【週俳7月の俳句を読む】
葬列のような
鈴木茂雄
六月の軛が髪を愛(は)しくする 岩瀬花恵
冒頭の句からつまずく。「六月の軛」がわからない。初読のときはわからないものは飛ばし読みしているが、こうして書くことになるとそうはいかない。わからないことは辞書に当たればすむ〈軛(くびき)とは、①車の轅(ながえ)の先端につけて、車を引く牛馬の頸の後ろにかける横木。 ②(比喩的に)自由を束縛するもの。〉が、なぜ「六月」なのか、これは調べてもわからない、というか、調べようがない。わからないので次にくる「髪」という文字を見ていると、六月の花嫁という漠然としたイメージが浮かんできた。言葉というのは不思議なもので、「六月の軛」という現代語がこの句に謎をもたらして、「愛(は)し」というような万葉語が この句のすべてを氷解するのだから、言葉の連鎖反応というのは化学反応に似て思わぬ展開をもたらしてくれる。推理小説ではないが、これ以上のネタバレ感想は慎むことにしよう。
君は寝たのに紫陽花が鳴りやまぬ 岩瀬花恵
「君は寝たのに」はわかる(と言っても、なぜ寝たのか、どこで寝ているのか、など様々な疑問は湧いてくる)が、「紫陽花が鳴りやまぬ」と言われると途端にわからなくなって、紫陽花は鳴らないだろう、と突っ込みたくなる。しかし、「紫陽花」の文字を見つめているうちに、音が聞こえてきた。原由子の「あじさいのうた」を思い出したからである。「雨に咲いてた つぶらな花びら/恋の予感に揺れて 虹色に染まるの/あの日の二人は言葉で言えずに/街角で立ち止まり 雨の音聞いてた/(略)/振り向けば 足音だけが鳴ってた」というフレーズの言葉が連鎖して共鳴音となり、わたしの疑問を氷解してくれた。
愚痴のごともろもろと沢蟹の湧く 岩瀬花恵
俳句を読んでいて、リズムが悪くて引っ掛かる場合と修辞的にわざと外してある場合とがあるが、揚句は断るまでもなく後者。「もろもろと」の「と」という助詞に引っ掛かって、次の言葉「沢蟹」に移ることが出来ない。 「もろもろ」の次にくるのが「の」と慣用的予想をしていたからである。ふつうは「もろもろの」だろう。次にくる「沢蟹の湧く」の擬態語として置く言葉は「もぞもぞ」とか「ぞろぞろ」だが、作者は予想外の「もろもろ」を置いた。しかし、これは「愚痴」のように沢蟹が「湧く」と言いながら、本当に言いたかったことは沢蟹の湧くようにもろもろの愚痴がと、倒置法を用いたのだと思えば、すべて合点がいく。
祖母の語の軟化せはしく夏座蒲団 岩瀬花恵
この句は「軟化」から「せはしく」に移るところで引っ掛かる。日常的な言葉通りに解釈すると、この軟化は硬いものが軟らかくなることだが、そこに「せはしく」が付くから話がおかしくなる。軟化がお婆さんの恰好で忙しくしているのだからおかしいのは当然だが、このおかしさが詩的効果を上げる。「夏座蒲団」もそうだ。一瞬、夏座敷と誤読するところだった(これは目の錯覚ではなくて夏座蒲団より夏座敷という季語を目にする機会の方が圧倒的に多いからだ)が、夏座蒲団だった。そのことがまたおかしかい。いままで厳格だった祖母がすっかり丸くなって、新調してもらったふかふかの座蒲団の上で、にこにこと喋っている光景が思い浮かんだからである。上句に戻ってもう一度読み下すと、「祖母の語」の「語」というこの一語が、頑固だった祖母を物語るのに一役買っていることがよくわかるだろう。
何回もはたちだよつてソーダ水 岩瀬花恵
こういうふうに日常語でストレートに言われると、こんどは上の二句とは別の意味で「ん?」となるが、ここは意味通りに受け取ると、この句は「(もう)はたちだよ」と言外に「もう」があるのがわかる。その「もう」を強調して「何回も」繰り返す。すると、「だよ」って言う「ソーダ水」のような娘がイメージとして浮かび上がる。
四年とふ距離を思へば星月夜 岩瀬花恵
「四年」という言葉のあとには、歳月というような時間の単位を表す言葉がくると思ったら「距離」という裏技で足をすくわれる。すると、この四年という単位は「光年」だ。天文学で用いる距離の単位である。「光が一年間に進む距離にあたる。約9兆4600億キロメートル。」とは、なんという理知的な響きだろう。大学生だったら入学して卒業するまでの時間だが、天文学的距離にすると、いまごろどのあたりまで行ったことになるのか、などと考えているのは、きっと「星月夜」だったからだろう。
長き夜のピーター・パーカーは十六歳 岩瀬花恵
