佐々木マキ・攝津幸彦・飯島晴子
安田中彦
狂人の作品を掲載してはならない、手塚治虫に脅威を与えてそう言わしめた佐々木マキ。その自選集『うみべのまち』を入手。
佐々木は、60年代終りから70年代に『ガロ』に掲載された漫画や、『ねむいねむいねずみくん』『ぶたのたね』などの絵本で知られている漫画家・絵本作家。因みに自選集の帯文は村上春樹。村上は『風の歌を聴け』の「表紙はどうしても佐々木マキさんの絵でなければならなかった」と書く。
70年前後の『ガロ』には多くの実験的な作品が現れたが、日本的な「四畳半」臭さのない、アメリカンナイズされた作風を持つ漫画家として佐々木マキやたむらしげるなどがいた。無国籍的ともアメリカ的とも言える村上春樹の初期作品と、佐々木の描く世界とは重なり合う部分があり、村上が小説家になれただけでなく、本の表紙を佐々木に描いてもらってとても「幸福」を感じたと述べているのも肯ける。ついでに言うと、村上は95年の地下鉄サリン事件など一連の凶悪事件を起こしたオウム真理教に強い関心を抱き、インタビュー集などを出している。これはオウムの人々に自分と同質の部分があるのを感じたからではないかと私は推測している。異質なものを排除し同質性の中で自己完結する(特に初期の作品)のが村上の作品である、と私は見ているのだが、これは話が逸れすぎるので、佐々木マキに話を戻す。(「おいおい、俳句の話はしないのか?」と思っている方、もう少しお待ちください。)
何十年かぶりに佐々木の漫画に触れて私が感じたのは、当時は時代から超然として存在していたかに見えていたものが、実は強烈なまでに時代の匂いを発散していること。
今では死語なのだろうけれど、「サイケデリック」、略して「サイケ」という語が広まっていたのを思い出す。辞書を引くと「幻覚剤による幻覚や恍惚状態に似たさま」とある。また、当時の文化的キーワードに「カウンター・カルチャー(対抗文化)」というのもあった。体制的なメインのカルチャーに対して「対抗」するカルチャーということだ。さらに付け加えると、戦後のアメリカ文化に対する人々の憧憬は、現在では、高度経済成長の途上にあった時代への「三丁目の夕日」的な郷愁同様の、歴史的感情と言える。
俳句と関係のないことを長々と書いた。そのわけは、佐々木マキの作品を読んでいる途中、私の脳裡に幾度となく、攝津幸彦の句が浮かんできたからだ。ジャンルは異なるものの、感受性に時代の刻印を押されているという点で二人は共通している。因みに佐々木は1946年生まれ、攝津は1947年生まれ。
南浦和のダリヤを仮のあはれとす 攝津幸彦
これは攝津の代表句。「あはれ」は『源氏物語』を筆頭とする日本文学のメインストリームにおける最重要語と言ってよい。それに対して配されているのは、およそ抒情から遠い「南浦和」と「ダリヤ」。ここには明らかにカウンター・カルチャー的発想が見られる。
俗なものを取り込むのは、和歌との違いを鮮明にするために俳句が取った戦略で、俳句が大衆性を得た理由でもある。しかし俗に傾き過ぎると安っぽく軽薄になり、文芸として危うくなる。「写生」や「花鳥諷詠」という考え方は、高みに向かい過ぎず、また俗になり過ぎないための方策としての側面がある。俳句に関する議論がしばしばかみ合わず、中途半端なものに終るのは、俳句がもともとそうした相反する力のバランスの上に成り立っているという事情があるからだろう。とは言え、俳句界の主流が「写生」「花鳥諷詠」にあるのは間違いのないことで、それを考えれば攝津の作句法そのものがカウンター・カルチャー的と言える。定型はほぼ守られているものの、写生からは遠く、季語への意識も希薄。季語を用いている場合でも、その本意を敢えて無視しようとする。
一月許可のほとけをのせて紙飛行機
みだれ髪 寒満月の 後始末
かくれんぼうのたまごしぐるゝ暗殺や
第二句集『鳥子』から冒頭の三句。もっとも分かりやすいのは「みだれ髪」の句。俳句としての出来はともかく、取り合わせも季語の用い方も了解しやすい。しかし、他の二句は三物の取り合わせ。季語「一月許可」が何なのかわからない。「たまご」または「暗殺」が「しぐるゝ」というのも意味不明。
四物の取り合わせもある。
鷗・元伯爵・鞦韆・語草
失速す朝のたてがみ無視のむらさき
