【空へゆく階段】№18
ゆうの言葉
田中裕明
ゆうの言葉
田中裕明
「ゆう」2000年1月号・掲載
これから毎号、ゆう作品の選後評を「ゆうの言葉」と題して書いてゆきます。
新しい俳誌をはじめるに当たって、大上段に理念や綱領を掲げるつもりはありませんが俳句に対して真面目に向かいあいたいと思います。
新しい俳句ということを考えてゆきたい、新しい俳句を作ることによって新しい自分に出会いたい、そういうことを考えています。
ときじくのいかづち鳴つて冷ややかに 尚毅
季語の新鮮な用いようということが、新しい俳句を考えるうえで大切でしょう。この作品など、まさにそういう季語の用法がなされています。ことさらに奇抜な季語や、二物衝撃が一句の中にあるわけではありません。日本語としては無理な藝当をさせずに読者に深い感銘を与えるような季語を据えること。「さきほどの雨またの雨爽やかに 爽波」に似た据え方ですが、ときじくのいかづちという古語がたいへんに生きています。
梢の日すぐに動きぬ籾筵 朱人
高い木の梢のところにあった太陽が知らぬ間に動いていたという季語が安定しています。叙景のたしかな力をもった作品です。
おのづから径は身巾に雪ばんば 紀子
歩いているうちに野の径がだんだん細くなってくる。あたりに人の姿もない。そのうちに径は人がすれちがうこともできないくらい細くなってしまった。心細いとも淋しいとも言わなくても、それが伝わるところが手柄でしょう。雪ばんばは嘱目かもしれませんが、作者みずからが選んだ季語と思われます。
妻の音あらぬ一夜や吾亦紅 明澄
「妻の音」と認識したところに作者独特の視点を感じます。家事にともなう音、ひそやかでつつましい音そのものが妻という存在なのだとこの句は言っています。その点が「妻二タ夜あらず二タ夜の天の川 草田男」と違う年輪をもっています。
閉ぢし眼の前にその人返り花 昭男
この作者の句作りの特徴は、その自在さにあります。非常に骨格のかっちりした写生句もあれば、季語をバネにして想像力を存分にはたらかせた句もあります。いろいろな人生経験を積んで想像力による作品も厚みをましてきました。閉ぢし眼の前にそのひととあれば読者は、またそこから自分の想像をひろげることもできます。ひろやかなふところを持った作品です。
茶の花の全きがごと癒えたまへ 喜代子
親しい人の病いにさいして、思いをそのままに叙した作品ではありますが、作者らしい詩情が自然にそなわっています。茶の花の全きがごとという上十二が、和歌の序詞のように癒えたまへに掛かっているところも作品としては見るべきところですが、ここではただ詩情をのみ鑑賞しましょう。
色鳥のまつ先に来し一丁目 せいじ
下五の一丁目におかしみがあります。季節のおとずれを作者は敏感にとらえていて、それが一句全体の速度にあらわれています。
親しさのへんろ装束返り花 秀子
ただ遍路といえば春の季語で、歳時記には秋遍路という言葉もおさめられています。現代ならば初冬であっても遍路を見ることがあるでしょう。作者は高松の人ですから、一年を通じて遍路というものを身近に感じていると思われます。なればこそ返り花という季語も自然に即くわけです。
箒草この世の雨をいなしをり 章夫
いなすは「去なす」と書くのでしょうか。相撲用語にもあります。この世の雨をかわして、軽くあしらうほどの意味でしょう。相撲の言葉でもあるせいか、人間くさい感じがします。「箒草この世の雨をはじきをり」などと比べてみればあきらかです。そこに作者の持味とおもしろみがあります。
年棚の下のひとりは淋しかり 啓子
「淋しい」とか「悲しい」は、俳句では禁句のように言われています。しかし基本的には俳句に使ってはいけない言葉などないと考えます。だから句会では「ケースバイケースです」と言っています。どうも、それではわからない、使っていいのか悪いのかはっきりしてくれという方もありますが、一律に言うことはできません。この作品の場合も気持が濃くあらわれてはいますが、それを横から眺めているもう一人の自分がいるので流れてしまわないのです。だからよいのです。