「ピーター・パーカー」は映画『スパイダーマン』の主人公の名前。「十六歳」は高校生になったピーターが見学にきた研究所で実験中のクモに刺されて、蜘蛛のように壁に張り付いたり、蜘蛛の糸で移動することができる超能力を得た年齢だ。だが、「長き夜のピーター」というのはどういう設定なのだろう。そういう謎を残しておくことによって、詩的効果はぐんと上がる。
落ち込めばそこそこの湯豆腐ができる 岩瀬花恵
これは極めてまともな「湯豆腐」だ。なぜなら「そこそこ」だからである。そもそも完璧な湯豆腐なんて見たことがない。「そこそこの湯豆腐」こそが完璧そのものなのかも知れないのだから、落ち込む必要はどこにもないのだが、この日はたまたま落ち込んでいて、落ち込んでいたから出来た湯豆腐も本当は完璧だったのに、「そこそこ」と思ってしまっただけなのだ。
夢でわたしを食べたクジラは街へ街へ 岩瀬花恵
夢の中でわたしはクジラに食べられた、と受動態にしないで「夢でわたしを食べたクジラは」とクジラを主語にしたのは、クジラ目線でぐんぐん海岸に迫り、砂浜に乗り上げ「街へ」と向かう迫力感を出すためだ。「街へ街へ」のリフレインも効果的。だが、そのあとはどうなるのだろう。わたしの貧しい想像力で思い浮かぶことといえば、このあと「わたし」が昼寝から覚めるシーンだけだ。
卒業写真いっせいに既読つく 神山刻
ここで使われている「既読」という言葉はLINE(というメールとチャットの機能を備えたメッセンジャーアプリ) で使われている用語だが、読んで字のごとく、すでに読み終えたこと、そう思って広辞苑で調べてみたが、意外にも既読という単語は掲載されていなかった。LINEで通知やメッセージを表示して、閲覧して、確認した状態のことを既読といい、そのことがリアルタイムで把握出来るようになっている。「卒業写真」がLINE上にアップされた。アップしたのは作者か作者以外の人か、これだけでは見当がつかないが、スマホの画面を見ているうちに、たちまち「既読」の数字(「既読」という文字の横に数字が付く。その数によってLINEで繋がっている人数のうち、現在何人閲覧したか数字でわかるようになっている)が増える。「いっせいに」というのは全員ということではなくて、みるみるうちに数字の数が増えていく状況を述べたものだろう。「いっせいに既読つく」ということがどういう状況なのか、それがわかるかわからないかによってこの作品の楽しみ方も変わってくるが、こういう題材のものはこれからどんどん出て来て欲しい。
鳥帰る空に真芯といふところ 神山刻
「鳥帰る」は「雁・鴨・白鳥・鶴・鶸ひわ・鶫つぐみなどの秋冬に飛来し越冬した鳥が、春に北方の繁殖地に帰ること。」と歳時記にあるが、いったいどの「鳥」だったのだろう。「空に真芯といふところ」を感じると作者は言う。真芯と言われると、わたしなどは野球のバットの芯のような固いものしか思い浮かばないが、「鳥雲に」とか「天心」に言い換えてイメージすると、少しはわかったような気がする。
なめくぢの跡はなめくぢより細い 神山刻
この一句からは「なめくぢ」を写生するのだという、作者の強い意志が感じられる。そう感じるのはなぜだろう。それは、いかにもなめくじをなめくじらしく描くのだという、方法としての写生に従っていないからである。なめくじそのものを詠もうとしながら、その形や特徴には一切触れようとせず、またなめくじを見た場所や雰囲気なども一切描写しないで、ただ「なめくぢの跡」だけを読者に提示し、「なめくぢより細い」と断定して、これぞなめくじだというふうに鮮やかに思い描かせることに成功している。
平坦なヒューヘフナーの裸かな 神山刻
ウィキペディアによると、「ヒュー・ヘフナー」はアメリカの実業家で雑誌『PLAYBOY』の発刊者。だとすると、「平坦な裸」は雑誌『PLAYBOY』の表紙を飾った「豊満な裸」に対するアンチテーゼだろうか。それともたんに兼題としての「裸」を詠んだものだろうか。断るまでもないが、「平坦な」は「ヒューヘフナー」にも掛かっていて、女性遍歴の多かったこの人物への痛烈な風刺になっている。「・(中点)」を省略したことにも意味があるのだろう。
月凉し黒猫を飼うアーケード 瀬戸優理子
この「黒猫」が飼い猫でないことは「飼うアーケード」でわかる。シャッター街と化したアーケードの片隅に棲む黒猫に、夏の月は青白く輝き、「月涼し」はその漆黒に潜む像を美しく浮かび上がらせることに成功している。
時系列こわす夏蝶追いかける 瀬戸優理子
