2019-07-07

『今井杏太郎全句集』を読む会 削らなかった言葉 西村麒麟

『今井杏太郎全句集』を読む会
削らなかった言葉

西村麒麟


1.秋の山と春の川

本当によく晴れてゐて秋の山 『麥藁帽子』

僕はこの句が杏太郎さんの句の中で一番好きで、初めて読んだ時からずっと気になっています。名句(定義は広いと思いますが)というよりも、不思議句とでも呼ぶ方が似合いそうなこの句の魅力を考えていく事が、なんだか少しだけ杏太郎さんの俳句の魅力に迫れるのではないかと考えています。そうだと良いなと。

句の意味は明快で、秋の山が晴れていて気持ちが良いなというだけの句です。ただ、俳句を省略の文学だと考えると、「本当に」という表現は削られてしまうのではないでしょうか。「いつもより」とか「それなりに」等一見何でも代用が出来そうです。というわけで削ってみます。

本当によく晴れてゐて秋の山

よく晴れてゐて秋の山

「よく晴れてゐて」と「晴れてゐて」はほぼ変わりがないため「よく」も削る事が可能です。なので削ってみましょう。

よく晴れてゐて秋の山

晴れてゐて秋の山

次に「晴れてゐて秋の山」ですが、秋の山の本意を「空気の澄んでいる」とするなら「晴れてゐて」も削る事が出来ないでしょうか。つまり最終的に残るのは「秋の山」だけ。「本当によく晴れてゐて秋の山」と「秋の山」も意味の上においてほとんど変わりはありません。まさかと思いつつ削りましょう。

晴れてゐて秋の山

秋の山

本当に?と思いつつ、どうもそんな気がするんです。

春の川おもしろさうに流れけり 『麥藁帽子』

これも同じタイプの句で、川なので「流れけり」は省略、春の本意を「喜び」「楽」とするなら、「おもしろさうに」も削る事が可能。つまり「春の川」だけが残ります。

春の川おもしろさうに流れけり

春の川

これまた本当に?と思いつつ、やはりそんな気がするんです。僕だけでしょうか。

「本当によく晴れてゐて」や「おもしろさうに流れけり」を強引な表現ではありますが、「削らなかった言葉」と言い表わす事は出来ないでしょうか。

2.意外性と当たり前

次の句には内容に意外性(もしくは飛躍)を含んでいます。

紅梅にしみじみといろありにけり『麥藁帽子』
星空に星が動いてあたたかき『麥藁帽子』
向日葵をきれいな花と思ひけり『麥藁帽子』

特にわかりやすいのが三句の向日葵の句でしょうか。向日葵はゴッホの絵のような、強いエネルギーを感じる夏の花です。この句はその向日葵をどぎつい色ではなく、きれいな花と表現したところに新しさ(意外性)を感じます。

初期に多く見られるこのようなタイプの句(意外性のある句)は次第に減少してゆく印象にあります。「秋の山」より「向日葵」の句の方が何倍も、どう面白いのかを読み手に説明しやすいのに、なぜでしょうか。

次に「当たり前の句」について見ていきます。

朝早く起きて涼しき橋ありぬ『麥藁帽子』

早朝→涼しき は自然な(そのままの)現象で、出来事としての意外性はありません。だって朝早く起きたら普通は涼しいですから。
通常句に詠む場合は次のようにします。暑い昼間に散歩をしていたらふと涼しい感じの橋がナントカ…、そんな展開にしがちではないでしょうか。〈朝早く起きて涼しき橋ありぬ〉ではあまりにそのままです。杏太郎さんはなぜこのように詠んだのでしょうか。

芋の葉の露が大きくなりにけり『麥藁帽子』
ゆらゆらと揺れてあがりし春の月『通草葛』

わかる句です、両方すごくよくわかる句です。そして当たり前です。

「意外性」の句の方が読者にとって内容の面白さ、新しさが指摘しやすいと思いますが(俗な表現ですが、評価されるという意味でも)、杏太郎さんは年代を経るごとに「当たり前」系統の句を好む傾向にあります。

僕には杏太郎さん自身が「意外性」の句よりも「当たり前」の句を上等だと考えていたように思います、あくまで想像でしかないのですが。本人の語る「滑稽」と「面白さ」の違いからそう思いました。