やはり『鳥子』から。「鷗」の句は明確に四物だし、「失速す」は三物にも見えるが、「無視のむらさき」を「無視」「むらさき」を別々なものと考えれば四物になる。攝津は、このように一般的な俳句の作法に終生、対抗し続けた(彼の享年を考えれば終生それを続けるつもりだったのかはわからないが)。
「一月許可」の句に戻ると、これを冒頭句にしたのは一月が攝津の誕生月だからという指摘がある。もしそうなら「一月許可のほとけ」とは彼自身を指していることになる。この句は作句姿勢の表明とも、自尊心の裏返しである韜晦や自虐とも受け取れる。ここで私が連想するのは太宰治で、彼は第一作品集のタイトルを『晩年』とした。収録している短編のタイトルを使わず、敢えて「晩年」としたところに、「晩年」という言葉とは裏腹の若さを感じてしまう。同様の思いを「一月許可のほとけ」と自己規定する攝津に対しても抱く。
唐突と思われるだろうが、私はここで攝津幸彦と飯島晴子を引き比べてみる。彼女の初期の句集『蕨手』『朱田』は取り合わせの試みが極めて魅力的だ。
母体ばかり着き白ダリヤつくる駅 『蕨手』
晩年の膚皓々とダリヤ園
谷底のダリヤは死亡してをりぬ 『朱田』
死んだやうにダリヤがかくしてゐる少年
攝津の好んだモチーフであるダリヤを使った句を二句ずつ取り出してみた。これだけを見れば、飯島ではなく攝津の句であると言っても認められそうだ。『蕨手』は1972年、『朱田』は1976年刊行で、60年代中盤から70年代中盤の作品が収められている。一方、攝津の第一句集『姉にアネモネ』は1973年、第二句集『鳥子』は1976年刊行。この二人がある時期、作句の方法において接近した場所にいたのはたまたまかもしれない。しかし、その時代の文化状況、さらにいえば時代精神によるのではないかとの想像も可能ではないだろうか。
二人はその後、異なる進路を歩む。飯島の場合は、第一句集『蕨手』の、師である藤田湘子による序文に指し示されている。藤田は〈一月の畳ひかりて鯉衰ふ〉を取り上げて次のように述べている。
〈この作品は、ものの性質や形態をうたうことから、ものの存在をとらえる作家に成長したことを証明している。〉(注・下線は藤田自身による)
読み手の意表を突くような、ときにはシュールとさえ言える取り合わせを行った攝津幸彦と飯島晴子。しかし飯島の場合には、〈もの〉の実体を把握しようとする意思が働いている。この後、成熟に向かって進んでゆく飯島の展開を考えると、この第一、第二句集は表現の模索の所産であり、次のステップに進むための助走のように見えてしまう。一方、攝津は〈もの〉ではなく〈ことば〉重視の句作り、〈ことば〉との戯れという姿勢を通す。ここにあるのはもちろん、俳句観や個々のパーソナリティの違いなのだが、私はそこに、先ほど触れた時代精神というものの加味したい誘惑に駆られる。60年代は攝津の10代から20代初めの多感な時期に重なる。その時代の社会および文化運動の高揚と混沌を全身で受け止めたはずだ。当時、映画や芝居における前衛的、実験的表現として「アンダー・グラウンド」、略して「アングラ」という言葉が随分もてはやされた。メインストリームに対して傍流であること、またアングラ的であることを好ましいとする時代の空気の中で成長し、その時代の精神を自分のものとしたのだと考えれば、攝津の句作の姿勢は了解しやすい。飯島は攝津よりずっと年長で、60年代にはすでに40歳代に入っているから、攝津のような形で時代を受容することはなかっただろうと推測する。
私はここまで「カウンター・カルチャー」という語を何度も使ってきた。攝津は自分を培ってくれた文化を信頼していたのだと私は思う。それは60年代の文化だけではなく、実は「写生」「花鳥諷詠」的俳句観、そしてそれを支える文化的背景に対してもそうだったのではないか。そうした信頼があったからこそ、それに対抗し戯れることができたのではないかという気がしてならない。依拠するに足る、それゆえにまた対抗するに足る文化的背景が失われている現在において、攝津の立ち位置を私は羨ましいものに感じる。もう戻らない時代への郷愁をも込めて。
(拙文と全く関係ないことだが、週俳682号で宇多喜代子「天皇の白髪にこそ夏の月」について私見を書かせていただいた。その編集後記に福田若之氏が蟬論争を想起したと書かれていた。私は脱力したのであった。)
2020-07-26
佐々木マキ・攝津幸彦・飯島晴子 安田中彦
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