2019-07-21

〈文学的〉な問いを退けて 神野紗希の時評から考える 福田若之

〈文学的〉な問いを退けて
神野紗希の時評から考える

福田若之


まずは、『俳句』6月号に掲載された神野紗希「ミューズすらいない世界で――俳句とジェンダー(上)」の、小川軽舟の句を引用しながら書かれた箇所を、もう一度、読み返すことからはじめたい。長めに引用する。
 性差別の問題は、個人と言うより社会の問題で、男女にかかわらずその視点を無意識に内在化していることが多い。ふだん意識していないのだから、どこに問題があるか分からない。私自身も、気付いていない問題、自分の犯している過ちはきっとあるだろう。その無意識の暴力は、社会に、句会に、選に、俳句に現れては、誰かの心を削ってゆく。 
子にもらふならば芋煮てくるる嫁  小川軽舟 
「鷹」二〇一六年十一月号掲載の一句。息子が妻をもらうなら、芋を煮てくれるような素朴で優しいお嫁さんがいいなあ。無邪気な願望をほほえましいと受け止める人も多いだろう。しかし私はこういう句を見ると、真綿で首を絞められたような窮屈さを感じる。今も社会に横たわる、家庭的な女性への欲望、保守的な思想を感じる。そうか、やっぱり芋煮てほしいのか。
 そもそも嫁を「もらふ」発想自体が、かつての封建時代の家同士の結婚を思わせる。むしろ時代後れだからこそ「昔はよかったよね」とほほ笑み合いたいのかもしれない。でも、それに「芋煮ますよ」と素直に答えられるほど、日本社会のジェンダーはフラットになっていない。たとえば総務省「社会生活基本調査」(二〇一六年)では、共働き夫婦でさえも、妻の家事負担が夫に比べ約十三倍であることが示されている(一日の炊事・洗濯・掃除の平均時間は夫が14分、妻が180分)。女性のライフスタイルが多様化しつつある現代だが、彼女たちの受けるジェンダーロールの強制は、まだまだ根強いのだ。
 この句は些細な一例だが、現代の俳句に詠まれる女性の姿は往々にして未だに古くさい。それをよしとする俳壇の空気こそが、私の首を真綿で絞める。
(神野紗希「ミューズすらいない世界で――俳句とジェンダー(上)」)
一読してわかることは、そもそも問題の本筋は小川軽舟の句などではない、ということだ。句は、「現代の俳句に詠まれる女性の姿は往々にして未だに古くさい」ということの「些細な一例」にすぎない。


それでは、時評は何を告発しようとしているのか。

句ではない。「それをよしとする俳壇の空気」のほうだ。

なぜ句ではなく「俳壇の空気」が問題だということになるのか。

それは、神野紗希が「性差別の問題は、個人と言うより社会の問題」だという視点に立っているからだ。「社会」に生きるひとりひとりの「個人」ではなく、「社会」そのものを動かしている枠組み、システムこそが問題だということになる。



したがって、たとえば次のような反応は、そもそも、提起された問いを奇妙な方向へずらしてしまっている。
自分は、ここで神野が感じたことを、全面的に首肯する。しかし、ジェンダーの問題とは、また別のことを思う。

それは、こんなにも、俳句に通俗性がフリーパスで存在していいのだろうか、ということだ。
上田信治「それは通俗性の問題ではないか?」。太字は原文どおり)
「通俗性」についての問いが、「ジェンダーの問題とは、また別のこと」だとするなら、「それは通俗性の問題ではないか?」という曖昧な指示代名詞を含んだタイトルは、読者を誤った認識へとミスリードしてしまうように感じる。すなわち、「現代の俳句に詠まれる女性の姿」が「往々にして未だに古くさい」のは、個々の句の「通俗性」の問題であって、それを批判していきさえすれば、神野紗希が感じるという「真綿で首を絞められたような窮屈さ」はなくなる――あるいは、かなりの程度緩和される――と。

そうではない。そんなわけがない。

よしんば俳句に詠まれる女性の姿が変わったとしても、「性差別の問題」がそれによって解消されるわけではない。「通俗性」という筋で句を批判していっても、ある種の表現が表面上抑圧されるというだけで、「俳壇の空気」は本質的には何も変わらない。

表立って言語化されなくなるからこそ、「無意識の暴力」は「俳壇」により深く潜伏し、より厄介なかたちで存続するという展開さえ予想される。そうした「暴力」は、必ずしも言葉というかたちをとるとは限らない。



そもそも、神野紗希は、たしかに《子にもらふならば芋煮てくるる嫁》という句を引用してはいるが、この句の芸術的価値、あるいは、芸術的な質の話をしているわけではない。この句が〈芸術〉としてどうなのかとか、〈文学〉としてどうなのかとか、そういう話をしているわけではない。

