2019-10-13

三足の靴 平野皓大

三足の靴

平野皓大


  1 序

移動していく雲を眺めるうちに空の旅は終ってしまう。いつの間にか輪郭のはっきりとした景色が目の前に広がり、そうしたら目的地だ。僕たちが熊本の空港に着いたのは、夏の日盛りの頃であった。南中した太陽を東京より近くに感じて、歩くだけで汗がにじみ出てくる。じりじりとした暑さ、熊本が火の国と呼ばれるのもよく分かる。

明治四十年、今から数えて百年以上の昔に、この熊本の地を訪れた五人の詩人がいた。雑誌『明星』に集う若者たち――北原白秋、平野萬里、太田正雄、吉井勇、それから『明星』の創刊者である与謝野鉄幹は、おおよそ一ヶ月のあいだ九州に遊び、その様子を紀行文として書き付けている。
五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た。五個の人間は皆ふわふわとして落着かぬ仲間だ。彼らは面の皮も厚くない、大胆でもない。しかも彼らをして少しく重味あり大量あるが如くに見せしむるものは、その厚皮な、形の大きい五足の靴の御陰だ。
五人が連れ立って旅をした当時の移動手段は、それぞれの履く靴であり、自らの歩みであった。この冒頭におかれた文章から想像される五人の先達は、九州で踏みしめた道のつづきに、独自の詩を作り上げていった。その足跡を追う旅に、僕は二人の友人を携えて向かうことにした。いずれも短歌や俳句を愛する気心の知れた仲間たちである。そのうちの一人、東京の待ち合わせ場所に来たY生は開口一番に挨拶ではなく、旅のあいだ何句作るつもりかを僕に尋ねた。この心意気である。旅の主眼は単なる観光にはないのだ。一週間におよぶ吟行、それがこの旅の本質である。

 炎帝の靴を焼べたる火の国か


  2 天草 一

靴のかわりに車を借りた。最後に運転してから一年以上経ったペーパードライバーばかり、運転の上手は三人のうちに一人としていない。それにも関わらず、安さに惹かれて借りてしまった。どうやら三個の人間の面の皮は案外厚いのかもしれない。

Y生に運転を任せて一同は天草へ向かう。地図で見ると熊本にくらべ随分小さいので、島の移動となれば容易いように思えたが、これが意外に大変だった。移動のみで一日が終ってしまった。運転の困ったことは立ち寄ったコンビニを発つとき、エンジンのかけ方が分からなくなったくらい、そうなかったと言って良い。それよりも特筆すべきは景色の美しいことだろう。

熊本の市街を出はずれると海に沿った道がつづく。海と言っても有明海は干潟のほうで、ほとんど泥のようなものだったが、水平線近くになっても空の青と交わることはなく、遠目にぼやけはするものの、土いろの海がゆるやかに広がっていく。左手に干潟を見ながら道を急ぐうちに、フロントガラスの下からかなり多くの蜻蛉が生まれ出した。気がつけば行く手は蜻蛉の群れである。ひかりの中でとまった蜻蛉を眼に収めると、車はそれを追い抜いてしまい、すぐさま次の蜻蛉が迫ってくる。過ぎ去った蜻蛉を忘れる時間は与えられず、音もなく蜻蛉の群れが現れるのだ。

三角(みすみ)の港近くになるといよいよ見知った海が見えはじめ、蜻蛉を追いかける旅の終りは潮風とともにやって来た。海のピラミッドという展望台があるということだが、三角形であること以外ピラミッドらしさの欠片もない。三角と三角では下手な駄洒落にもならない。とはいえ見晴らしはかなりのもので、螺旋階をのぼった上より視野いっぱいに広がる海には船がうかび、遠く山の裏から号砲のような音がひびくと、日が傾きはじめていることに気がついた。空に鳥が列をなしてその山へ帰っていく。

さて、三角から橋を渡れば天草諸島である。いくら日の永い夏といえども、十八時をまわれば暮色は明らかで、夕陽に映える海を眺めながら、さらに南へ橋を下っていった。耐えがたく暑かった日も、夕べになればゆったりと蒸して、沖に置いてきぼりにされたヨットのみすぼらしさを思わせた。そうして松島温泉なるところに着く。龍伝説の残るところらしく、龍をかたどった赤い湯船は足湯用だという。浅く張った湯がぬるい。足をつけながら、煙草をふかして疲れた身体を憩えば、もう旅を終えていい気がしてくるのだ。一同しばし黙す。日は暮れかかる。

