2020-04-19

【週俳3月の俳句を読む】雑読雑考5 瀬戸正洋

【週俳3月の俳句を読む】
雑読雑考5

瀬戸正洋


浅春の図書館で読む週刊誌  森羽久衣

週刊誌は珈琲店で読むことにしています。その珈琲店には、「週刊新潮」と「週刊文春」が置いてあります。おおよそ、一週間遅れで読むことになります。ページには、珈琲の染みがついていたり、トーストのかすなどがはさまったりしています。図書館で週刊誌を読むということに、すこし、驚きました。それも、あるのかなと思いなおしました。作者は、毎日、図書館に通っているのかも知れません。図書館は浅春が似合う。そんな気がしてきました。

珈琲店で、朝刊や週刊誌を読むひとが減ったとのことです。来店者も少なくなってきたとマスターは嘆いています。



緊急事態宣言が発令されました。家から出ないことが、無能な私にとっての唯一の貢献だと思っています。



青ばかり使い仔猫を描く真昼  森羽久衣

青色の好きなひとは、激情に流されることもなく、冷静にものごとを分析し、正しい道筋を探そうとする、とありました。現実には、青色の仔猫は存在しないと思います。だが、何故、青色を使って仔猫を描きたかったということには興味を覚えます。

春ショール頸静脈を避けてゆく  森羽久衣

ひとにとって必要な頸静脈を好ましくないものだとしています。だが、避けていくものが春ショールであることがこの作品であると考えます。もちろん、感情が避けていくのではなく、春ショールが避けていくのです。そんなことにも興味を覚えています。

餃子にもある羽根ヒトは春めいて  森羽久衣

春めいていても、ヒトには羽根はありません。春めいているから、餃子に羽根があるのでもありません。羽根のある餃子があります。羽根のあるヒトはいません。そのことが、ヒトはヒトとして存在しているということなのです。ヒトとは、人間の生物学上の標準和名であり、ヒト科、ヒト属、ヒトとなるのだそうです。

ヒヤシンスさして好きでもないくせに  森羽久衣

小学生のときの水栽培を思い出します。ヒヤシンスとは、誰もが知っているポピュラーな花なのでしょう。いつもそうなのですが、十七の文字をながめていると、ヒヤシンスが自分に対する何か<人or物>であると思えてきます。

バレンタインの日に渡すはずだった。  森羽久衣 

句点は、文の終わりに、意味の区切りに付けるものです。つまり、この作品は、「。」がすべてなのです。何を渡しかったのか、何故、渡さなかったのかなどとはどうでもいいことなのだと思います。

チョコチップクッキーぼろぼろと朧  森羽久衣

入れ忘れていた、そのままにしておいたということなのかも知れません。興味が薄れてしまったということなのでしょう。朧とは、もののすがたがかすんではっきりしないさまをいいます。チョコチップクッキーがかすんではっきりしないということではありません。おそらく、自分自身がはっきりしていないということをいいたいのだと思います。

春の風邪にすぐ効くシュークリームかな  森羽久衣

シュークリームをてのひらにおいてながめてみると、確かに、食べると、すぐに効くような気になります。私は、春の風邪にかかってはいませんが、シュークリームを食べようと思っています。

風の日は菠薐草を薄味に  森羽久衣

菠薐草を洗うとボールの底に砂のようなものがたまります。数回、洗うと、それもなくなり、そのまま、熱湯で茹でます。それを小鉢に盛り、かつおの削り節をのせます。茹でた菠薐草にかける醤油の量、ポン酢の量を少なくしょうと思ったのは、風の日であったからなのです。

風の日について考えていたら、ボールの底にたまった砂のようなものを思いだしました。

きさらぎの翼を少し休ませて  森羽久衣

きさらぎとは、冬と春とが共存する月です。それも、だんだんと、春になっていきます。だんだんと、あたたかくなっていきます。この少しの変化がこころをなごませます。翼を休ませるにはふさわしい月なのかも知れません。

