2020-04-26

【週俳3月の俳句を読む】何処へ/誰へ/何へ 太田うさぎ

【週俳3月の俳句を読む】
何処へ/誰へ/何へ

太田うさぎ



餃子にもある羽根ヒトは春めいて  森 羽久衣

蝶だ、蜂だ、虻だ、蠅だと、春と訪れと共に羽根を持つ虫たちが空を飛び始める。「餃子にも」の「も」はそうした生き物たちの存在を抱えつつ、「況やヒトに於いてをや」と言いたげだ。春先の羽ばたくような気分をストレートに伝えず、餃子に託したところは作者の含羞或いは大人の態度というものだろう。それは生物分類としての「ヒト」と片仮名書きにしたところにも表れている。餃子の卓を共に囲んだ面々はそれぞれに小麦粉と水で出来た羽根を背中に生やして帰ったのかもしれない。


ヒヤシンスさして好きでもないくせに  森 羽久衣

「ヒヤ」の部分に「冷や」の字を重ねてしまうせいか、ヒヤシンスという花(特に水栽培の)はしんとした冷気を纏っているイメージがある。「さして好きでもないくせに」は昭和のムード歌謡めいたフレーズだが、ヒヤシンスもまた同じ波長を持つ言葉なので、相性がよくするりと腑に落ちる。少し前に流布した言い方に従うなら「ツンデレ」の気分か。「好きでもないくせに」は自分の交際相手に対する軽い恨み節かもしれないが、自分の心中を見つめての呟きと捉えると、またクールさが増すようでもある。


花冷や瞼は使ふたび古ぶ  生駒大祐

「目を酷使する」とはよく言うが、ふだん私たちは「今日は瞼を使ったなぁ」とはなかなか思わない。しかし、考えてみれば、見る行為には必ず瞼の上げ下ろしが付きまとう。瞼に限ったことではなく、人間の体のどのパーツも真っ新なかたちとして誕生して以後ことごとく古びていく。古びイコール衰え、と考えるとこの句の季語は所謂即きすぎ、とも思える。一方、古色の美などと言われるように、古いことに価値を見出す美意識も存在する。桜だって樹齢が長いほど愛でられるではないか。というのは後期中年者の世迷言で、ささやかな花疲れの気分を感じ取ればよいのだろう。


笑へ舗道の水漬く椿を見て言つた  生駒大祐

作品十五句のなかで異彩を放つ句だ。なんだか物凄い、それ以上の感想を述べようがなくて実は困っている。

舗道の水溜まりに落ちた椿はまだ生々しい紅の花弁を広げ、蕊を勢いよく立たせている。が既に水漬く屍ではある。景色はどこまでも明るい。「笑へ」は何処へ/誰へ/何へ向かって命令されたのだろう。


早春は餅屋に響く掛時計  藤田哲史

俳句には限らないが、見も知らぬ何処かへ連れて行ってくれるのが文芸の魅力だと思う。餅は餅屋と言われる餅屋を私は知らない。餅を売ってくれるのは近所の和菓子屋だ。でも、この句を読んでいる只中、私は餅屋に立っている。やれ、椿餅だ、鶯餅だ、と寒明け間もない店は忙しいだろう。お得意様から赤飯の注文が入ってくることも。創業以来その店で時を打ち続けた掛時計が頼もしい。


松の芯放浪癖は僕に今も  藤田哲史

この季節、風に輝く松葉の中央に新芽がすっくりと空へ立つ、幾つも。眩しく見上げれば、定住を決めた僕をかつて当て所もなく各地を彷徨った記憶がまたそそのかす。「今も僕に」ではなく「僕に今も」。この違いは大きい。「今も」の余韻に軽やかな抒情がある。


鳥雲に入る裏口のありにけり  大野泰雄

いろいろな裏を見せる作品のなかでも、季語を手玉に取る機知をストレートに見せた句。俗に裏口入学とも言うけれど、帰ってくる鳥たちを受け入れる大空に大手門と搦手門とがあるという見立てが面白い。渡り鳥の処世もああみえてなかなか世知辛いのだ、と思うと地に立つ我らもほろ苦く笑うしかないではないか。


棒読みで言はるる礼や雀の子  龍翔

「ありがとう」の一言、これがむつかしいことがある。自動販売機の機械音声だってレジでのマニュアルに則っただけのお礼よりマシだと思うことも。この句はどんなシチュエーションだったのだろう。良かれと思い手を差し伸べたのに、感謝の表し方を知らない対応をされたものか。世慣れないのだろうと渋面を作りながらも受け入れる心持が季語に表れている。



森羽久衣 風の日は 10句 ≫読む
生駒大祐 口伝花語 15句 ≫読む
藤田哲史 鋼の卵 15 ≫読む  
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大野泰雄 コロナ裏仮面 10句 ≫読む
龍翔 放し飼ひ 10句 ≫読む

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