【週俳7月の俳句を読む】
相和丘陵にて(四)
瀬戸正洋
八月の「湘の会」は、-句集「月光口碑」上田玄、風の花冠文庫20、2016年11月11日、鬣の会刊-を読むである。武藤雅治から、案内と資料が届いた。前回は、坂井艶司の詩について、坂井信夫が語った。参考資料として配布された「索通信」27 2019.5.25 に、坂井信夫は、「<墓参>まで-『湘の会』と吉村毬子」を書いている。終了後は、JR茅ヶ崎駅南口の「鳥や橙」に立ち寄った。
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六月の軛が髪を愛(は)しくする 岩瀬花恵
観光地を人力車が走っている。軛とは人力車をひくために握る棒のことである。髪を愛しくするのは六月の風である。車夫は軛をしっかりと握る。六月の風は車夫のうしろすがたから生まれるのである。それは二度とはやって来ない、そのいちにちのすべてのはじまりなのである。
君は寝たのに紫陽花が鳴りやまぬ 岩瀬花恵
土壌の酸性度により花の色がかわる。紫陽花のこころはざわめいている。ふたりであろうとなかろうと、こころのざわめきはおさまらない。これは「君」の酸性度が原因なのである。ふりまわされてしまうことに異論をおぼえたとしても、それは化学変化である以上しかたのないことなのである。
愚痴のごともろもろと沢蟹の湧く 岩瀬花恵
沢蟹のどんどん湧いてくるさまをみて、あたかも人類の愚痴であるかのようにおもえたのである。人類の愚かさについておもいを馳せたのである。
しかたのないことをいっては嘆くことを愚痴という。沢蟹の湧いているのをながめることで、こころの均衡がたもてるのだとしたら、それもしかたのないことだとおもったのである。
祖母の語の軟化せはしく夏座蒲団 岩瀬花恵
座ることがたいせつだったのである。すずしく見えることが、祖母の背中をおしたのである。落ちつくことが、ものいいも、感情も、何もかもがうまくいく原因なのである。多忙であることから開放してくれる夏座布団の偉大さをおもう。
何回もはたちだよつてソーダ水 岩瀬花恵
付きあいはじめた男と女の会話なのかも知れない。はなすことばが、おもいうかばないのである。おなじことを聞いているわけでもないのに、何回も、二十歳だと答えている。年齢、出身地、好き嫌い。これらのことは、会話のきっかけなのである。ソーダ水は、何もすることがないので、あわをたてて笑っている。
感情は錆びて記憶に香水に 岩瀬花恵
喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、等々感情という。そこに腐食物が生成されたのである。腐食物は歳をかさねることによりたくわえられていく。
腐食物は、記憶となるのである。腐食物は、香水になるのである。腐食物が、そのひとの人格を形成していくのである。
四年とふ距離を思へば星月夜 岩瀬花恵
星月夜とあるのでうつくしい思い出なのであろう。月のない夜の星あかりである。四年間について考えている。男と女の関係について考えている。距離とは二点間を測定した長さの量である。
長き夜のピーター・パーカーは十六歳 岩瀬花恵
「長き夜」とは、暑さを経てすずしい夜がながくなることを賞嘆することだと書いてあった。賞嘆することは生きていくうえでは必要なことなのかも知れない。
ピーター・パーカーとは、スパイダーマンの主人公である。十六歳であることをはじめて知った。もちろん、この作品は観たことがない。
落ち込めばそこそこの湯豆腐ができる 岩瀬花恵
「そこそこ」とは、目指すものである。もちろん十分なものにしたいという気持ちはある。だが、気力も体力もつづかないのである。つまり、甘えである。とうぜん、一応のレベルにも達していないのだとおもう。
人生とは、落ち込むことなのである。人生とは、湯豆腐をつくることである。
夢でわたしを食べたクジラは街へ街へ 岩瀬花恵
クジラに悪いことをしたとおもっているのである。だから、クジラは復讐にきたのである。クジラがわたしをたべにくるのである。そして、街の雑踏のなかへときえていくのである。クジラの胃のなかのわたしも街の雑踏のなかへときえていく。夢とは本心を隠すためには必要不可欠なものなのである。