 天草にわたる橋あり夏日あり

とはいえ宿を見つけないことには安心して身体を休めることも出来ない。宿といっても車中泊であるが、それにしても落ち着いて停車出来るところを探さなくてはならない。天草市に向かう途中の道の駅にあたりをつけて、日が沈むより早く到着するよう車を黙々と走らせた。気分はメロスである。真っ赤に目で捉えられるようになった太陽をくまモンのほっぺみたいだと思った。

結局、一日目は崎津教会近くの道の駅で眠った。暮れきる前には予定していた道の駅に着いたが、近くの海鮮屋で腹を満たせばすっかり夜で、銭湯はそうそうに閉まっていた。それから風呂を求めて夜道を進んだ。上島から天草市のある下島へ渡ったところで湯船に浸かり、寝るにはまだ早いとのY生の判断から海沿いをさらに一時間半ほどひた走った。この間、住民を見かけることは一度としてなく、唯一の生き物といえば暗い山から飛び出してきた狸くらいだ。轢きそうになった。何ものの命も奪わず奪われず、とにかく無事にたどり着けたのは幸運だったと言える。

湿った空気がクーラーで冷えきった身体を夏にひきもどす。見えない地虫の声が開け放した車窓から風に乗ってなだれ込んでくると、土くさいその風を頼りに僕たちは眠った。A生は後部座席で横になってゆっくり眠れたと言うが、どういう感覚をしているのだろう。ただただ暑いのだ。眠りかけたところでまとわりつく汗が鬱陶しくなって目が覚める。それでも何とか意識を眠りに引きずり込みはするものの、しばらくすると物音で目が覚めてしまう。一度はY生が車の外に出るところだった。うとうとしながら待ってみたけれど、帰ってくる気配はない。暑さに耐えられなくなったのだろうかとぼやけた頭に思えば、意地でもこの車で暑気に打ち勝って寝てやろうと腹が決まった。その一方で、一杯に夏をためこんだ身体を、クーラーでがんがんに冷やすのもまた夏らしいのではないか、などと思ってしまうのだ。

 あの月は夜を画布として涼しきよ

(八月一日)


  3 天草 二

深い眠りにもぐることは出来ず、しばらく睡眠と覚醒の間を漂っていると目が覚めた。それでも外に朝らしい薄光が満ちているのは、眠り込んでいた証拠かもしれない。顔を洗うため車外に出ると、Y生が石のベンチにうつ伏せていた。試しにとなりで同じ姿勢を取ってみたが、よほど疲れていなくては眠ることなど出来そうにないほど石は硬い。確かにひんやりとして気持ちがよかった。しかし寝るとなると話は別である。

仰向けに山々を見わたす。夜の間は気づかなかったが、四方いたるところ山である。青々とした一山に蝉の音が満ちていて、鳴りひびく蝉の音はそのまま雨となって降ってくる気がした。山が鼓動しているようで、寝不足の頭の奥がすこし痛む。それでも、うちよせる音の波に合わせて呼吸をすれば清々しい朝だ。

 蝉の音を笊いっぱいに潺々と

車にもどるとA生が目を覚ましていた。時間はまだ六時をまわったくらいだから、八時の出発時刻まで余裕がある。身支度を終え、昨日書き留めておいた句の切れ端をまとめる傍ら、A生と話しているうちに陽射しがだんだん強くなっていく。汗ばむほどになった頃、そろそろY生を起こそうじゃないか、そんな話をして陽を遮るものなど何もないY生の寝床へ行く。いまだ気持ちよさそうに寝ていた。そのまんま日干しにしておいて、目を覚ますときの反応を見たい、そんないたずら心も働いたが旅は長いのだ。肩をゆすって朝が来たことを告げた。