振り仮名を濡らすくらゐの月の春  生駒大祐

振り仮名がついていようと、いなかろうと、それはどうでもいいことなのかも知れません。ただ、文字をながめていけばいいのだと思います。それが、正しいことなのか、間違っていることなのか、それも、どちらでもいいことのように思われます。振り仮名を濡らすくらいの月のひかり。何もかもが濡れている春でなければならないような気もします。

春月や拗ねて鳴く戸を拐かす  生駒大祐

戸にも意思はあるのです。拗ねることもあるでしょうし、鳴くこともあるでしょう。力ずくで閉めることができれば、それにこしたことはありません。だが、それを繰りかえしているうちに、何故、拗ねるのか、どこで、どう拗ねるのかがわかってきます。濡れてしまった戸は、すぐに、拗ねて鳴きます。春の月も庭先を照らしています。

声ほどに嵩張るはなし鶴帰る  生駒大祐

話しているうちに興が乗ってきたということなのでしょう。ものごとは、はじめるまでがたいへんで、いったん、手をつけたら、どんどん進んでいってしまうこともよくあります。冬を越した鶴がシベリアへ向かって飛びたつ季節になりました。鶴もこころを嵩張らせて飛びたっていったのかも知れません。

閨は雨降るものと芹刻みけり  生駒大祐

「閨」とは、寝間、夫婦仲、婦人とあります。この作品の場合は、そのすべてなのかも知れません。なんとなく、石をなげて様子を見てみたということなのかも知れません。芹とは、春の七草のひとつです。春は、雨が降っても、晴れても、おだやかなこころを保つことができます。だんだん、あたたかくなってくるということは、精神衛生上、良いことなのかも知れません。

遊ぶにはあまりに狭き春の闇  生駒大祐

労働、食事、睡眠以外の、こころを満足させることを目的として行うものを「遊び」といいます。要するに、精神のはなしです。春の闇が、あまりに狭いと感じたことは、そのときの作者の心のふり幅に関係があるということなのかも知れません。

花冷や瞼は使ふたび古ぶ  生駒大祐

生きるということは、死に向かって進んでいくということです。ベルトコンベアーに乗せられた土塊が運ばれていくようなものです。ベルトコンベアーの到着点がわからないというところが救いなのでしょう。瞼は使わなくても古くなります。寒さであろうと、何であろうと、戻ることができれば、こんな有りがたいことはないと思います。

微熱あり遠く花降る橋があり  生駒大祐

微熱というと、すこし、どきりとします。先日、内科医院へ行き、「花粉症なので薬をもらいにきました」といったとたん、診察室の緊張がゆるみました。医師は、急に笑顔になり、私のからだにふれることもなくカルテを書き、診察室を出るようにとうながされました。「遠く花降る橋」とは、いい風景ですが、とにもかくにも、微熱が下がってからのことなのだと思います。

水岸や花は力を抜いて死ぬ  生駒大祐

力を抜いて死ぬことができたら、どんなに幸せなことなのかと思います。花だからこそできることのかも知れません。ロケーションも悪くはないと思います。力を抜いて死ぬとは、力を抜いて生きると同じことです。日暮れに岸辺で花をながめていたから、そんなふうに思ったのかも知れません。

霞草空に吊せば泳ぎけり  生駒大祐

霞草のちいさな花束を空に向かって放り投げる。吊るすこととは異なりますが、そんな風景を思いうかべました。その花束は、泳いでどこかへいってしまったのだと思います。

君の手よ論理の穴に花を挿し  生駒大祐

議論の筋道、ものごとの法則的なつながりのことを「論理」というのだそうです。ものの面にある窪みのことを穴といいます。だが、「論理の穴」といわれても、私には、よくわかりません。「論理の穴」に花を投げこんでみる。「論理の穴」に投げこまれた花と、投げこんだ手とは、愛しあっているのかも知れません。