だから、ここで問題にされているのは、メッセージの社会的価値だと言うこともできるかもしれない。けれど、ここでは、《子にもらふならば芋煮てくるる嫁》という句が、ジェンダーがどう描かれているかということに着目した場合にどう見えるのかということの検討なしに、メッセージとして許容されうるような「俳壇」という「社会」そのものが問題にされているのだ、と言ったほうが、より的確なように思う(少なくとも、神野紗希には「俳壇」がそうした「社会」として見えているのだ)。

もしそう読まないならば、その後、『俳句』7月号に掲載された神野紗希「ミューズすらいない世界で――俳句とジェンダー(下)」の着地点は、かなり奇妙なものに映るだろう。
詠み、読む際にどんな価値観を採用しようと作家の自由だが、これまで信じてきたジェンダー観、「男らしさ」や「女の感性」もまた、不易流行の「流行」にすぎないことは、意識されてもいいだろう。
(神野紗希「ミューズすらいない世界で――俳句とジェンダー(下)」)
神野紗希は決して事態を「作家」が個別に「採用」する「価値観」に還元しない。極端な話、個々の句に何が書かれようが、また、何が読まれようが、どうでもよい、と言っている。そうした「作家の自由」は維持したままで、どうすれば「俳壇の空気」を変えていけるのか、を考えようとしているわけだ。



ここらあたりで、「じゃあ、それもう俳句の話じゃねえじゃん」とツッコミが入りそうだけれど、これは、本質的には、そもそものはじめから、具体的な表現としての「俳句」についての話ではなかったはずだ。

むしろ、一般に「俳壇」と呼ばれる僕たちの「社会」、そのありようが問題にされている。

どうも「俳句の話」にしか本気になることができないでいる――もしかすると、そのせいもあってか、ある種の「暴力」に対して「無意識」になりがちなのかもしれない――僕たちの「社会」のありようこそが、問題にされているのだ。


僕たちは、気が付くと、たとえば次のようなことで頭がいっぱいになってしまう。
ジェンダーフリー、LGBT、これらの「新しい」価値観を俳句に盛り込むことはできるだろう(ことさら新しいというほどの話ではないが)。しかしそれらは新しいとは言ってもすでにこの世にある価値観だ。五七五から全く新しい価値観を生み出すことはできるのか、そもそもそんなことを考える必要があるのか、それができなければひょっとして俳句はやっぱり第二芸術なのではないか……元の神野の論考とはだいぶ離れた話になってしまったが、そんなことを考えた。
山口優夢「「第二芸術論、第二芸術論とうるさく言ってしまいました」――『俳句』2019年6月号を読む」
書いてあるとおり、これも「元の神野の論考とはだいぶ離れた話」だ。

上田信治の議論を評価する次の見方についても同様のことが言える。
それから、神野紗希さんの時評への反応は、あれはいくつかのレイヤーで論じることが可能な問題であると思うので、そのひとつの眼差しとして、通俗性というレンズを用いたのは慧眼だったのではないか。昭和三〇年世代の書き手は、ああいうそぶりが得意だと思う。通俗かどうかを置いておくとして、なんらかのポーズを交えた主体、という話として。擬古典派、と呼ばれるくらいなのだから、書かれたテキストは明らかに何らかの仮面であって、問題とするべきは、なぜそのような仮面をいま被る必要があったのですか、ということなので、そういう意味では、直接的にフェミニズムの立場から内容を問うのではなく、ワンクッション挟んで、通俗性として問い直すのは、テキストに対して誠実だな、と思いました。
柳元佑太「時評に少し触れて」
繰り返せば、「性差別の問題は、個人と言うより社会の問題」だというのが神野紗希の見方だった。したがって、「直接的にフェミニズムの立場から内容を問う」かどうかに関わりなく、あの時評を受けて小川軽舟の作家性に焦点を当てた時点で、話がずれてしまっている。

そうした「反応」は、もしかしたら《子にもらふならば芋煮てくるる嫁》という句に対しては「誠実」といえるのかもしれないが、少なくとも「神野紗希さんの時評への反応」としては、決して「誠実」なものではない(要するに、どうして前者への「誠実」さばかりが重視されるのか、という話だ)。



ここで、すこしだけ、新興俳句運動下での戦争俳句についての議論を思い起こしておいてもよいだろう。

たとえば、西東三鬼は、昭和12年12月の『京大俳句』を初出とする「新興俳句の趨向について」において、戦争という事態を前にして、この特殊な状況下で俳句の表現をどう広げようか、ということばかりを考えてしまっている。
 しかも今日、幸にしてその時節は到来した。
 青年が、無季派が、戦争俳句を作らずして、誰が一体作るのだ? この強烈な現実こそは無季俳句本来の面目を輝かせるに絶好の機会だ。
(西東三鬼「新興俳句の趨向について」)
西東三鬼は昭和12年にはこう書いていたのだ。すなわち、日中戦争の勃発という「この強烈な現実」は、「無季俳句」にとって「幸」である、「絶好の機会」だ、と。