昨晩通った道をもどり大江に移動する。教会は丘の上だ。麓のロザリオ記念館で潜伏キリシタンの話を聞いた。とりわけ印象に残ったのは経消しの壺で、もとは聖水を入れていた壺に、お経を封じこめるという。キリシタンたちは、仏教式に弔われなくてはならないホトケのため、隣の部屋に潜み、ひろげた壺の口へオラショを唱える。声という声は壺に吸いこまれ、部屋には暗い息づかいだけが満ちていく。匂いを秘して、時間が湿っていくようにじっくりと一語一語、葬式が終るのを待っている。そんな想像をしながら見た大黒天像には、天使の羽が生えていて、どこか淫らなものに感じられた。まわりの枷に抵抗しつつも生き延びようとすることはつまり変化を意味する。収められたものが見る者に呼びかけ、触発するのは、生きぬく力ではなかっただろうか。一同は言葉すくなに丘をのぼった。『五足の靴』に記されたフランスの宣教師も、「パアテルさん」と親しげに呼び慕う土地の人々もいなくなったが、大江の天主堂は丘の上に変わらず建っていた。

入り口に「小鳥が入るのでドアは必ず閉めてください」と看板がかけられているのはのどかに優しい。外観は洋風の天主堂も中に入ってみれば畳敷きで、眺望の良いベンチに腰掛け、山間の村を遠目に一休みしてから、崎津の教会へ向かった。

崎津は読んで字のごとく海辺の街である。崎津の天主堂も裏はすぐに海だった。崎津の海は緑色なんだなあとぼんやり思って、口にするとどうやら違うらしい。ブルーライトカットの眼鏡の仕業らしい。ほんとうに色がいきいきとしていた。それぞれ二つの天主堂は開放的な明るさの中に建っているのだ。天にそびえる白い十字架が特徴的な天主堂は、お昼時にも関わらず、来場者にのしかかるようにその影を伸ばしている。中に入ると、やはりここも畳敷きである。藺草は熊本の名産と言うがそれだけではないだろう。二つの天主堂がキリシタンの歴史と信仰の結晶であるという見方をするなら、畳は日本の生活の拠りどころである。天主堂はただ洋風で厳かな建造物というより、人々に開かれた空間だった。そして招き入れられた者は、その足の裏で畳をはじめに触れるのである。日本という風土を下敷きに築かれた信仰、支配や従属からの解放ではなく、目指されるべきは信仰の独立であった。しかし、それはまた、転びを肯定することにもなる。

崎津を一通り歩くと、天草の南を回って熊本市内に帰っていった。道中、気になったことが二つあるので記しておく。まず一つは、正月のしめ飾りを戸口にかけている家が多く見られたこと。後で聞くところによるとキリスト教徒かどうかの判別に使うらしく、かけてない家はキリスト教徒であるという。もう一つは蛸を日に吊るし並べている光景。それは蛸の形が不気味で、どこか異境に迷い込んでいくように感じた。どちらとも天草ならではのことである。

 からからと干す天草の蛸通り

(八月二日)


  4 江津湖

熊本で驚いたことと言えば、路面電車が日常に溶け込んでいることだろう。赤いシックな電車を見送ると、向こう側から車と併走するようにレトロ調の緑色をした車両がやってくる。ホームの人はぞろぞろと慣れたふうに乗り降りをして、道路を渡って目的地へ散らばっていく。初めて東京の駅を訪れた三四郎とは方向も活気も反対といえ、打たれた感慨は似たようなものではなかったか。

動物好きのY生に誘われ一同は、市内の動物園へとI先生の車で送られた。I先生は三人を家においてくれるのみならず、毎朝美味しい朝食まで作ってくれる、飼い主みたいな人である。天草から帰って過ごす熊本の二日目、やはりこちらも晴れに晴れて、気温は朝だというのに三十五度を超えていた。動物たちも暑さにやられて元気なく、シロクマなど可哀相なくらいに困憊して、アイスの白くまほどに背を盛り上げうずくまっていた。そうそうに退散することを決めた一同は、路面電車に乗ってのんびり江津湖へ向かう。