仮の世の春を現の手が冷た  生駒大祐

春とは仮の世だといいます。何故、仮の世であることに気がついたのかといえば、手が冷たかったからです。手があたたかかったら、そのことに気づかなかったのかも知れません。季節とは仮の世である。そういわれてみるとそんな気になります。何故なのか、少し考えてみたいと思います。

手渡す花その萼雫して春寒  生駒大祐

雨の日の庭先かも知れません。とにかく、萼が濡れているほどですから、相当の雨量なのでしょう。そんなとき、一輪の花を手渡す。よほどのことがあったのだと思います。老人である私にとっては、非日常の世界ということになるのだと思います。

笑へ舗道の水漬く椿を見て言つた  生駒大祐

笑って欲しいと思うことは誰にでもあります。生きることは、恥の繰りかえしです。舗道の水たまりに椿の花が落ちています。それに向かって「笑へ」といったのです。誰も気づいてくれなくてもいいのです。「笑へ」といったことが重要なのだと思います。

晩かけて発語の喉に菫咲く  生駒大祐

日が暮れかけて、何かをいいだそうとしたとき、喉に菫が咲いたのです。何故か、みなみらんぼうの「コートにスミレを」という唄を思いだしました。寂しかったのかも知れません。みなみらんぼうには、他に、「ウイスキーの小瓶」「武蔵野情話」「酔いどれ女の流れ唄」などの作品があります。

風に髪乱れてもただ雉子鳴いて  生駒大祐

散歩の途中に、よく雉子を見かけます。ただ、鳴き声はいちども聞いたことはありません。仕事を辞めてから理容室へ行くことを止めました。落ち武者のようなありさまです。老妻は、サヨク崩れのクレーマーのようだと不快な顔をしています。不思議なことに髪を切らなくなって、髪が風に乱れたことはありません。

湖は細波もない二月末  藤田哲史

おだやかな湖をながめながら、何を思っているのでしょうか。二月の末とありますので、たまたま、そこで佇んでいる。他に何か、目的があって、ここへきたのだと思います。二月の末の湖が、晴れていたのか、曇っていたのか。作者のこころが、水面とおなじだったのか、それとも、異なっていたのか。私には、何もわかりません。

ペーパーウェイトは鋼の卵冴返る  藤田哲史

タイトルは、「鋼の卵」です。「鋼の卵」のことを、はじめて知りました。「鋼の卵」を、ペーパーウェイトの代用としたということなのでしょうか。一度、暖かさを経験したあとにくる寒さのことを「冴返る」といいます。「鋼の卵」について、よくわからないのに、「鋼の卵」十五句を読んでいる図々しさに、自分ながらも、呆れている次第です。

啓蟄のナイフ・フォークの眩しいこと  藤田哲史

眼が疲れているのでしょうか。かるい先端恐怖症なのかも知れません。眼のいちばん疲れる季節は、日差しも強くなり、冷房による乾燥の影響の最も受けやすい夏です。啓蟄とは、その季節へのプレリュードということなのでしょか。眩しさに気になりだしたころということなのかも知れません。

梅と雨君は得意のハナモゲラ  藤田哲史

ハナモゲラとは、ことばあそびのひとつ、タモリの「言葉の物真似」だといわれれば、何となく、聞いたことのあるような気がします。梅の花の咲くころ、冷たい雨が降っている。ハナモゲラとは、笑いのなかに、何故か、さびしさがただよっているあそびです。君のことを象徴しているのかも知れません。

早春は餅屋に響く掛時計  藤田哲史

最近、餅屋を見かけません。先日、「一升餅」をたのみに行きました。それは、和菓子店でした。餅屋の店内の掛け時計が響く季節は、「早春」であるといわれれば、そんな気がしないわけでもありません。

卒業期サンドイッチのきゅうりの味  藤田哲史

きゅうりの入ったサンドイッチは、学生のころに食べたものなのかも知れません。真っ白い食パンに緑いろのきゅうりだけが挟んであるサンドイッチ。貧しいころの思いでは、何故か、切なく、酸っぱいものなのでしょう。

