂しい、というようなところにまでいってしまうところがある。何事もないと、普通だと思ってしまいがちなことに、はっと肌の毛がなびくみたいに、細い感じ方をする人かなと。

生駒:「濾過フィルター」のイメージ。水をきれいにしようとすればするほど、濾過フィルターはえげつないものになる。炭を通ります、砂利を通ります、砂を通ります……といろいろやってようやくきれいな水が出てくる。できあがった句がとても純粋な言葉でできているので、、フィルターである杏太郎自身は、すごく複雑で、ある意味厳しい人だったのではないかと思う。

小川:なんとなく、阿部完市に似ていたのかな、と思う。金子兜太はいちばん遠そうな人だなあ、という印象がある。句柄として。放埓のように言われているけれど、私が見た印象では、そんな感じではなかった。昔はそうだったのかもしれないけれど。兜太はけっこう繊細なところがあったのではないか。意識的に金子兜太像を作っていたということがあったように思う。逆に鴇田さんへ質問で、杏太郎は杏太郎像のようなものを意識していたと思いますか?

鴇田:杏太郎は、文章からもわかるように、これみよがしに自己主張するのは、好まなかった。ただ、杏太郎像を意識していなかったわけはないと思う。作品に作者名がつく、ということにおいて、敏感であった。句会で添削をする場合も、作者を見て、この人ならばこうだが、別のあなたならこうすべきだ、というような直し方をすることがあった。だから、「今井杏太郎」という名が、自分の作品にもたらす影響は、少なからず考えていたと思う。

金子兜太にかんしては、たしか平成10年ごろと思うが、総合誌に兜太の句が載っているのを見て、杏太郎が「彼は今たいへんだよ」と言っていたことがある。どういうことかというと、兜太は若い時にかなり特徴的な作品や態度をしていた(つまり一つの強烈な金子兜太像を作ってしまった)ので、年を取ってきた今、どのようにすべきかが難しくなっているであろう、ということだった。似たようなことを、他の作家についても聞いた覚えがあるので、杏太郎は、作家像と老いということについて、考えるところがあったのだと思う。

第一句集が五十代後半という遅いデビューの杏太郎から見れば、若いころから活躍していた作家に対しては、人間的に興味があったのかもしれない。

【Q】杏太郎の「ころ」という言葉についてどう思いますか?

【A】
西村:「旅人が通るよ麦の秋のころ」という句。「ころ」は一見、削れるように見える。「ころ」をつけることによって、瞬間を限定しないことになっている。前後の物語をイメージできる余地が残っているところが面白いのだと思う。結局、削れない言葉なのだと思う。

鴇田:印象がゆるむ、というのもある。調べも、風景も。



◆最後に、今井杏太郎のプロフィールを簡単に

※「 」(杏太郎)という部分はすべて『今井杏太郎全句集』所収「随筆・俳論」「俳話抄」からの引用である。

1928(昭和3)年3月27日、千葉県船橋町に生まれる。

1940(昭和15)年、千葉中学校1年生のとき、一級上の大原テルカズに俳句をすすめられる。大原テルカズはのち(1958年)高柳重信の「俳句評論」に参加。将来まったく別のタイプの俳人となる2人がここで出会っていたのは面白いエピソードである。

1950(昭和25)年、千葉医科大学を卒業し、精神科医になる。結婚。

1955(昭和30)年、船医になって貨物船に乗る。「急にどこか遠いところへ行きたくなって、家族を放り出して船乗りとなった」(杏太郎)
「ホトトギス」の俳人だった船長、機関長たちと船上句会を行う。「この時ほど俳句の集中力を高め得た時間を持ったことはかつてなかった」(杏太郎)

1956(昭和31)年、岡山大学医学部精神医学教室に入局、同じ研究室にいた「馬酔木」同人の桑原志朗に指導を受ける。

1969(昭和44)年、田中午次郎に会う。田中午次郎は「鶴」創刊(1937年、石田波郷主宰)に参加した人。田中午次郎に言われて「鶴」に入会。この年、石田波郷は亡くなっている。石塚友二に師事。杏太郎41歳、友二63歳。岸田稚魚、清水基吉、本土みよ治などの御家人句会に参加。「俳句から未来永劫に逃げられないかもという思い」(杏太郎)

1986(昭和61)年、石塚友二没。第1句集『麥藁帽子』刊。稚魚とのスペイン、モロッコの旅(1984年)からの「老人の名はペペ棉の花咲いて」など収録。

1992(平成4年)、第2句集『通草葛』刊。「鳥雲に入りぬそのあとの鳥もまた」「むらさきの色を思うてくさめかな」など収録。「あとがき」には「猿が木から落ちることの意外性を考えているうちに、猿があたり前のように上手に木をのぼることの面白さに気がついた。」と。

1995(平成7)年、「鶴」退会。

1996(平成8)年、6月、中国西域のウルムチへ旅。楼蘭のミイラを見る。この旅で、「魚座」の壁画を見たという話を鴇田は聞いたことがある。年末、スペインのラマンチャへ旅。

1997(平成9)年、「魚座」創刊主宰。前年の旅からの「オリーヴの木に北風の吹きにけり」など収録。鴇田はこのとき「魚座」入会。

1998(平成10)年、世界一周クルーズの客船「飛鳥」に俳句講師として乗船。一カ月半にわたる海の旅へ。その間、旅先から「魚座」誌へ句を送ってくる。

2000(平成12)年、第3句集『海鳴り星』にて第四十四回俳人協会賞受賞。「海亀のうかんで星のひかる夜」「外を見て障子を閉めてをはるなり」など収録。

2005(平成17)年、第4句集『海の岬』刊。「笛を吹く男に影のやや寒う」「東京をあるいてメリークリスマス」など収録。

2006(平成18)年、「魚座」終刊、初めから10年を区切りと決めていたふしがある。

2009(平成21)年、第5句集『風の吹くころ』刊。「風」の句、そして「夢」の句が散見される。「ゆふかぜは扇の風を置いてゆく」「夢に降る木の葉は遠き野にも降り」「繭玉の揺れてゐるそれもまた夢」など収録。

2012(平成24)年6月27日、死去。享年85。

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