 来よ来よと象の鼻打つ夏野かな

熊本近代文学館近くに寄ると川遊びする子どもがちらほらと現れはじめ、川沿いの芭蕉園には虚子の「縦横に水の流れや芭蕉林」という句碑が建っていた。芭蕉の群生している場所があると知らなかった一同は、芭蕉の葉の大きさにまず驚いた。涼しい葉陰に身体をすっぽり入れれば、どこからか緑な風も吹くようであった。芭蕉を眺めているうちに、熊本出身の俳人、大久保橙青の「火の国の水は美し芭蕉林」という句を思い出す。芭蕉は秋の季語である。もしかしたらこの地で句は作られたのではないだろうか、そう思うほどに傍を流れる川は美しく、見るものの心を惹きつける。人は炎天の中で水を欲する、それは母が子を愛するようにごくごく自然なことだ。近くに清冽な川があると知りながら、入らないとは阿呆のすること。たとえ砂利が足に食い込もうと、片手に靴を提げて、川を遡行していくのが世の習いである。江津湖は行く手にある。一同しばらく童心にかえり、水位が膝ほどになった頃、A生と僕とは土手に上がった。Y生のみは、この靴サンダルタイプだからすぐ乾くだろうと言って、靴を履いてはさらに先を目指す。いつも理屈っぽいY生もそのときばかり、活き活きと自然を楽しんでいた。腰元まで水が迫っているのに、近くの土手には草が茂っていて、上がることができず焦る姿は、まさしく向こう見ずの少年と言うべきではないか。

裸足に水が乾くとき江津湖に到着する。五足の靴の面々は江津湖で、芸者を乗せた屋形船を浮かべ、おてもやんを聞きながら蛍や星を楽しむというなかなか乙なことをしたらしい。しかし三足の靴ではそう上手くもいかない。ボートを借りて汗だくになりつつ湖心へ漕いでいった。Y生は上手とみえて一人ゆうゆうとボートを進めるが、初心者の僕とA生は二人乗りで苦戦してオールをばしゃばしゃと水に遊ばす。それでもA生は慣れてきたのか、風に乗って涼しげに漕ぐようになっていた。そうなると問題は僕一人で、どうにも上手く進まない。技術のなさを力でカバーしようと力めば力むほど、水は重たくなっていく。力を抜いても前に進むことはなく、同じ所をくるくるとまわっているだけ。思い返してみれば漕いでいる間の記憶は、A生の白い膝小僧ぐらいのものである。下を向いていたのだ。とうとう嫌気がさしてA生にオールを任せた。

 水嵩をとらへがたしや椎若葉

泳ぐ人に釣りをする人、橋から飛びこむ子どもに、静かに見守る大人、いろいろな人が湖畔に集まり、楽しそうな声を上げる。五足の靴が訪れた日の江津湖を思い浮かべながら、一同はふたたび路面電車に乗りこむ。

(八月四日)


  5 阿蘇

I先生が朝から阿蘇へ連れて行ってくれると言うことで、四人乗りの小さな車に、先生と三人、そして先生の愛犬クレイマーと、ぎゅうぎゅう詰めになり国道57号を東に進んだ。ほどなくすると古めかしい家屋が居並びはじめ、ここはかつて豊後街道と呼ばれていた道だという。熊本藩が参勤交代で通ったその道は、熊本市から大分へと抜けていく重要な生活道路であり、馬車で阿蘇を目指した五足の靴も、きっとこの道を通ったことだろう。ただ、当時と違うのは街道の傍らを豊肥線が走っていることで、豊後と肥前の頭を取って豊肥、I先生は放屁みたいだと笑っている。

ミルクロード入り口という交差点で国道と別れ北上する。牛の乳を運ぶことが道の名の由来だろうか、しばらくするとのぼり勾配に牛が闊歩するような、穏やかな景色が広がり始めた。阿蘇山の火口に到る道かと思えばそうではないらしく、山道の両端に咲く知らない花を、あれは鬼百合、あれは虎杖と、植物に詳しいI先生の講義を聴きながら火口から離れていき、とうとう池山水源というところに着いた。

水源は杉の木に囲まれて薄暗く、根が張っているものだから、ときおり下を見て歩かなくては危なっかしい。葉から投げ出された細い光線は湧き水をわたり、岩底の苔を青く見せている。中央には苔の重さか傾いた石彫りの水神様が、半身を水に浸して、しばらく観察していると音は遠ざかり、流れる水は水と言うよりも呼吸のように静かだ。水源は水中にあるのだろうか。天草で教会を見たときとは違う神聖さが身体に溶けていくと、さっぱりとした風が髪をそよがせる。提げてきたペットボトルに水を汲んで各々飲む。A生が桃の香りがすると言っていたが、たぶんそのボトルにもとは、桃の天然水が入っていたからだろう。掬ってみれば指の股から冷たさが逃げていき、木の間に平たく張った蜘蛛の巣へふっかけると、水はきれいに弧を描き、粒となって木を濡らす。

