【週俳12月の俳句を読む】
その結果として
鈴木茂雄
読者の観点から言うと、新聞俳壇の特選句に対する選評は極めて短すぎる。せめて、ツイッター(140字)に収まる程度のコメントが欲しい。そう思うのは、選を得た当の作者だけではないだろう。とはいえ、作者について情報量の少ない作品の鑑賞文に原稿用紙1枚(400文字)を費やすのは、場合によっては長い(諄い)と感じるかも知れない。大岡信著『折々のうた』所収の詩歌鑑賞の各短章は、引用する作品を含めておよそ200文字である。当初、それは大岡信が新聞の文芸欄で割り当てられた紙面だったが、考え方によっては、この限られたスペースは俳句や短歌を語る場所として、意外と理想的な空間だったのかも知れない。これは「長短随意に」という週刊俳句の本欄の原稿を書くたびに思うことである。
セーターの模様にはあらわれない情 井口加奈
この「セーター」の色はおそらく赤に違いない。「あらわれない」と表現することによって、作者はありありとその心情を吐露して憚らない。中句から下句に仕掛けた句跨りという俳句的技法によって、「情」という言葉から巧みに屈折感を引き出すのに成功している。真っ赤なセーターを想像することによって、薔薇の模様が浮き出るように作品はさらに鮮明になる。繰り返して読むと、「あらわ(平常では外から見えないものや内部にひそんでいるものが表面に現れているさま。/むき出しなさま。)」という言葉まで内蔵されているのがわかる。
子供にも旅荷ありけり石蕗の花 松本てふこ
思わず、そうそう、と頷いてしまった。こういう作品に余計な詮索は要らない。わが子の幼いころの様子を思い出した。孫娘がアンパンマンのリュックを背負っている姿も。同じ「子供」でも「にも」という言葉からは幼い子という限定が見て取れ、それによって「旅荷」も自ずから幼い子のそれを彷彿とさせてくれる。子供にだってこれが非日常であるということは、充分過ぎるほど感じ取っているはずだ。季語の効用、つまり「石蕗の花」が果たす役割も忘れてはならないだろう。
スリッパのあまたぬがれて神の留守 浅沼璞
季語の「神の留守」は陰暦十月の異名、日本の神社に鎮座する神々が出雲大社へ旅に出るため、全国にある神社の神様が不在になる月。物語は、いきなりスリッパが散乱している光景から始まる。脱ぎ散らかされた「スリッパ」は、なぜか色とりどりの蛍光色を発していて、この光景自体がすでに何かの不在を暗示している。そこに「神の留守」という季語が置かれると、その不在の対象は、集会場に集まっていた近隣住民ではなくて、まるで神々のそれだと思わせるリアリティ感が湧いてくる。
重箱の底は開かなくなっている 樋口由紀子
詩は理屈を嫌うので解説めいたことは言いたくないが、この重箱の句は、最初の「重箱の底は」までは普通の事柄を述べていて、「開かなくなっている」というこのフレーズ自体もまた普通の事柄なのに、ふたつの事柄をひとつに繋ぐと、まるであり得ないことがいかにもあり得る事柄のように、重箱の底の開閉について述べている。開かなくなっている、と。理屈で語ると、重箱の底が蓋のように開くも開かないもないのだが、そう言い返せないものを持っているのは、そこに作者が仕掛けた言葉のレトリックが働いている証拠に他ならない。
壁面緑化宙吊りの枯草も 相子智恵
一読、二酸化酸素対策とか地球温暖化対策という問題が浮上するが、一番身近な問題としてはヒートアイランド対策だろう。一概に「壁面緑化」といっても集客を目的とした商業施設などでは、インテリアのフェイクグリーンを使用している場合もあるが、この作品の緑は生の植物だろう。「枯草」がよくそのことを物語っている。その中に枯れた草をを配することによって、描かれた周囲の緑は事実よりさらに色鮮やかなものとなる。「も」の一語に示した写生力が「壁面緑化」という抽象的な言葉を「宙吊りの枯草」と同化させる。
推敲の果てに海鼠の句が残る 福田若之
実作者だったら理解できるのではないか。推敲の果てに残るものは海鼠どころではない。推敲に推敲を重ねた結果、くたくたに煮立った湯豆腐か蒟蒻のような、初句とは似ても似つかない、すが入った作品に仕上がることはよくあることだ。むしろその方が多いのではないか。海鼠は「体は円筒形で左右相称。体の先端は多くの触手を伴った口が開き、後端は肛門となる。」と、海鼠のことを詳しく調べようとしたが、よくよく読み返すと、この作品はあれこれ推敲し、その結果として「海鼠の句」が出来たのだと言っているようにも聞こえる。
冬の蜂バブル期の服死蔵せり 岡田由季
冬になって気温が低くなると、蜂の動きはだんだん鈍くなる。村上鬼城の句「冬蜂の死にどころなく歩きけり」はその生態をよく描写している。だが、揚句の「冬の蜂」が鬼城のそれと異なるのは、そこに自身を投影しているところである。「バブル期」とは1980年代後半から1990年代初頭の日本の好況期のことをいうが、この冬の蜂を目にしたとき、ふと作者はその時代に購めた「服」のことを思ったのだろう。蜂の黒い胴体に黄色いまだら模様は、バブル期に流行ったファッションを彷彿とさせるものがあるが、それもいまでは箪笥の肥やしになっているようだ。
2020-01-19
【週俳12月の俳句を読む】その結果として 鈴木茂雄
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