会いたさはクレソン乗せる皿の円  藤田哲史

クレソンに何らかの思いでがあるのでしょう。会いたいひとは同性なのでしょうか、それとも異性なのでしょうか。バイキング形式の昼食、トングからクレソンが離れ皿のうえに落ちたときに思いでがよみがえったのかも知れません。

松の芯放浪癖は僕に今も  藤田哲史

松の新芽をながめていたら、どこかへ行きたくなった。松の新芽のあざやかな緑いろにこころが動いたのだと思います。ここにいたくない、ここから逃げだしたい、楽になりたいと思うことは、誰にでもあります。「放浪癖」ということばの世界に逃げてみることも必要なことなのかも知れません。

のどかな日自転車が踏む水たまり  藤田哲史

おだやかなこころでいるから、ハンドルを水たまりに向けたくなったということなのかも知れません。水たまりを踏んだときのサドルの衝撃もかまわない、スポークが汚れてしまってもかまわない。のどかな日であるから、何があっても、こころ乱されることもなく、楽しむことができるということなのでしょう。

夕星の弘法市に苗木見に  藤田哲史

京都の東寺で毎月二十一日に開催される縁日のことを「弘法市」といいます。市の終わる夕刻は、出店者も片づけることに気が急いて、客との対応がそぞろとなります。こちらはこちらで、夕星の美しさが気になっていますので、ゆっくり話すことなどどうでもいいと思っているのです。夕星とは、有りがたいものなのだと思います。

囀に木の息づきが託される  藤田哲史

囀りと森との呼吸が一体化している。そんな気がします。囀りのなかに佇むことだけでも、木の息づきを感じることだけでも、十分なことだと考えます。

花のころ日が差している製図台  藤田哲史

仕事場にある製図台が寂しいのです。仕事場にいることが寂しいのかも知れません。花の季節、缶ビールでも片手に散歩でもしたいのかも知れません。窓から日が差しこんでいることが、唯一の救いなのだと思います。

静寂をつばめが冒すことかすか  藤田哲史

静寂とは神聖なものなのです。それを冒瀆したのが、つばめです。だが、つばめは、静寂が神聖なものだとも、それを冒瀆したのだとも思っていません。つばめは、ただ、自由に飛びまわりたかっただけなのです。「かすか」とは、わずかに感じられる程度とあります。

虻の空別れのときのふざけ方  藤田哲史

虻の空とありますが、虻が群れて飛んでいるところを見たことはありません。別れのときは、ふざけるに限ります。真面目に、別れのことばなど、なかなかいえないものです。弱みは誰にも見せてはいけません。一匹の虻が、高速で目の前を横ぎっていきます。

ペリカンがよろめいている日永です  藤田哲史

何らかの不正、よこしまな目的をもって、他人を誘うこと、あるいは、まどわすことを「誘惑」といいます。ペリカンはよろめいているとありますので、何らかの誘惑に乗ってしまったのでしょう。もちろん、これは精神のはなしです。「日永」とは、春の季語です。実際には、春より夏の方が日は長いのですが心理的なものなのだそうです。

ピンホールカメラのコロナ黄砂来る  大野泰雄

ピンホールカメラは針穴写真機ともいいます。簡単なカメラで小学校の授業で学んだりもします。新型コロナウイルスも黄砂も西の方からやってきました。「ピンホールカメラのコロナ」とありますから、気楽に考えているのかも知れません。ただ、誰もが閉塞感に押しつぶされそうなとき、気楽に考えてみることも必要なことなのかも知れません。

春ひとり仮面(マスク)のコロナ映画館  大野泰雄

感染している、いないに係わらず、自分は感染者であるとして行動すべきであると、マスコミは、繰りかえしいっています。感染者が他人にうつさない行動が、うつされないための行動であるということなのだそうです。このような考え方は、ひととの接し方の参考になると思われます。「仮面(マスク)」とありますので、演じていることを強調しているようにも思われます。新型コロナウイルスのはなしだけではないようにも思われます。「春ひとり」「コロナ映画館」とあります。作者は何をどのように演じようとしているのでしょうか。