以下は杏太郎さんの言葉から僕がまとめたものです。

・滑稽=なんでもないような風景、それでいて何かありそうなもやもやとした気配。
・面白さ=意外性、飛躍性。

非常に面白いと思うのは、辞書では(広辞苑を参考にしました)おもしろおかしく、巧みに言いなすこと=滑稽であるという考えが一般的ではないでしょうか。

それでいて、自身の滑稽と面白さの違い、そして本人はきっと滑稽をよしとしている。この本人の滑稽の説明こそ、杏太郎さんの魅力をすっきり述べたようなものに見えます。

なんでもないような風景、それでいて何かありそうなもやもやとした気配。

これこそ、杏太郎さんの俳句じゃないですか。

3.言葉を足す作家、例えば秋をと瓜人

削る作家ではなく、言葉を足して使うタイプの作家なら、加倉井秋をや相生垣瓜人辺りが僕にはすぐ思い浮かびます。

加倉井秋を
食卓の鉄砲百合は素つぽをむく『胡桃』
炎天や口から釘を出しては打つ『午後の窓』
初夢にドームがありぬあとは忘れ『午後の窓』

独特な言葉の足された方が魅力的です。

相生垣瓜人
形代をつくづく見たり裏も見る『微茫集』
怖るるに足らざる我を蟹怖る『微茫集』
許されし如く蜘蛛居り許さぬに『明治草』

これらは言い過ぎ(言葉の駄目押し)が魅力となっています。〈許されし如く蜘蛛居り許さぬに〉なんかの下五は建長寺でも円覚寺でも、何でも置こうと思えば可能です。それなのに駄目押しの「許さぬに」とは…。でも、もちろんそこが面白いのです。

4.杏太郎の場合

杏太郎俳句は、削る事が可能に見える言葉をわざと残しているような印象があります。

船宿に籠枕などありにけり 『通草葛』
舟に乗る夢などを見て明易き『通草葛』
昼寝などしてをればひと来りけり『通草葛』

「など」が削れそう(省略可能)に見えますが、「など」により一句をぼかす(明瞭としない)効果を狙ったのでしょうね。

花守のなにかを言うて帰りけり『麥藁帽子』
山茶花のほかになにかがこぼれけり『麥藁帽子』

「なにか」って。

蜻蛉の生れたることおもしろく『麥藁帽子』
葱の葉を食べてたのしき日なりけり『通草葛』
うつくしや越後の国の秋のこゑ『海の岬』

感情を言ってしまう。「おもしろく」と書いてしまう。初心者の頃によく「面白いって言わずに面白いと表現なさい」とか言われますよね。

「など」と同じく「なにか」や「おもしろく」等も狙い通り(言葉の効果を)に置かれた言葉のはずです。全句集の印象としては、何も狙ってないよ、という顔をしてきちんと狙う、そういう作家なはずです、杏太郎さんは。

5.削りたくない言葉

戸隠の山から風が吹いて冬『風の吹くころ』以後

を発表した後

戸隠の山から風が吹いて春『風の吹くころ』以後

という句を発表しています、きっとうっかりとかではないと思います。

これらの句で大切なのは「戸隠の山から風が吹いて」に見えます。良いフレーズ思いついたからまた使おうと。

なんだか、だんだんとそうじゃないんじゃないかなと。違うんじゃないかと思ってきました。何か違う。多分。

実はこれらの句で大切なのは「冬」「春」の方ではないか。「戸隠の山から風が吹いて」が冬、春に添えられているんじゃないかと。

冒頭の句も、秋の山、春の川が大切。季語そのものが不思議な光を放っている。「季語に惚れろ」とは杏太郎さんの言葉でした。

季語そのものがフワフワと浮かんで見えてくるように、音が、意味が邪魔にならない言葉を季語にぺたぺたと塗り足すように作っているのではないかと。俳句は十七文字の全てが意味を持つ必要はないのではないでしょうか。そういうこちらを刺激する事も励ます事もない俳句、フワフワとした俳句は、読んでいて疲れないどころか、どこか精神が落ち着くような気すらします。

6.一般的な句の判断基準

一般的(と書くと俗な感じがしますが)な俳句の評価はざっくりと、とても簡単に表すと以下の要素が大切なのではないでしょうか。

①視覚的に美しいか
②聴いて心地よいか
③詩情を感じるか

俳句の評価基準は①〜③のように目、耳、心に響くかどうかが大きな要素としても大きくはズレていないかと思います。

そして、一句に対して読者が「共感」出来る(わかるわかるという感情)かどうかとなると

内容がわかる、理解出来ること(感覚を含め)

が必要とされると言って良いでしょう。

例えば飯田龍太の作品の

どの子にも涼しく風の吹く日かな 『忘音』

は、句の判断基準、共感ともに大きく得られる句と言えます。簡単に言うと、好かれやすい姿の句となります。この句なんかは100人に見せて80人以上は、良いよねと共感を得られるのではないでしょうか。

さて、杏太郎さんの場合はどうでしょうか。

①視覚的に美しいか ②聴いて心地よいかは満たす場合が多い。

耳と目はだいたい条件を満たすのではないでしょうか。ただし問題は心。

③詩情を感じるかどうかは読者によって評価が分かれるかもしれません。

内容がわかる、理解出来ること(感覚を含め)も満たすが、杏太郎俳句をわからないと判断する人は、句の内容はわかるが、当たり前過ぎて面白さがわからない、というタイプの人ではないでしょうか。

