2020-05-17

【週俳4月の俳句を読む】「巡り」の中の俳句 瀬戸優理子

【週俳4月の俳句を読む】
「巡り」の中の俳句

瀬戸優理子



こんな「春」になろうとは夢にも思っていなかった。今年も、いつものように雪解けから桜まで、大地が眠りから覚めて喜びを爆発させていく「北国の春」ならではの至福を体感できるものと信じていたのに。

2月末、北海道独自の緊急事態宣言から「ステイホーム」が続く中、いつのまにか雪は溶け、桜は咲き、GWも過ぎて暦の上では夏が来た。季節の巡りに、体内時計が追い付いていないような違和感がつきまとう日々。

それでも。俳句を書いたり読んだりする時間の中で、たしかに「春」は存在した。人ごみを避けつつ、季節の巡りの中に身を置き、深呼吸すると流れ始める「今、ここ」に立つ時間。


片栗の花に屈むと踵浮く  黒岩徳将

読みながら、思わず同じ動作をしてしまった。「屈む」時に足裏をべったりと地面につけたままだとバランスが悪く、尻もちをついてしまう。だから自然と「踵浮く」状態に。この一連の動作に着目して、あえて描写するところに、春らしい心の浮き立ちを感じる。屈んだ理由は「片栗の花」を見るため。下向きに、可憐に咲く花と目を合わせようとして、ますます踵は浮き上がる。春を歓び合う「いのち」と「いのち」の邂逅。


まづレタス敷いて始めんサラダバー  同

なかなか几帳面な性格の作者のようである。「まづレタス」を敷くのは、盛り付けの色彩重視からか、皿を直接汚さない実利のためか。いずれにしても、本人なりの「流儀」があって、それを大切にしているところが好もしい。「まづレタス」の措辞で、このサラダバーにはかなりの種類の野菜が並んでいるんだろうなと、描いていない風景を想像させる。日頃の野菜不足を補うべく、たっぷり食べたのであろう。「いのち」を戴く歓び。


水に茶に蕎麦の半券濡れて春  同

表題句でもある掲句、食券で注文する食堂に流れる慌ただしいガチャガチャとした賑わいが、一気に詠みあげるリズムから伝わる。それは「半券」が水分を含んでいく素早さにも重なって。しかし、ただ明るいばかりでもない。「注文」をした証となり、必ず品物が運ばれてくる未来を約束する「半券」は、目の前に蕎麦が運ばれた後は、役割を終えて捨て去られるものとしてある。その「半券」が濡れてヘタれていくところに「春」を感じている様は、どこか屈折がないでもない。春の賑わいに取り残されているかのような寂しさもチラリ。


まんさくの花や拳の中の指  同

「片栗の花」の句のように、自分の手で実際に拳を握ってみたくなる。そんなふうに、読み手が身体を使って、句の世界を「共有」したくなるような書き方が魅力だ。拳の中に包まれた親指は、窮屈な空間の中でそこだけ意志を持っているかのような妙な存在感がある。人が拳を握るのは、どんなときだろう?悔しさを抱えたり、忸怩たる思いに陥った時、「よし頑張るぞ」と、ぐっと気合を入れ直す時……。早春、他の花に先駆けて、紐状の細い花弁を垂らして咲く「まんさくの花」を見上げ、自身は開く前の「花」のように拳を握りしめながら、次の春こそは誰よりも先に咲きたいと心に誓っているのかもしれない。


海灼くる無風を蝶のひた歩く  安里琉太

「追憶と鉈」というタイトルの10句は、アスタリスクを挟んで1句、3句、6句にブロック分けされており、掲句はその冒頭に配置された句。連作の世界観を統合する意図を持つ一句であろう。「海灼くる無風」とは、相当にヒリヒリした空気を感じさせる。しかも、「蝶」は飛ばずに「ひた歩く」のだ。蝶が歩く光景を目にしたことはないが、崩れ落ちそうになりながらも、わずかに残る生命力を振り絞って前進している様子が浮かぶ。いつか風が吹いて、舞い上がるための推進力を貸してくれる時を待ちながら。ひた歩く蝶と一体化して、読み手はこの先に展開される「追憶」の世界へと誘われていく。


暮春の母屋あぶらゑのぐの饐えてゐし  同

「暮春の母屋」の導入には「追憶」の甘やかさが漂う。しかし、最後まで読み進めていくと、そのような生ぬるい感傷では終われない、どんでん返しが待ち受けている。「母屋」という生活の匂いを感じさせる空間の片隅に、表現の道具としての油絵具が、使いかけで固くなったか、パレットの上で拭き取られずに残っているかで「饐えて」しまっているのだ。もしかしたら、その周辺で食べ物すらも饐えているのかもしれない。「饐える」というのはかなり強烈な語で、普通に使えば不快感を伴う言葉でもある。それを「追憶」という場面設定の中に置くことで、拒絶しながらもどこか遠ざけることのできない景として描いている複雑さを思う。


かはほりに雲の扉の展きある  同

ひらかれへ馬上の風雲倦む耕  同

6句ある第三ブロックは、前半3句と後半3句の間に一行空きが挿入される。並べた掲句2句の間には、空白の一行が挿入されているという構成だ。その空白に何を読むか。立ち止まって考えさせられる。

掲句二句目の「ひらかれへ」が単独ではわかりにくい措辞だったのだが、連作の文脈の中で解釈していくと、見えてくるものがあるようだ。ヒントは空白の前の「かはほりに」の句。木にぶら下がった「かはほり」に向けて「雲の扉」が展いたように、自身も天上の美しき世界を手繰り寄せたかのように感じた。だが、それも束の間、再び現実世界に連れ戻されてしまう、望ましくない「引力」が存在するようだ。一度はひらかれたかに感じた世界へ、馬という遠くへ駆けてゆける乗り物を手にして出発しようとしても、「倦む耕」に象徴される生活の現実があり、抜け出せずにいる。もどかしさ。揺れ動く心と、何かを断ち切りたいという意志。それが巡りゆく時の中での作者「今」であり、「追憶と鉈」のタイトルに込められた意味にも重なっていくのであろう。


第676号 2020年4月5日
黒岩徳将 半券 10句 ≫読む
安里琉太 追憶と鉈 10句 ≫読む

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