詩人が生涯を賭して追い求めるものはと問われると、わたしは躊躇なくその象徴としての「蝶」を挙げるだろう。杉田久女の句「蝶追うて春山深く迷ひけり」を持ち出すまでもなく、この作者が「追いかける」ものもまたその蝶にほかならない。しかもそれは春先に見かける儚い存在ではなくて、大きくて美しい翅を持った「夏蝶」でなければならない。その蝶が「時系列」を壊すという。なにしろ蝶というのは「蝶になる途中九億九光年 橋閒石」という異次元を駆けめぐる存在だ。あり得ないことではない。最近の季節の変動などもそのせいではないかと思いたくなるほどであるが、この句の作者には壊されたくない大切な時系列があるのだ。蝶というと、わたしは「やがて地獄へ下るとき、/そこに待つ父母や/友人に私は何を持つて行かう。」という西条八十の詩「蝶」を思い出す。追えば追うほど遠ざかり、逃げ、自分の前から姿を消して行く、やっとの思いで捕虫網でつかまえたと思ったら、それは、すでに翅の破れた死骸に過ぎず、「一生を/子供のやうに、さみしく/これを追ってゐました」と言って蝶を差し出すシーンだ。時系列を壊すほどの破壊力のある揚句の蝶とはまるで違うようだが、その核となるものはきっと同じはずである。
水掻きの退化していく昼寝覚 瀬戸優理子
昼寝から目覚めた折の感じではないか。夢の中で「水掻きの退化していく」感覚を肌で感じる。若いころはあんなに勢いよく波を切って泳くことが出来たのに、いまのわたしはどうだ。体が重く感じて自在に動くことが出来ない。「退化していく」のは「水掻き」だけではないのだ。そう思いながら、びっしりとかいた汗を拭いた。
母もその母も金魚を死なせけり 瀬戸優理子
子供の頃に誰もが一度は経験したことがあるだろう。夏祭などで出ている夜店ですくった「金魚」だ。今夜、ビニール袋に入れた金魚を得意げに見せる子供に、金魚なんか持って帰ってきて、どうせまたすぐに死なせるんだから、そう言おうとした言葉をグッと押し殺す。自分もそう言われたことを思い出したからだ。たぶん母もまた祖母からそう言われたんだろう、という、感慨の一句。
真昼錆びだす蝦夷梅雨の時計台 瀬戸優理子
「蝦夷梅雨」は大方の歳時記には載っていない。「梅雨」の項にも「北海道方面ではあまりはっきりとしたものは見られない」という程度の言及しかない。広辞苑には「梅雨期に北海道の南半分の地域で雨量が多くなる現象をいう。」とあるが、それだけでは季語としての「蝦夷梅雨」というのがどんなものなのか、肌感覚として理解出来ない。しかし、 「錆びだす」が「真昼」にも「時計台」にも掛かっていることで、「真昼(に)錆びだす」のではなく「真昼(が)錆びだす」ほどの湿気だということは理解出来る。
来ぬ人のため息流れ着く日永 瀬戸優理子
「来ぬ人」というと、即座に思い浮かぶのは「待てど暮らせど来ぬ人を/宵待草のやるせなさ/今宵は月も出ぬそうな」という竹久夢二の歌。「ため息流れ着く日永」こそ「宵待草のやるせなさ」そのものではないか。
濡れながら憩う紫陽花切る鋏 瀬戸優理子
「濡れながら憩う」とは、いま紫陽花を切ったばかりの鋏の有り様を詠んだもの。そしてその濡れた花鋏に自己を投影したものだろう。「紫陽花」が明るく感じるのはそのせいだ。
とりあえず昨夜のカレー洗い髪 瀬戸優理子
することは山ほどあるけれど、「とりあえず昨夜のカレー」を食べてから、と。この「洗い髪」はいわゆる朝シャンに違いない。朝からシャワーを浴び、昨夜の残りのカレーを平らげる。バイタリティのある女性像が思い浮かぶが、昨夜のカレーが残っているということは、作者のほかに家族がいるのだろう。こんな元気なママを持った息子は幸せものだ。わたしの母は病弱でしかも若くして亡くなったせいか、こんな歳になっても元気なお母さんは、わたしにとっては眩しく逞しく羨ましい存在である。
緑陰に生み捨てられし卵抱く 瀬戸優理子
「卵抱く」はタイトルでもあるのだが、放し飼いにされている鶏があちらこちらに生んだ卵を拾って籠に入れ、その籠を慈しむように抱く。「生み捨てられし」の「捨てられし」が気になる。「緑陰」という季語に少しは救われるが、それにしても何という淋しい木陰だ。その卵は捨てられた存在そのもののようだ。
聖堂のような一樹へ蟻の列 瀬戸優理子
「聖堂のような」という比喩はとてもわかりやすい。おそらくカツラの木だろう。蟻のような存在にとって大木は大聖堂そのものだ。その「蟻の列」に目がとまり、その行手を見ると大きなカツラの木が一本、涼しげな枝を周囲に張りめぐらせ、その下に、思惟のような木陰を広げている。葬列のような、修行僧の列のような蟻の列がその聖堂へと向かう。
2019-08-11
【週俳7月の俳句を読む】葬列のような 鈴木茂雄
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