【週俳8月~11月の俳句を読む】
視点のよろしさとそれに纏わることなど安田中彦
毎週日曜日更新のウェブマガジン。
俳句にまつわる諸々の事柄。
photo by Tenki SAIBARA
【週俳8月~11月の俳句を読む】
視点のよろしさとそれに纏わることなどPosted by wh at 0:05 0 comments
俳人という人々は社会的認識において「鷹揚」または「長閑」な方が多いというのが私の印象なので、(堀田氏の句の中で②を含む句が*筆者注)どこまで(心に*筆者注)刺さるかは不明だけど。で、おいおい、それは筆者の偏見じゃないのか、とここでツッコミが入りますね、きっと。私の意見に首を捻られた方は今年の角川「俳句」3月号をご覧ください。有馬朗人氏の追悼特集。それがとりあえずの例証です。
Posted by wh at 0:04 0 comments
Labels: 安田中彦
Posted by wh at 0:05 0 comments
大西泰世の句
安田中彦
札幌に「itak」(アイヌ語で「言葉」の意味)という俳句集団がある。私もときどき参加させていただいているが、去る7月の会では「川柳 昨日・今日」というタイトルで川柳作家の方の講演があった。講演の内容についてここで触れることはしないが、句を作るさいに、俳句と川柳の境界をたびたび意識する身としては興味深いお話だった。
川柳作家で私の頭にいちばんに名前が浮かぶのが大西泰世である。大西泰世の句について今回書こうと思う。
私は本棚のすぐ手の届く所に、他の辞典類とともに『季語秀句用字用例辞典』(齋藤愼爾・阿久根末忠編)を置いて愛用している。歳時記よりも季語をチェックするのに手軽だからだが、そうでないときでも、ときどき例句を眺めたりする。例句として芭蕉や蕪村といった江戸時代の俳人の句、虚子や飯田龍太の句もあれば、その一方で、西東三鬼や鈴木六林男の句もずいぶん採れられている。だから極めてバラエティに富んでいると言えるわけだが、一つのページに蕪村、一茶、虚子、山頭火、六林男、三鬼、誓子、耕衣、稲畑汀子、角川春樹、小澤實、鳴戸奈菜などなどが並んでいるのを見ると、戸惑いを感じざるを得ない。もちろん不快な戸惑いではない。
前置きが長くなった。上記の『辞典』にあるさまざまなタイプの句の中で、とりわけ私が異彩を放っていると感じるのが大西泰世の句である。彼女の句と比較すれば、西川徹郎の句も攝津幸彦の句も俳句の範疇にあることは歴然だ。きっと、十二分に俳句を経験した者には、身に備わった俳句的感覚の外で句を成すのが難しくなるのだろう。あるいは、この二人に限らず、その句がいかに奇異で逸脱的に見えようとも、あくまで俳句内世界における異端に留まろうという意識が働いているのかもしれない。
大西泰世の句が他の例句と何が違うかと言えば、言葉の繰り出し方が違う。あとになって彼女が川柳の作家だと知って私は納得したのだが、言葉の繰り出し方の違いはこの出自の違いによるのだろうと思う。そのあたりをもう少し具体的に言うと、言葉の凝縮度が低い(俳句としては言葉のつながり方がゆるい)、季語を使っていても(俳句的に見ると)それが有効に働いていない、ということになる。しかし俳句的基準で見れば欠点となるものの、それを俳句と考えなければ、要は一行で書かれた詩として考えれば、その欠点は欠点でなくなる。
では、具体的に句を揚げてみる。
わが死後の植物図鑑きっと雨 大西泰世(以下同)
如月にうつくしく死ぬ生殖器
形而上の象はときどき水を飲む