春愁のギプスの裏に湿りをり  大野泰雄

どうでもいいことから書きますが「ギブス」だとばかり思っていました。ついでに続けますが、ギプスをはずすとき、医者は電動鋸を使います。「痛い」といってもおかまいなしに切りつづけます。ギプスをはずしたあとの皮膚にはうっすらと血がにじんでいることもあります。少しぐらいなら皮膚が切れてしまうことは、医師にとっては想定内のことだったのだと思いました。こちらにしてもギプスのはずれたよろこびの方がおおきく、何もいいませんでした。春愁は、ギプスの裏にもどこにでもあるものだと思います。湿っている春愁を解放させるのは電動鋸であると思いました。

ぺるそなの裏の蛙の目借時  大野泰雄

私は「老人」という仮面をつけて生きています。余計なことは、一切いわず、老妻や子どもや世間様のおっしゃることには逆らわず生きていこうと思っています。だが、その魂胆を見透かされてしまうことは、多々あります。そのときは、うつむいて笑っていればいいのだと思っています。春は、老人にとってはよろこびの季節です。陽気もよくなり、ついうとうととしてしまいます。

春昼は裏の畑に居マスとな  大野泰雄

玄関脇の小さな黒板に「下の畑二居リマス」と書いたのは宮沢賢治です。半農半教の生活スタイルを表す貴重なことばとして知られています。この作品の場合は、洒落であると思いました。春昼の気の利いた、ひとをおもわず「クスッ」とさせる言葉だと思いました。

口裏を合はせ蒲公英咲き初むる  大野泰雄

良くも悪くも、長い間、口裏を合わせて生きてきたと思っています。「裏」を合わせることが、唯一の仕事(金儲け)だったのかも知れません。だが、その作業は疲れます。もうたくさんだと思っています。無職になった、現在、蒲公英の花を見つけてのんびりする生活。こんな幸せなことはないと思っています。

鳥雲に入る裏口のありにけり  大野泰雄

裏口をみつけることも、ひとつの才能だと思っています。正々堂々と、正面から受けてたつことは疲れます。いちど裏口から入ることを覚えますと止められなくなります。ひとは弱いものなのだと思います。裏から入ったのか表から入ったのかよくわからないのが世のなかなのだと思います。もちろん、ひとだけではなく、渡り鳥にも、裏と表の生き方があるということは、当然のことだと思います。

朧とは仮面の裏の溜まる息  大野泰雄

「朧」とは、もののすがたがかすんではっきりしないさまとあります。作者は、「朧」とは、「息」でもあるといいます。それも、「仮面の裏の溜まる息」なのです。演ずることに疲れたのかも知れません。だから、「息」が溜まるのです。「息」とは、空気を吸ったり吐いたりすることに関係があります。「空気」とは、読まなければならないものでもあります。

冴返るライフマスクを顔に付け  大野泰雄

ライフマスクとは、生きている人間の顔の形を写し取ったマスクです。顔に付けとあります。自分のマスクを付けてみたのでしょうか。他人のマスクを付けてみたのでしょうか。ところで、寒さがぶり返した早春の季節に他人のライフマスクを顔に付けてみたくなったのだとしたら、それは、どういうことなのでしょうか。

春暁の尻拭く紙に並びたる  大野泰雄

不思議な光景だとおもいます。どこだかわかりませんが、トイレットペーパーが並べて置いてあります。そこに自分も立ち止まってみます。夜明け前の春のできごとだといっています。

うららかに美容脱毛サロンかな  龍翔

この場合の「うららか」とは、精神のはなしなのかも知れません。空が晴れて、日もやわらかくなっています。脱毛には、美容脱毛と医療脱毛とがあるのだそうです。脱毛することで、こころがおだやかでいられることができるのであるならば、それを否定するものは何もありません。

