2020-01-19

後記+プロフィール665

後記 ◆ 福田若之

「作中主体」というのは、おそらく短歌の側から俳句の批評に入ってきた言葉なのだろうと思います。

よそのジャンルにはそのジャンルなりの批評の歴史があるのでしょうから、それについては何をいうつもりもないのですが、俳句の批評において「作中主体」という言葉を用いることに、僕もこのごろあらためて違和感をつのらせています。

ただし、句の「作者」とは別の何らかの「主体」を想定することを、不要ないし無用だと主張したいわけではありません。
 


言葉は、現象世界の原理ではなく、言葉そのものの原理に従うものです。そして、その意味では、あらゆる句は虚構だといえます。俳句も、川柳も、ことわざも、あいさつも、ひとりごとも、小誌の後記においてはおなじみの「それではまた、次の日曜日にお会いしましょう」も、その意味では虚構です。

ここでいう虚構とは、噓ということではありません。噓とのかかわりでいうならば、ここでいう虚構とは、むしろ、僕たちが場合によっては嘘をつくことを可能にする、その前提条件のようなものと考えられます。

そして、言葉が虚構だというかぎりにおいて、言葉によって表された主体が、その言葉を発した人物の実体と完全に合致しないということもまた、そのひとが噓をつこうがつくまいが、当然起こりうるでしょう。



むしろ気になるのは、「作中」という枕詞のほうです。

句の主体は、ほんとうに「作中」のものなのでしょうか。そもそも、作られた句の「中」と「外」とはどのように分別されるのでしょうか。

句を評するときに「作中主体」という言葉を適用することによって、僕たちは《句とは主体のおさまる器である》という命題を、そのつど暗黙のうちに肯定し、希薄に共有していくことになります。しかし、句を何らかの入れものに喩えるこうした言いまわし自体が、結果的にひとつの理論的な虚構を前提してしまうことはあきらかでしょう。

そもそも、句の生成以前に身体の存在を認めるとしても、句の生成以前にその句の主体を認めることはできるのでしょうか。

もし、句の主体というものを、そのつど句の言葉によって成立するものだと考えるならば、ひとがこれまで「作中主体」と呼んできたものは、通常、すくなくとも俳句の批評においては、「作者」に対して、ただ単に「主体」と述べるだけで事足りるように思われます。



つい、またややこしいことを書いてしまいました。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.665/2020-1-19 profile

山本真也 やまもと・しんや
画家。「氷室」「船団」会員。句友に付けられた渾名は与謝不遜。
俳句・短歌を共通言語に、ダンサー・ミュージシャン・蛇使い・白蟻塚研究者・仏文学者等、多ジャンルのメンバーが集う「301」を運営、月例ワークショップ開催、2019年末に作品集『301vol.2ダダダダウッピー』出版。


■柴田千晶 しばた・ちあき
1960年横須賀生。「街」同人。句集『赤き毛皮』(金雀枝舎)、共著『超新撰21』『再読 波多野爽波』(どちらも邑書林)。詩集『生家へ』(思潮社)など。映画脚本「ひとりね」。https://twitter.com/hiniesta2010


■鈴木茂雄 すずき・しげお
1950年大阪生まれ。堺市在住。「きっこのハイヒール」「KoteKote-句-Love」所属。 ☆Blog 「ハイク・カプセル」 

■河本かおり 

■小久保佳世子 こくぼ・かよこ
「街」同人。句集『アングル』(2010年/金雀枝舎)。

■中村遥 なかむら・はるか
1954年兵庫県生まれ、神戸在住。「斧」新人賞、結社賞受賞、「斧」同人、編集員。第8回朝日俳句新人賞準賞受賞。句集に「海岳」。 

■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』、2016年に『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』を上梓。

福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「オルガン」に参加。第一句集、『自生地』(東京四季出版、2017年)にて第6回与謝蕪村賞新人賞受賞。第二句集、『二つ折りにされた二枚の紙と二つの留め金からなる一冊の蝶』(私家版、2017年)。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。

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