まるで物体のように
鈴木茂雄
詩とはどういうものだろう。俳句を読むときにはいつもそのことが頭をもたげ、そのことを自分なりに言葉で表そうとすると、もどかしい思いに駆られる。しかし、詩の魅力とはどういうものだろうということぐらいなら、少しは伝えることができるのではないかと気持ちをリセットして書くことにしている。それは、詩というものは読んでもすぐに何のことだか解らないが、詩の中の言葉は新聞や雑誌の言葉と違って、言葉そのものに魅力を感じることができるからである。読むことができる言語で書いてあるにもかかわらず、読んでもすぐに意味がつかめなくて、まるでいきなり言葉の通じない異国に放り出されたような感覚になる。小説を読むようにはすらすらと読めない。それはまるで小説を読むように読んではいけないという戒めでもあるかのような、このすっと解らないということが、詩の魅力のひとつとして古今東西の人を引きつけて止まないのだろう。解らないこと、謎めいたこと、それは非日常の代名詞であるが、日常にも謎は至るところに満ち溢れている。身辺にあるものはあまりにも当たり前すぎて誰も気がつかないだけで、詩的言語で構築した空間をぱっと目の前に出されると、人はあっと声に出して吃驚する。言葉は視覚化できないからこそ自由にイメージできるのである。俳句という詩形式もまた同様、解るものより解らないものの方がはるかに魅力がある。折り目正しいものより何だかよく解らない、行儀の悪い、謎めいたもののほうがいっそう魅力を秘めていて、言葉の感触、響き、語調、文彩、曖昧さ、含意、などにこまやかに注意を傾けることによって、自由に想像を膨らませることができるのである。
青ばかり使い仔猫を描く真昼 森羽久衣
難解ではないがどこか謎めいている。なぜ「青ばかり」使って子猫を描くのだろう。そう思いながら繰り返し読んでいると、「青猫」の連想からふと萩原朔太郎の散文詩「猫町」を思い出し、その幻想的な町の光景がありありとわたしの脳裡に浮かんできた。人は病んだ詩人の空想というが、その町はきっといまもどこかに実在しているに違いないと、わたしは思っている。珈琲店、煙草屋、理髪店、旅館、洗濯屋、写真屋、時計屋、なかでもとりわけ美しい四辻の赤いポスト。路地が細く入り組んだ町並みは青みを帯びた影絵のようだった。この句を繰り返し読むと、硝子のように透明なブルーで描く「仔猫」はまさに猫町の住人のように思えてくる。終日白っぽいカンバスのような「真昼」の往来を眺めながら、そこにすうっとひとすじ引いた青い線の影がやがてリアルな全体像として現れるのを待っているのである。この「描く」は絵を描くということではなく、そんな子猫を心に思い描いているということなのであろう。
ヒヤシンスさして好きでもないくせに 森羽久衣
季語は「ヒヤシンス」で春。そう確認すると、この一句はにわかに季節感を帯びてくる。季節が解らなければたとえ花であっても無季の陶器と変わらない。この花に限らないが、どの花がいつが咲きごろかなどというのは、よほど花に詳しい人でないと桜や向日葵の時期を答えるようには即座に出てこない。確認できると安心して先に進めるのは、やはり俳句を読み解くヒントのひとつになるからだろう。こういうときに、いやこの句はヒヤシンスではなくてもいいだろうなどと、例の動く動かない説を持ち出すのはナンセンスというものだ。橋閒石の「銀河系のとある酒場のヒヤシンス」のヒヤシンスは、わたしにとって衝撃的な名場面に登場する花のひとつだったが、揚句のヒヤシンスはまた違った意味でわたしの目を惹いた。このヒヤシンスはどこに置かれてあったのか。いずれにしても、以後、カウンターの隅に置かれたヒヤシンスを眺めるたびに、「さして好きでもないくせに」というこの台詞が聞こえてくることだろう。そのやり取りの続きを空想するのも悪くない。物語はいつもこうして始まるのである。
バレンタインの日に渡すはずだった。 森羽久衣
この句は作者名がないと散文の一行にしか見えない。一読してそう思った。俳句のあとに作者名は必要だということを証明するような作品だ。俳句に句読点が無いことには誰も疑いを持たないが、作者にとって、この作品には句点が必要だったのだろう。だから打ったのである。だが、それはなぜだったのか。句点というのは文が終わった印として付ける記号だが、揚句のようなたった一行の文末にどうしてこの符号が必要だったのか。その疑問はすぐに氷解した。俳句には行きて帰るという読ませ方がある。作者はそう読まれたくなかったからである。つまり、読者に上句「バレンタインの日」に戻って欲しくなかったのである。だから作者は、あえて俳句にとっては奇異とも思える句点という終止の符号を文末に打ったのである。この句点は終止をさらに強調するための記号と思えば納得がいくだろう。バレンタインの日でもなく、何を渡すかでもなく、「はずだった」に注目して欲しかったのである。