卒業写真いっせいに既読つく 神山刻
ほっとしたのかも知れない。だが、「いっせいに」であることに、かすかな不安、あるいは不満を覚えている。もちろん、未読のままならば、それはそれで異なった感情が芽ばえることになる。欲望といってしまうとおおげさかも知れないが、欲望には、きりがないことをあらためて感じる。
蜂ならば剣で戦ふとは思ふ 神山刻
戦うことは極力さけたい。ましては、剣をもつことなどもってのほかなのである。逃げるのである。逃げて、逃げて、逃げまくるのである。恥や外聞などすててしまえばいい。ただ、それだけのことなのである。
蜂にさされたときの錠剤、塗りぐすりは、引き出しのなかにある。医者からもらったものは、たいせつに保存しておくのである。老人は攻めない。ただ、ひたすら逃げまくるのである。くすりが守ってくれる。
鳥帰る空に真芯といふところ 神山刻
うつりゆくもの、のこるもの、そのさびしさをおおそらは、癒してくれるのである。真芯とは、そのさびしさを感じるところなのである。何れ、誰もが去っていくことになる。はやかろうと遅かろうと大差はない。あまり、考えずに生きていけばいいのかも知れない。
なめくぢの跡はなめくぢより細い 神山刻
なるほど、そのとおりだとおもった。「太い」ならば違和感を覚えたのかも知れない。
なめくじは、そこにいるのである。
なるほど、そうではないとおもった。「跡」は細くてはならないのである。太くなくてはならない。「細い」ことに違和感を覚えたのかも知れない。
「跡」を、隠すことはできないのである。無駄なことは考えないにかぎる。「跡」は、何があっても隠すことはできないのである。
平坦なヒューヘフナーの裸かな 神山刻
ヒューヘフナーの裸体から「平坦」ということばをおもいついたのかも知れない。だが、ヒューヘフナーの人生が「平坦」であったはずはない。
他人にわかってしまう人生などつまらないとおもう。だから、黙ることがたいせつなのである。本音は、そうやすやすとことばにしてはならないのである。
立てかけてギターが捨ててあるは夏 神山刻
捨てることはむずかしい。不要なものを必要なものだとおもいこんでしまっているからである。立てかけて捨てたということからは、そんななかでのある決断を感じる。夏の日のひとつの決断である。また、捨てかたとしては正しいとおもう。
屋上がみな台風の目に面す 神山刻
ほんのひとときの休憩なのである。人生におけるやすらぎとは、台風の目に面したときのようなものなのかも知れない。どの屋上も台風の目に面している。風は弱まり、雲はきれ、青空が見えている。自分を見つめなおすためには、とてもたいせつなひとときなのである。
里芋が徐々に荒川良々へ 神山刻
里芋がすきなのである。荒川良々がすきなのである。里芋はしだいに荒川良々へと変っていく。つまり、荒川良々は里芋だったのである。これは、誰もが経験したことのあるひとつのこころの動きだったのだとおもう。
カルタ取り近視と遠視伯仲す 神山刻
近視であっても遠視であっても、それは優劣のつく問題ではないということなのである。あたりまえのことなのである。あたりまえのことをもったいぶっていってみた。ただ、それだけのことなのである。あたりまえのことをいってみたら、それが作品となった。
あたりまえのことを、あたまの中にならべてみる。それは、ことばの連続となりひとつの作品となっていくのである。
宙を欲る鯨に海は摶たれたり 神山刻
鯨は真剣だったのである。真剣なすがたにひとは摶たれる。不可能なことであってもひとは、その真剣さに摶たれるのである。海もおなじである。真剣な鯨のこころざしに摶たれたのである。
だが、いくら鯨が真剣に、そのことを願ったとしてもできないことはできない。やさしさとは、鯨のそんなおもいに真剣にむきあってやることなのである。
月凉し黒猫を飼うアーケード 瀬戸優理子
黒猫は孤独なのである。時折、あらわれては去っていく。飼いたいなどとおもうことは、ひとのうぬぼれにすぎないのである。畏れおおいことなのである。喧騒も果てひと通りがすくなくなった商店街を夏の月が照らす。