新しい俳誌をはじめるに当たって、大上段に理念や綱領を掲げるつもりはありませんが俳句に対して真面目に向かいあいたいと思います。
新しい俳句ということを考えてゆきたい、新しい俳句を作ることによって新しい自分に出会いたい、そういうことを考えています。
ときじくのいかづち鳴つて冷ややかに 尚毅
季語の新鮮な用いようということが、新しい俳句を考えるうえで大切でしょう。この作品など、まさにそういう季語の用法がなされています。ことさらに奇抜な季語や、二物衝撃が一句の中にあるわけではありません。日本語としては無理な藝当をさせずに読者に深い感銘を与えるような季語を据えること。「さきほどの雨またの雨爽やかに 爽波」に似た据え方ですが、ときじくのいかづちという古語がたいへんに生きています。
梢の日すぐに動きぬ籾筵 朱人
高い木の梢のところにあった太陽が知らぬ間に動いていたという季語が安定しています。叙景のたしかな力をもった作品です。
おのづから径は身巾に雪ばんば 紀子
歩いているうちに野の径がだんだん細くなってくる。あたりに人の姿もない。そのうちに径は人がすれちがうこともできないくらい細くなってしまった。心細いとも淋しいとも言わなくても、それが伝わるところが手柄でしょう。雪ばんばは嘱目かもしれませんが、作者みずからが選んだ季語と思われます。
妻の音あらぬ一夜や吾亦紅 明澄
「妻の音」と認識したところに作者独特の視点を感じます。家事にともなう音、ひそやかでつつましい音そのものが妻という存在なのだとこの句は言っています。その点が「妻二タ夜あらず二タ夜の天の川 草田男」と違う年輪をもっています。
閉ぢし眼の前にその人返り花 昭男
この作者の句作りの特徴は、その自在さにあります。非常に骨格のかっちりした写生句もあれば、季語をバネにして想像力を存分にはたらかせた句もあります。いろいろな人生経験を積んで想像力による作品も厚みをましてきました。閉ぢし眼の前にそのひととあれば読者は、またそこから自分の想像をひろげることもできます。ひろやかなふところを持った作品です。
茶の花の全きがごと癒えたまへ 喜代子
親しい人の病いにさいして、思いをそのままに叙した作品ではありますが、作者らしい詩情が自然にそなわっています。茶の花の全きがごとという上十二が、和歌の序詞のように癒えたまへに掛かっているところも作品としては見るべきところですが、ここではただ詩情をのみ鑑賞しましょう。
色鳥のまつ先に来し一丁目 せいじ
下五の一丁目におかしみがあります。季節のおとずれを作者は敏感にとらえていて、それが一句全体の速度にあらわれています。
親しさのへんろ装束返り花 秀子
ただ遍路といえば春の季語で、歳時記には秋遍路という言葉もおさめられています。現代ならば初冬であっても遍路を見ることがあるでしょう。作者は高松の人ですから、一年を通じて遍路というものを身近に感じていると思われます。なればこそ返り花という季語も自然に即くわけです。
箒草この世の雨をいなしをり 章夫
いなすは「去なす」と書くのでしょうか。相撲用語にもあります。この世の雨をかわして、軽くあしらうほどの意味でしょう。相撲の言葉でもあるせいか、人間くさい感じがします。「箒草この世の雨をはじきをり」などと比べてみればあきらかです。そこに作者の持味とおもしろみがあります。
年棚の下のひとりは淋しかり 啓子
「淋しい」とか「悲しい」は、俳句では禁句のように言われています。しかし基本的には俳句に使ってはいけない言葉などないと考えます。だから句会では「ケースバイケースです」と言っています。どうも、それではわからない、使っていいのか悪いのかはっきりしてくれという方もありますが、一律に言うことはできません。この作品の場合も気持が濃くあらわれてはいますが、それを横から眺めているもう一人の自分がいるので流れてしまわないのです。だからよいのです。
≫解題:対中いずみ
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