【週俳3月の俳句を読む】
生駒大祐を摑まえてみる
鈴木牛後
生駒大祐の俳句を確と手の中に収めるのは簡単なことではない。収まったようなつもりになっていても、最後にするりと手から逃げるような、そんな感覚があり、そこがこの作者の持ち味でもある。昨年出版されて話題になった句集「水界園丁」にはそんな印象を持ったが、この「口伝花語」も、その魅力を存分に引き継いでいる。そんな句のひとつひとつを何とか掴まえてみたいと試みた。
振り仮名を濡らすくらゐの月の春 生駒大祐
そういえば、「水界園丁」には、振り仮名がひとつもなかったのではないか。というよりも、この作者は振り仮名が必要となるような難しい漢字などはまず使わない。その理由を想像してみると、そのような難解な言葉には、特定の強いイメージが纏わりついてしまい、句集全体に広がる、薄いベール越しに透かしてものを見るようなイメージを損ねるからなのではないだろうか。もしかしたら、単に好みではないというだけかもしれないが、何となくそう思った。
さて掲句だが、「月の春」という季語はあまり目にしない。「月の秋」はよくあるが…、と書いていて、これは「振り仮名を濡らすくらゐの月」なのだろうと思い当たった。「濡らす」というのだから、月の光を霧雨のようなしっとりとしたものに喩えている。そしてそれは、漢字本体ではなく振り仮名を濡らすというくらいだという。表意文字としての漢字は、字形と意味が分かちがたく結びついている。その「分かちがたさ」には、俳句形式という外側から、常に引きはがされようとする力が働き、その力が、本来はないはずの振り仮名を幻視のように出現させ、そしてそれを濡らして溶かそうとする。もちろん「くらゐ」だから比喩にすぎないのだが、振り仮名だけがしとしとと濡れてゆくという光景は、春の月の、いつか滴ってくるような湿り気に通じている。ここに月をもってきたのは、俳句形式の象徴として、景物の代表を選んだと言うことなのではないかと思う。
声ほどに嵩張るはなし鶴帰る 同
声ほど嵩張るものはないと作者は言う。コロナウィルスでソーシャルディスタンスがうるさく言われる現在では実にタイムリーとも言える表現だが、もちろんそんなことをイメージしての措辞ではないだろう。実際に、声の大きさというものを今ほど感じた時代はないのではないか。物理的な声は、昭和のころの「寺内貫太郎一家」の親父のような人の方が大きかっただろうが、令和の今では、SNSで、たとえばツイッターのフォロワーの多い人(今調べてみてわかったのだが、フォロワー1位は松本人志、2位は有吉弘行らしい。そうなのか…)の影響力はたいへんなものがあるだろう。 「鶴帰る」の凛とした静けさが、それとは対照的な景を結んでいて、かえって「嵩張る声」を印象づけている。。
遊ぶにはあまりに狭き春の闇 同
「水界園丁」に《帆畳めば船あやふさの春の闇》という句がある。どちらも「春の闇」の外側にある限界を表現しているのではないか。吉村昭の「漂流」は私の好きな小説だが、そこには、海がひどく荒れたときは帆を畳むしかないという記述が何度もあらわれる。漂流の危険を冒してでも転覆を避けるということだ。その「あやふさ」。外側には春の闇という、生命の臨界が取り巻いているばかり。それに対して、掲句はのどかに感じられるが、どこか不穏でもある。夜の遊びとは何かはわからないが、どんな遊びにも外枠はあって、それは春の闇のようにじんわりと、そしてじっとりと私を包んでいる。
微熱あり遠く花降る橋があり 同
「橋」といえば「水界園丁」には《のぞまれて橋となる木々春のくれ》があった。伐られる木にはそれぞれ用途があるのだが、こちらとあちらの世界に掛ける「橋」にはどこか幸福感がある。「微熱」は病気の初期症状ではあるのかもしれないが、日常を少し離れた心的状態になる祝祭感もあるだろう。そんなときに、どこか遠くで、異界どうしを繋ぐ橋に花が散っているという景が美しい。
せっかくの機会なので、他の方の句も読んでみたい。
青ばかり使い仔猫を描く真昼 森羽久衣
「軽さ」が持ち味と思うが、「軽さ」の底に重心のようなものが見えない句が多いという印象を持った。そんな中、この句には惹かれるものがあった。仔猫というのは単に可愛がられるばかりの存在ではなく、その内側にはすでに狩猟本能を宿している。その、いつか現れてくるであろう牙を、冷たい青で表現したのではないか。猫の本質を見抜いている目がここにある。
ペーパーウェイトは鋼の卵冴返る 藤田哲史
鋼こそがペーパーウェイトの原料なのだから、ふつうに考えれば鋼の方が卵という比喩にふさわしい。だがここでは敢えてペーパーウェイトの方が卵だという。私なども原稿を書くときには、机に資料となる本を広げ、そこに自然に閉じてしまわないようにペーパーウェイトを乗せておく。つまり、そこが思考が発生する起点になる。起点から終点へ、思考は一枚の板のように伸びてゆき、鋼のようにしっかりとしたものとなる(これは理想です。そううまくはいかない)。そんなとき、やはりペーパーウェイトは卵だという感覚が生じるのかもしれない。
春暁の尻拭く紙に並びける 大野泰雄
「コロナ裏仮面」と題された連作。コロナの句は、今この瞬間にも全国津々浦々でたくさん作られているに違いない。もちろん玉石混淆になることは確かなことで、俳句としてどうなのか、ということは常に考えなければならないだろう。さて、この作者の句では掲句に注目した。景としては単にトイレットペーパーを買うための行列というだけのことだが、それを「尻拭く紙」と敢えて卑俗に言ってみたところが良かったのではないか。誰しも並びたくて並んでいるのではない。切羽詰まった気持ちでやむを得ず並ぶのだろう。まるでそれは、排泄の後の紙のようではないかという自嘲がそこに感じられる。
げんげ田に欲望を放し飼ひせり 龍翔
北海道では見られない光景だが、雪のない地方では稲刈りが終わった後でレンゲの種を蒔くらしい。いわゆる緑肥というものだ。田んぼには大切な稲が稔っているので、うかつに立ち入ることはできないが、レンゲ畑はしょせん緑肥なので入って遊んでも何も言われなかったのだろう。それを、欲望を放し飼いにすると表現したところが巧み。禁欲と解放。人間は両方ないと生きていけない。禁欲の自粛生活はいつ終わるのだろうか。
2020-04-26
【週俳3月の俳句を読む】生駒大祐を摑まえてみる 鈴木牛後
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