『辞典』に挙げられている句から三句。「わが死後」の句にあるのはまさに青春の感傷。十代の頃を振り返ったとき、すでに自分は老いたと感じたり、自分の死んだあとも世界は変わらず存在を続けることの不思議に打たれたりはしなかっただろうか。そのような感覚を思い起こしたときに私はこの句を了解できた。「如月に」の句では、如月=仲春という自然における生の横溢、生殖器=性という人間の生の横溢が表現され、その絶頂のときに死にたいという美意識が提示される。それも「如月にうつくしく死ぬ」といううつくしい表現に、「生殖器」という全く身も蓋もない語の取り合わせによって。「形而上の」の句は、「上(じょう)」との語呂合わせで「象(ぞう)」を配したのではないかと私は想像するのだが、それはともかく、形而上と形而下(水を飲む)とが対比されているのはわかりやすい。ただし「形而上の象」というのはわからない。もしかすると何かからの引用なのかもしれないが、それがどんな象のありようなのかと夢想してみるのは楽しい。
『大西泰世句集』(砂子屋書房)に収録されている三つの句集それぞれから、私の好きな句を一つずつ取り上げる(そうは言っても魅力的な句が多いので、一句だけ選び出すのは難しいのだが)。
火柱の中にわたしの駅がある 『椿事』
まるでCMのコピーか、演歌の一節のように、完璧な表現を得た一句(もちろん揶揄しているわけではない)。CMや演歌ではここまで激しい内容にはならないけれど、それでも近いものを感じるのは、その激しさゆえに、この愛がフィクションであり絵空事に思えるからだ。しかしながらそこには作者の激烈な願望が燃えている。駅とは通過地点である。ある駅で火柱を燃え上がらせたとしてもそこにずっと留まるわけではない。次の駅、さらに次の駅へと疾駆して、そのたびに火柱を上げるのだろう。
対峙してからは淋しい丘になる 『世紀末の小町』
淋しい丘とは何か。女性の肉体の暗喩であり、作者自身のことだろう。火柱のように燃え上がった愛も、さして間をおかずに対峙する関係を迎えるのは必定だ。なぜなら、強い自意識や自己愛に囚われとなっている愛だからだ。女のまなざしが対峙する男よりも、愛されぬ「淋しい丘」となった自分自身へと向けられるのはそれゆえである。
一匹の鶴を折るたび手を洗う 『こいびとになってくださいますか』
鶴の折るのは、慰霊のためであったり、誰かの病気快癒のためであったり、つまりは善意の行為である。しかし作者はそこに偽善の気配を感じる。そしてそれに我慢がならない。そのため自分が穢れたと感じる。あるいは偽善的善人としてある自分自身に我慢ができない。なぜなら自分が善人でないことをよく知っているから。善人ではないという純粋性を保とうとする奇妙な潔癖さ。何という屈折だろう。
Posted by wh at 0:04 0 comments
佐々木マキ・攝津幸彦・飯島晴子
安田中彦
狂人の作品を掲載してはならない、手塚治虫に脅威を与えてそう言わしめた佐々木マキ。その自選集『うみべのまち』を入手。
佐々木は、60年代終りから70年代に『ガロ』に掲載された漫画や、『ねむいねむいねずみくん』『ぶたのたね』などの絵本で知られている漫画家・絵本作家。因みに自選集の帯文は村上春樹。村上は『風の歌を聴け』の「表紙はどうしても佐々木マキさんの絵でなければならなかった」と書く。
70年前後の『ガロ』には多くの実験的な作品が現れたが、日本的な「四畳半」臭さのない、アメリカンナイズされた作風を持つ漫画家として佐々木マキやたむらしげるなどがいた。無国籍的ともアメリカ的とも言える村上春樹の初期作品と、佐々木の描く世界とは重なり合う部分があり、村上が小説家になれただけでなく、本の表紙を佐々木に描いてもらってとても「幸福」を感じたと述べているのも肯ける。ついでに言うと、村上は95年の地下鉄サリン事件など一連の凶悪事件を起こしたオウム真理教に強い関心を抱き、インタビュー集などを出している。これはオウムの人々に自分と同質の部分があるのを感じたからではないかと私は推測している。異質なものを排除し同質性の中で自己完結する(特に初期の作品)のが村上の作品である、と私は見ているのだが、これは話が逸れすぎるので、佐々木マキに話を戻す。(「おいおい、俳句の話はしないのか?」と思っている方、もう少しお待ちください。)