日本では福猫であり、魔除けや幸運、商売繁盛の象徴とされている。欧米では不吉の象徴となることもある。魔女の使いなどといわれている。
時系列こわす夏蝶追いかける 瀬戸優理子
数字は嘘をつかないのかも知れない。あるいは嘘をつくのかも知れない。時間的変化を観測し得られた値は、つまらないものなのかも知れない。だが、よくよくながめると数字の正しさは理解できる。
故に、こわすのである。こわしてあたらしい何かをはじめるのである。故に、追いかけるのである。夏蝶をひたすら追いかけるのである。
水掻きの退化していく昼寝覚 瀬戸優理子
昼寝のあとのもの憂さ、気だるさは、退化しているというあかしなのである。からだだけではなく精神も退化していくのである。ひとに水掻きが不要などとおもうことは間違いなのである。不要であるものは退化などしない。必要なものだけが、知らず知らずのうちに退化していくのである。
母もその母も金魚を死なせけり 瀬戸優理子
母もその母も金魚を死なせてしまった。金魚は死ぬものなのである。ひとは、金魚を死なすものなのである。目の前に、死んだ金魚がういている。母も死ぬのである。その母も死ぬのである。もちろん、誰もかれもが死んでいくのである。
真昼錆びだす蝦夷梅雨の時計台 瀬戸優理子
ひるのひなかに錆びはじめるのである。錆びとは酸化還元反応をおこし生成された腐食物のことである。オホーツク海高気圧から湿った冷たい風がふいてくる。時計台を見上げる。見上げたその先に曇天がある。時計台は錆びることを待っている。曇天も錆びることを待っている。ひとのこころも錆びることを待っている。腐食物によって刻まれた「時」は必要なものなのである。それをどうするのかは、各々の問題だとおもう。
来ぬ人のため息流れ着く日永 瀬戸優理子
何らかの理由により来ることができなかった。そのひとのため息は、どこをどう巡ったのかは知らないがたどり着いたのである。状況は好転しているような気もする。それも、そのひとのつよい意志というのではなく、何となく、そんなながれになってきたということのような気がする。
息はたまるものだというよりも、ためてしまうものなのかも知れない。
濡れながら憩う紫陽花切る鋏 瀬戸優理子
他人のことをおもわなかったということではない。しかたがなかったのである。雨の日の紫陽花は美しい。濡れながら憩うとは日常のできごとなのである。紫陽花を自分に置きかえてみたのである。紫陽花のこころがわかってしまったのである。切らなければならないとおもったのである。
とりあえず昨夜のカレー洗い髪 瀬戸優理子
とりあえず、朝食は、昨夜のカレーで済ませておく。とりあえず、あらった髪も解きさげたままにしておく。とりあえず、考えることはやめておく。とりあえず、幸せになろうなどと考えている。
緑陰に生み捨てられし卵抱く 瀬戸優理子
よく繁った木の陰は涼しい。何よりの場所である。そこに卵があった。生み捨てられた卵だとおもった。うでをまわして自分のからだに接してたもつことを「抱く」という。
何故、緑陰に卵を生み捨てたのだろう。何故、その卵を抱こうとおもったのだろう。
聖堂のような一樹へ蟻の列 瀬戸優理子
目のまえにあるものは古木だったのである。精霊がやどっているような気がしたのかも知れない。足もとの蟻はその古木にむかって歩いている。そのひとも古木にむかって歩いている。
聖人、君子を祭った祭礼の場、祠、廟を聖堂という。キリスト教の礼拝施設もそのようにいう。
ひとの集まるところを聖堂という。蟻の集まるところを聖堂という。
夏痩せて悪魔のゐないトイレかな 楠本奇蹄
間違いは誰にでもある。宗教ごとに、地域ごとにどこにでも悪魔はいるのである。誰もが悪魔なのである。つまり、悪魔とは、ひとのこころに棲みついているものなのである。夏が痩せることもある。悪魔が痩せることもある。
トイレのドアを開けてみても誰もいない。夏も、どこにもいない。あたりまえのことなのである。
らんちうや唾液のやうに朝を待つ 楠本奇蹄
眠ってはいなかったのである。眠ることができなかったのである。積極的に朝を待っていたのか、消極的に朝を待っていたのか、それはわからない。ただ、唾液のように朝を待っていたのである。らんちうは、頭のなかを、いつものように泳いでいたのである。