水岸や花は力を抜いて死ぬ 生駒大佑
「水岸」という言葉は、その象形から視覚的に意味は伝わってくるが、海岸とか川岸という呼び名のようにすっと頭に入ってこない。なぜだろうと思ったら、そうか、「みずぎし」という耳慣れない音だからだとすぐに合点がいった。むしろウォーターフロントと言ったほうが耳がすんなりと受け付ける感じがする。念のために広辞苑ほかの辞書に当たったが、この言葉は載ってなかった。では、どうして作者は「mizugishi」とキーボードを叩いても出てこない文字を選んだのだろう、という疑問。作者にとっては、ごく普通の、地方の土着に根付いた言い表し方なのかも知れない。水岸は淡水のイメージ、感覚的にも川沿いの風景が浮かぶ。揚句は川沿いに咲き誇っている満開の桜が、もうこれ以上は持ち堪えられない待ちきれないという状態から、一気に飛花落花する過程を詠んだものだろう。「花は力を抜いて死ぬ」とはそういう状態を把握したものである。
ペリカンがよろめいている日永です 藤田哲史
季語は「日永」で春。この句は、ペリカンがよろめいた一瞬の景を切り取ったものだが、一瞬の光景を見事に捉えた句で、しかも同じ季節で思い浮かぶ作品といえば、芝不器男の「永き日のにはとり柵を越えにけり」だろう。言い方は違うが「永き日」は揚句と同じ意味の季語。日永や永き日という言い方は俳句独特の手法だが、短日の続いた冬が終わったある日、ふと、日が長くなったと感じることを感覚的に捉えたものだ。不器男の「にはとり柵を越えにけり」はビデオのスローモーション装置によってしか見ることのできない時間の断続的瞬間を捉えたものであるが、「ペリカン」の句の方はよろめいた瞬間を捉えたスナップショットだ。と、ここまで解説めいたことを書いたが、本当のところは解らない。謎めいた作品ではあるが、ひょっとしたら「ペリカンがよろめいている」ような「日永です」という、季語の本意を詠んだ挨拶句だったのかも知れない。すぐれた詩はときに変容することがある。
春ひとり仮面(マスク)のコロナ映画館 大野泰雄
このたびの新型コロナウイルス感染症による風評被害のために、メキシコの「コロナビール」が製造中止になったそうだ。この句の「コロナ映画館」という名前もまた寓意などではなく、おそらく実在の映画館だろう。「春ひとり」で即座に思い浮かぶのは能村登四郎の「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」だ。スポーツマンの孤高を巧みに描いたものだが、揚句は一人で映画館に行った折の所感だろう。「仮面」を(マスク)と読ませているのは、実際には感染予防のためにマスクを付けていたのだが、空席の多い映画館の座席に一人で座っていると、自分が付けているマスクが仮面に思えたというのだ。サングラスを付けたときもそうだが、マスクを付けている自分がふといつもの自分と違う自分を見出すという感覚はよくあることである。それにしても、そもそもコロナという言葉はクラウンの語源だったのにと、悔しい思いをしている人は少なくないに違いない。一刻も早くコロナ災禍が終息することを切に願うものである。
沈黙のそばにクレソン添へにけり 龍翔
沈黙という抽象的なものがまるで物体のように置かれてる。しかも、そのそばにクレソンを添えたというのだから、まるでステーキか何かのように、沈黙が白い皿か鉄板の上に置かれているというのだが、そんなことは現実にはあり得ない。不思議な光景だ。沈黙という頭の中にあるものが臓器みたいなリアルな造形物として目の前にあるのだ。常識的にはあきらかにこれは何かの間違いだと解っているのだが、一句に描かれた光景を眺めていると次第に現実味を帯びてくる。構築された言葉が詩に変貌したからだろう。季語は「クレソン」で春。ステーキなどにアクセントとして添えられている香味野菜。ピリッとした辛味と独特な香りがする。だが、この「沈黙」というのは一体なんだろう、という疑問。疑問というより実にミステリアスな話だが、この句も何度も繰り返して読んでいると情景が浮かんでくる。ここでもまた物語が始まろうとしていたのだ。ある女には好きな男がいて、その男の本心を知りたがっていた。しかし彼は口数の少ない寡黙な男だったから、なかなか聞き出せないでいたのだが、ある夜、女は思い余ってついに決行したのである。そうなのだ。その男の心臓を抉り取り、血の滴るその「沈黙」にナイフを入れて、いままさに食べようとしているところだったのである。辛味の効いた香草、クレソンを添えて。
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