出来事を「俳句の話」へと回収してしまうことに、僕たちはあまりにも慣れすぎてしまっている。そういう僕たちの性向は、状況によっては、かなり危ういものとして働く。



しかし、「俳句の話」ではないのなら、「些細」とは言いながらも、どうして小川軽舟の《子にもらふならば芋煮てくるる嫁》が、とりわけ具体例として挙げられていたのだろうか。

それは、おそらくケイト・ミレット『性の政治学』以来の「家父長制(父権性)」に対する批判を背景とした、意図的な選択だと考えられる。

すなわち、70年代以降のフェミニズムの大きな流れに接続するような発想を提示しつつ、「俳壇の空気」を可視化するうえで、《子にもらふならば芋煮てくるる嫁》という句が『鷹』という大結社の誌上に主宰の句として発表されたという出来事は、とてもわかりやすく、かつ、際立った事例というわけだ。



もちろん、日本において「かつての封建時代の家」を支えた制度およびその名残りとしての「家父長制」を、フェミニズムの文脈で論じられてきた「家父長制」の一形態として取り扱うことが、どの程度まで妥当なのかは議論の余地があるだろう。

また、《子にもらふならば芋煮てくるる嫁》というメッセージだけについて言うなら、むしろ、これを支えうるような「家父長制」の価値観は、少なくともそれを内面化できない/したくないあらゆるひとびとに対して抑圧的に働きうるものに思えるし、そうしたメッセージの主体は、必ずしも家庭のなかで父親の役割を担っている者とは限らない。

たとえば、そもそも女性との結婚を望まないのに、母親から「芋煮てくるる嫁」を「もらふ」生き方を期待される「子」もまた、こうした「家父長制」に由来する価値観を押し付けられながら、抑圧されて育つことになるだろう。それどころか、「子」のいる家族に対して、家庭の外にいる第三者がこうした価値観を押し付けてくることだってある(こんなのは、ほんの一例にすぎない。無数の複雑な可能性がある)。


ただ、いずれにせよ、神野紗希の観点から議論を突き詰めるなら、「欲望」はむしろ「社会」のものだということになるのではないかと思う。メッセージは、むしろ、「社会」によって役割を与えられた「個人」が「無意識」のうちに言わされてしまうものだとする考えだ。

神野紗希は「今も社会に横たわる、家庭的な女性への欲望、保守的な思想を感じる」と書いている。そうした「欲望」や「思想」があるのは、「社会」がそうしたものを再生産するようなシステムを内包してしまっているからだ、という発想は大いにありうる。

(もし小川軽舟という「個人」の「思想」が問題だったとしたら、神野紗希の次の言及はいったい何なのか、という話にもなるだろう。
小川軽舟も『俳句と暮らす』(中公新書)で、料理が日常となった単身赴任生活を契機に「私にとっても台所は重要な生活の場」と、男性の立場から台所俳句を擁護し、性別にかかわりない台所俳句のあり方を提案する。
(神野紗希「ミューズすらいない世界で――俳句とジェンダー(下)」)
神野紗希は、小川軽舟をただ「保守的な思想」の持ち主として糾弾したいがために句を取り上げたのではないわけだ)



ところで、「そうか、やっぱり芋煮てほしいのか」という神野紗希の言葉には、小川軽舟も、『鷹』7月号の編集後記で、句の「作者」として応答していた。
作者としては、「今どきそんな娘いるわけないだろ」とツッコミを期待したユーモアのつもりだったので、「そうか、やっぱり芋煮てほしいのか」と真に受け取られると当惑する。
しかし、この応答も、話がまったく噛み合っていないように見える。「今どきそんな娘いるわけないだろ」というツッコミの含意は、(もしいるなら芋煮てほしいよね)というものにも思えるからだ。

その場合、たしかに、そうした「欲望」が「今どき」時代錯誤なことは感じているかもしれないけれど、それは、たんに「芋煮てくるる」ような「娘」は「今どき」いない(と思っている)からというだけで、根っこにある「家庭的な女性への欲望」は何一つ変わっていない。



これも念のために書いておくと、「ジェンダーロールの強制」に話が及んでいるのだから、ここで神野紗希が句に読みとっている「芋煮てくるる嫁」「家庭的な女性」とは、たんに《家事をする能力のある女性》ということではない。その意味するところは《家事を、「嫁」の当然の役目として文句も言わずに引き受けてくれるような女性》というようなことだ。