柱抱くたび七月の感覚器 楠本奇蹄
両腕でしっかりと柱をかかえこむ。子どもなどが、よくするしぐさである。感覚器とは、目、耳、鼻、舌、皮膚などをいう。柱を抱くことのできる家は、いなかの古い家ぐらいのものだ。あけ放たれた障子。縁側にはすだれが掛けられている。風は吹きぬけていく。風鈴ぐらいは鳴っていてもいいとおもう。
七月のことを文月という。詩歌を詠んだり、曝書などをする。また、稲の穂が含む月ともいわれている。
アガパンサス手と喪失がよく見える 楠本奇蹄
戦意、自信、権威、資格、記憶などを失うことを「喪失」という。組織のメンバー、手段・方法、技、動作の単位、それらのことを「手」という。アガパンサスの花から「冷たさ」を感じることがある。
頰杖の温度毛虫を焼く温度 楠本奇蹄
頬とてのひらの温度、毛虫を焼く温度は、想像することができる。だが、頬杖をするひとの心、毛虫を焼くひとの心を知ることは難しい。
だから、ひとは計測器をつくるのである。ほんとうのことなど何もわからないことは承知のうえで計測器をつくるのである。
青葉木菟追ふ湖がついてくる 楠本奇蹄
バードウォッチングに参加したのかも知れない。ひたすら青葉木菟を追って一日が過ぎたのである。気がついてみたら何のことはない、ただ、湖のまわりだけをはしり回っていたのであった。
夕顔やしるしの雨をわかちあふ 楠本奇蹄
雨は、いったい何を現そうとしているのか。分かちあうことが前提であるなどということはうぬぼれなのである。心情、概念などを分かちあうことは不可能なのである。
夕顔の実を加工したものが干瓢である。雨の日にカウンターにすわる。干瓢をわさびで和えて出してもらえるとありがたい。あとは、ひかりものとゲソでも握ってもらえれば十分なのである。
ゆふやけに語る片頰だけ家族 楠本奇蹄
一面だけを見ていたのである。一面だけしか見せてはいなかったのである。すこしだけでも見ることができれば十分なのである。欲ばっては、いけないのである。欲ばってみても、碌なことにはならないのである。家族の幸せとは微妙なバランスの上に成りたっている。ゆうやけは危険である。ついつい、こころがゆるみ余計なことを、ことばにしてしまう。気をつけなければならないとおもう。
星を買ふスナック純子みなづき尽 楠本奇蹄
「Star Naming Gift」。
純子ママと常連客のあいだでは、流行っている遊びなのかも知れない。夏が終わる。明日からは秋なのである。季節のかわり目には、こころがみだれる。本気になってしまうひともあらわれるのである。そんなときは、純子ママの器量がためされるのである。
「スナック純子」は、秋になってもおだやかな日々がつづいている。
中年と果実が濡れて夕立あと 楠本奇蹄
壮年期を過ぎ高年期にはいるまえまでを「中年」という。肉体的、精神的なはたらきの成果のことを「果実」という。男と女が情を通じることを「濡れる」という。すぶ濡れになって、たたずんでいる「中年」の男と女がいる。
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Charlie Byrd のボサノバを聴いている。老妻の部屋から引っ張り出してきたものなので、このギタリストのことは何も知らない。CDジャケットは、ギター持った男の写真である。
真夏の昼下がり、冷凍庫から出したグラスにビールを注ぐ。一瞬だが、ビールの表面が凍る。ビールは瓶入りでなくてはならない。体重さえ気をつければ気楽なものなのである。どこかの国の、「だいとうりょう」閣下や「そうりだいじん」様は忙しそうだが、酔っぱらってしまえばこちらのものなのである。
蜩は例年にくらべすくないような気がする。天井裏のハクビシンは、どこかへ出掛けたようだ。目指すものは隠居である。正しく陸に沈みたいとおもう。
2019-08-11
【週俳7月の俳句を読む】相和丘陵にて(四) 瀬戸正洋
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