わかるものを書きつつ、共感を得ようとはしないところが杏太郎俳句の不思議なところです。

「ひとり言」と「呟き」の違いについて。

この二つの違いは大切です。また本人の言葉から簡単にまとめます(後でまた出てきますが)。

呟き=己自身への語りかけ。
ひとり言=聞いてもらいたい、甘え。

俳句は呟きと言うだけあって、やはりわかってもらおうとすること、大衆のウケを狙う事は好みではなかったのだと想像します。

本当によく晴れてゐて秋の山 『麥藁帽子』

は先に引用した龍太の句に比べて、共感を得られる割合はかなり少ない。わかるけど、わからない(面白さが)句。やはり杏太郎さんは好きな人はたまらなく好きだという熱狂的なファンがいるタイプの作家であって、万民受けするタイプの作家ではないと思います。おもしろさうに流れけり、とか書いたら怒る人、どうしても一定数はいると思うんです。

7.杏太郎の好き、嫌い。

特に面識のない作家をイメージするのに、僕はその人の好きなもの、嫌いなものを俳句とは関係ないところまでノートに書き抜くという作業をする事があります。単にそういう作業が好きだという事もありますが、うまくいくと作家の気配の様なものが匂ってくる事があります。

さて、そんな方法で、杏太郎さんの「好き」「嫌い」を細かく書き抜いてみると何かヒントが見つかるのではと、実際にやってみました。杏太郎さん本人からヒントをいただこうと、ノート一杯に杏太郎の「好き」と「嫌い」を書き出してみました。この作業、結構楽しいです。

好き

呟き=己自身への語りかけ。儚さ。自動詞。揺らぎ。滲み。気配。退屈。無駄な時間。当たり前。風。水。海。何を詠むか。なんでもない、それでいてありそうな。あっさり。簡潔。心でつくる。美しい距離。季語を敬う、季語に惚れる。胡散くさい。調べ。閑=退屈。さびしさ。遥か。夢。老人。軽み=儚さ。さりげなさ。日常。滑稽さ。船。

嫌い

ひとり言=聞いてもらいたい、甘え。シャープ。明瞭。知らない言葉。意味のわからない言葉。いやらしい見立。見たままや見てないものを句に付け足す=余計。拒絶的な。否定的な。意外性。飛躍性。動きまわる。定住、定着。格好のいい言葉。無季。頭でつくる。生もの魚=食。面白がり過ぎ。字あまりは疲れる。ぎゅうぎゅうな表現。奇妙な。わけがわからない。なかりけり、あらざりし、知らざりき、見ざりけり=心が豊かではない。

かなりはっきり好きと嫌いを書いたり発言したりしてくれているので、わりとこの方法が有効な作家だと思いました。

秋の山や春の川の句は、6で書いた句の判断基準や「共感」からも遠いです。「秋の山」だけがひらひらと浮かんでいます。

本当によく晴れてゐて秋の山 『麥藁帽子』

句の評価や共感基準からも離れ、季語だけがひらひらと浮かんで見えてくるような句は、読み手を疲れさせない究極の形なのかもしれません。

8.削らない

一句の不要な言葉を削るのが俳句の技術。

杏太郎の世界では、せかせかした句、人に聞いてもらいたいと言う甘え(ひとり言)、明瞭は好ましくない。ぜひ先程の「嫌い」メモを読み返してみて下さい。

「おもしろさう」「なにか」「おもしろく」「いろいろの」「本当に」「さまざまの」「なんにもせず」「したり」「など」「どことなく」「ころ」「やうなる」「さりげなく」「さびしい」

これらは杏太郎俳句の中で繰り返し使われている表現です。なんというか、削れそうですよね、省略できそうです。

でもこれらが大切な、杏太郎俳句には必要な「削らなかった言葉」です。

一句を完璧な彫刻のように、省略という技術で作り上げることは美しい行為だと思います。でもきっとそれだけじゃない、他の一手もある、予想外な一手が。
もっと素材の美しさをそのまま活かした作り方もあるじゃないかと杏太郎俳句は示してくれます。一句の不要な言葉を削らないでいられる余裕のようなものが、杏太郎さんの技術なのかもしれません。

春の川おもしろさうに流れけり 『麥藁帽子』

おもしろそうに、流れたって面白いわけです。

削らなかった言葉とは、心地よいもの、心地よい言葉と書くと感じが出ないのでやはり、ものと呼びたい。それは音だけでもない。春風や秋風と呼ぶよりもただ風と呼ぶ方が感じが出るように、ただ「心地よいもの」と呼びたい。

掴めないものはやはり掴めないが、風の中に手を入れる行為は実に気持ちいい。

曖昧だけれど、そんな感じ。

https://ameblo.jp/kirin819/entry-12413294851.html?frm=theme

おまけ。僕が前に選んだ杏太郎さん100句です。

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