イマジナリーフレンドは春蘇る  龍翔

勝手なことを書きます。よくわかっていない老人のたわごとだと思ってください。夢も希望も希薄になった老人にとっては、現実だけで十分なのです。体力が余っているからそちらの方へいくのかとも思われます。自問自答から発生したものかとも思いました。「春蘇る」とありますので、この場合の、イマジナリーフレンドとは、肯定的に使われているのだと思います。

春愁やミニマリストを気取つても  龍翔

ミニマリストになりたいといくら思ってみてもミニマリストにはなれないということなのでしょう。生活スタイルとは精神です。ふとしたことで、こころがくもったのではありません。春だから、こころがくもったのだと思います。徹することは難しい。だから、気取るしかなかったのだと思います。

げんげ田に欲望を放し飼ひせり  龍翔

欲望は抑えることが肝心です。だが、げんげ田にいるときぐらいは、たがを外しても許されるだろうと思っているのかも知れません。最近、げんげ田は見かけなくなりました。子どものころは、どこにでもあり、よく、寝転がり空をながめたものです。げんげの種を蒔かなくなったからなのだと思います。げんげ田に寝転がると、その花や葉は、首や頬、肌にやさしく、空がどこまでも青かったという記憶があります。

目隠しをされてよろこぶ黄水仙  龍翔

見たくもないことばかりということなのかも知れません。それでも、自ら、目隠しをすることには、ためらいがあります。花壇に気水仙が咲いています。そのうしろに、目隠しされたひとが何人もならんで立っています。それとも、気水仙が目隠しされているということなのでしょうか。精神の病みはじめのころの光景なのかも知れません。

トラウマや雉に罵声を浴びせられ  龍翔

雉は、罵声を浴びせることはありません。雉の鳴き声を罵声と感じてしまうほど精神がまいってしまっているのでしょうか。「トラウマ」とは、精神的ショックや恐怖が原因で起きるこころの傷のことなのだそうです。

沈黙のそばにクレソン添へにけり  龍翔

口をきかない理由、黙りこんでいる理由を知りたいと思うことは間違っているのかも知れません。たとえ、知ることができたとしても、それが、いったい何になるのでしょうか。クレソンは、ステーキなどの脇に添えられている野菜です。抗菌作用、防腐作用、血行促進作用、食欲増進作用などの効果があるとのことです。

棒読みで言はるる礼や雀の子  龍翔

まごころのこもったような態度でお礼を言われるよりも、こんな感じで言われる方が気楽でいいと思います。ひねくれているからではありません。真面目にいわれると照れてしまいます。お礼をしないわけにはいかないと思う程度であることを表現する。その微妙なバランスが大切なことなのです。晩春の庭先のありふれた風景というところなのかも知れません。

丁重にしらばつくれてチューリップ  龍翔

知っていて知らないようなふりをすることは苦手です。疲れることは極力避けなければなりません。丁重なことばを使うことは、お互いに不幸なことなのかも知れません。これもすべて、チューリップに責任があります。チューリップが、このような立場をつくりだしたのです。「サイタサイタ チューリップノハナガ ナランダナランダ アカシロキイロ・・・」うしろの方から、こんなメロディーが流れています。

春の夜のルサンチマンを育めり  龍翔

ひとは、弱いものです。世のなかには、丑三つ時のわら人形とか、なけなしの金をはたく「必殺**人」などという、ものがたりがあります。年齢を重ねると、全戦全敗の意味を考えるようになります。それが人生ではないかと思うようになります。私自身も、多くのひとに恨まれていると思っています。「育む」とは、養い育てることですが、ルサンチマンとなると、柄ではないが抵抗を覚えます。ましてや、春の夜にそんなことをする。何か虚し過ぎるような気がします。


森羽久衣 風の日は 10句 ≫読む
生駒大祐 口伝花語 15句 ≫読む
藤田哲史 鋼の卵 15 ≫読む  
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大野泰雄 コロナ裏仮面 10句 ≫読む
龍翔 放し飼ひ 10句 ≫読む

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