神野紗希の言葉を借りるなら、「社会」は、そういうありかたを「素朴で優しいお嫁さん」として肯定的に(ひとつの美しい存在様式として)価値づけることで、女性を型に嵌めてきたということになる。

(上田信治は、おそらくここに着目して、大小を問わず既存の「社会」において規範化された美意識に追従することを、すなわち「通俗性」と呼ぼうとしたのだろう。しかし、何度でも繰り返すが、問題は「俳句」ではないし、「作家」でもない)

「もらふ」「くるる」という言葉の背後に読みとられた「ほしい」が問題なのであって、芋を煮るとか煮ないとか、ましてや芋を煮るのが上手か下手かとかが問題なのではない。



もし「ほしい」という「欲望」が生き延びているとするなら、結局は、「そうか、やっぱり芋煮てほしいのか」と言わざるをえないだろう。

神野紗希は、小川軽舟が書いたような可能性など承知のうえで、「むしろ時代後れだからこそ「昔はよかったよね」とほほ笑み合いたいのかもしれない。でも、それに「芋煮ますよ」と素直に答えられるほど、日本社会のジェンダーはフラットになっていない」と書いていた。

要するに、「こういう句を見ると、真綿で首を絞められたような窮屈さを感じる」主体は、小川軽舟の「期待」したやりとりをボケとツッコミの織りなす「ユーモア」として笑いあうような「社会」では、やっぱり「窮屈」な思いをせずにはいられない。



ところで、再三になるが、《子にもらふならば芋煮てくるる嫁》は、あくまでも「些細な一例」として挙げられていたにすぎないのだった。それは神野紗希視点での「俳壇の空気」のありようを示す徴候の「一例」だと読める。

この「些細な一例」にこだわりすぎることの危険は、ひとつには、「性差別」の根源として、家庭ばかりがことさらに強調されてしまうということにある。また、「家父長制」的な価値観がもたらす「差別」がいわゆる「性差別」に限定されるかのような錯覚も、もたらしかねない。

「性差別」の問題は、純粋に「家父長制」に起因しているにすぎないのかといえば、そんなに単純な仕組みではないだろう。また、「家父長制」がもたらすのが、ただ「性差別」の問題だけだとは、とても考えられない。

無論、このあたりのことは、神野紗希も承知していることではないかと思う。だからこそ、それはあくまでも「俳壇の空気」を示す「些細な一例」でしかないと書かれている。



しかし、だとしたら、やはり、神野紗希の時評が展開した論は、まだ突きつめるべきところまで充分に突きつめられてはいないことになるだろう。

「俳壇の空気」を作り出しているのは何か。それは「個人」というよりもむしろ「社会」だ、というのが神野紗希の論だった。

ならば、「俳壇」という「社会」のシステムは、どのようなメカニズムによって、その「空気」を自動的に再生産しつづけてしまっているのか。それを具体的に特定していかないことには、何をどうしたらその「空気」を変えられるのかわからない。

そうなると、結局は、より大きな「社会」の変化が「俳壇」という小さな「社会」にじわじわ浸透してくるのを待つしかないということになってしまうのではないか。

それに、そういう変化の迅速な波及が、「俳壇」において、いったいどういうメカニズムによって遅らされているのかもわからないままだ。



たしかに、こうしたことの具体的な検証は、綿密かつ慎重に進めていくほかない。性急に答えを求めることはできない。

だが、そうなってしまうと、当座のところは、「個人」のそれぞれが、また別の抑圧的な規範を内面化していくことでしか対応できないことになりはしないか。



結局、小川軽舟は、神野紗希の時評の記述を前にして、件の『鷹』7月号の編集後記において、次のとおり煩悶せざるをえなくなっている。
社会的な配慮は文学の表現の首を絞めかねない。しかし、文学が人を傷つけることは本意ではない。
しかし、この煩悶は、すでにまた別の病の兆しではないか。このジレンマは、問題が解消されないかぎりは、解消されない。だから、死ぬまで考えつづけることができてしまう。

そういう問いは、ある意味〈文学的〉で、甘美で、魅力的なものだ。

だからこそ、危うい。

この解決不可能な問いばかりに意識を集中させてしまうと、もしかしたら解決可能かもしれない「俳壇」のシステムそのものへの問いは、ますます遠のいていく。



〈文学〉のためにさえ、ときに〈文学的〉な問いの誘惑に魅了されてしまわないように、それとは別の向きに舵をとらなければならないことがある。いま立てられた問いの本筋は、はっきりとそちら側にある。これは、むしろ〈社会学的〉な問いだといえよう。少なくとも、さしあたっては、それを〈文学的〉な問いとは分けて考える必要がある。

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