  あめんぼの水輪生みつぐ影うすく

小径を抜けると小さな売店が建っていて、A生はミルクアイス、僕はバニラアイスを買う。この二つ何が違うのか、食べ比べても分からない。Y生はなぜかゴボウチップスを買っていた。分からない。I先生は馴染みだという店主と座って話している。どうやら店をたたんでしまうらしい。もともと韓国の観光客あてに開いていた店だったが、最近の国交悪化にともなって訪れる客が減ったのだという。規模が大きすぎるため、どこか遠くで語られているような問題の余波が、地方の一店舗を飲みこんでしまう、いまそれを目の当たりにしている。分からないことばかりである。

ようやく阿蘇の火口へと進路を定めたのは、腹ごしらえをしっかり済ませた昼過ぎで、伸びやかな景色に揺られていると眠くなってきた。I先生が言うには、ここを訪れた人は、みんな思い思いの故郷を思い浮かべるとか。北海道うまれのY生が故郷の道に似ていると言い、僕は心の中で理想としていた故郷や田舎が、次から次に形象されていく錯覚に陥った。それともこうした景色の反射が、心にのどかな場所を作っていくのか。カントリーロードを頭の中で繰りかえしながら目を瞑った。

阿蘇の山も中腹にさしかかった頃、目を覚ます。あたりにふくらむ低い山々は異様な形で、草の緑が刮げて、土が露わになっている。先日見た熊本城の壊落のさまを彷彿とさせ、これもまた地震で起きたことかと思えば、痛ましい。しかし、阿蘇登山中の五足の靴も同様にして「青い山の剥げて土あらわなる」を見ていることを考えると、昔ながらの阿蘇の見どころなのかもしれない。

草千里を過ぎていよいよ火口に近くなったが、通行止めで登り詰めることは出来なかった。しばらく停車させただけで、車中には硫黄の臭いが充満して、窓をあけることも敵わずに、追われるように下山していく。酔ったY生を癒やすため、後に下車すると、そこの空気は澄んでいて、雨水で作られた水たまりに蜻蛉が群れているのも面白い。いずれは涸れてしまうか、それとも腐るのが先か、どちらにしても産み付けられた卵が孵ることはないだろう。斜めになった陽射しの中、さらに山を降っていく。

 夏つばめ阿蘇てふ椀をめぐりけり
 
(八月五日)


  6 跋

台風が来るという予報から、最終日にして晴れ通しの旅も終りかと思えば、寝ている合間に強い風だけを残して、台風は何処やら消えてしまった。台風とはそういうものである。子どもの勘違いに台風一家とは、ことわざにでもなりそうなお馴染みの話であるが、芭蕉翁の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を「旅に止んで」と記憶していた子どもは、どれほどいるのだろう。一週間のあいだ旅を一緒にしてきた三人も帰りは別々に、鹿児島へ行くというY生と熊本駅で別れ、A生と二人、鈍行に乗って博多へ向かった。旅に病んでと詠んだ芭蕉翁は、その四日後に亡くなっている。はたして死に臨んだ翁は何を見ていたのか、病んでとはなかなか壮絶な感慨ではないか。A生と博多でラーメンを食いながら旅が刻々と終ろうとしている。熊本ラーメンと博多ラーメンを食べる夢が叶った僕たちに、心残りは雨の熊本を歩けなかったことぐらい。旅はやり残しがあるほうが良いとはよく言ったものだ。翁にとって旅のやり残しとは、人生のやり残し、なんて考えてしまえばそれまでで、句までもが死んでしまう気がした。A生は飛行機で、僕は新幹線で東京を目指す。手に大荷物を曳きながら遠ざかるA生を見送ったとき、ふと旅愁を感じた。自分にはまだ止んでくらいがちょうど良い、そうして発車ベルを聞くのだった。この記はこれで終る。

 おろかしき旅か昼寝か友とせし
(八月七日)

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