何十年かぶりに佐々木の漫画に触れて私が感じたのは、当時は時代から超然として存在していたかに見えていたものが、実は強烈なまでに時代の匂いを発散していること。
今では死語なのだろうけれど、「サイケデリック」、略して「サイケ」という語が広まっていたのを思い出す。辞書を引くと「幻覚剤による幻覚や恍惚状態に似たさま」とある。また、当時の文化的キーワードに「カウンター・カルチャー(対抗文化)」というのもあった。体制的なメインのカルチャーに対して「対抗」するカルチャーということだ。さらに付け加えると、戦後のアメリカ文化に対する人々の憧憬は、現在では、高度経済成長の途上にあった時代への「三丁目の夕日」的な郷愁同様の、歴史的感情と言える。
俳句と関係のないことを長々と書いた。そのわけは、佐々木マキの作品を読んでいる途中、私の脳裡に幾度となく、攝津幸彦の句が浮かんできたからだ。ジャンルは異なるものの、感受性に時代の刻印を押されているという点で二人は共通している。因みに佐々木は1946年生まれ、攝津は1947年生まれ。
南浦和のダリヤを仮のあはれとす 攝津幸彦
これは攝津の代表句。「あはれ」は『源氏物語』を筆頭とする日本文学のメインストリームにおける最重要語と言ってよい。それに対して配されているのは、およそ抒情から遠い「南浦和」と「ダリヤ」。ここには明らかにカウンター・カルチャー的発想が見られる。
俗なものを取り込むのは、和歌との違いを鮮明にするために俳句が取った戦略で、俳句が大衆性を得た理由でもある。しかし俗に傾き過ぎると安っぽく軽薄になり、文芸として危うくなる。「写生」や「花鳥諷詠」という考え方は、高みに向かい過ぎず、また俗になり過ぎないための方策としての側面がある。俳句に関する議論がしばしばかみ合わず、中途半端なものに終るのは、俳句がもともとそうした相反する力のバランスの上に成り立っているという事情があるからだろう。とは言え、俳句界の主流が「写生」「花鳥諷詠」にあるのは間違いのないことで、それを考えれば攝津の作句法そのものがカウンター・カルチャー的と言える。定型はほぼ守られているものの、写生からは遠く、季語への意識も希薄。季語を用いている場合でも、その本意を敢えて無視しようとする。
一月許可のほとけをのせて紙飛行機
みだれ髪 寒満月の 後始末
かくれんぼうのたまごしぐるゝ暗殺や
第二句集『鳥子』から冒頭の三句。もっとも分かりやすいのは「みだれ髪」の句。俳句としての出来はともかく、取り合わせも季語の用い方も了解しやすい。しかし、他の二句は三物の取り合わせ。季語「一月許可」が何なのかわからない。「たまご」または「暗殺」が「しぐるゝ」というのも意味不明。
四物の取り合わせもある。
鷗・元伯爵・鞦韆・語草
失速す朝のたてがみ無視のむらさき
やはり『鳥子』から。「鷗」の句は明確に四物だし、「失速す」は三物にも見えるが、「無視のむらさき」を「無視」「むらさき」を別々なものと考えれば四物になる。攝津は、このように一般的な俳句の作法に終生、対抗し続けた(彼の享年を考えれば終生それを続けるつもりだったのかはわからないが)。
「一月許可」の句に戻ると、これを冒頭句にしたのは一月が攝津の誕生月だからという指摘がある。もしそうなら「一月許可のほとけ」とは彼自身を指していることになる。この句は作句姿勢の表明とも、自尊心の裏返しである韜晦や自虐とも受け取れる。ここで私が連想するのは太宰治で、彼は第一作品集のタイトルを『晩年』とした。収録している短編のタイトルを使わず、敢えて「晩年」としたところに、「晩年」という言葉とは裏腹の若さを感じてしまう。同様の思いを「一月許可のほとけ」と自己規定する攝津に対しても抱く。
唐突と思われるだろうが、私はここで攝津幸彦と飯島晴子を引き比べてみる。彼女の初期の句集『蕨手』『朱田』は取り合わせの試みが極めて魅力的だ。
母体ばかり着き白ダリヤつくる駅 『蕨手』
晩年の膚皓々とダリヤ園
谷底のダリヤは死亡してをりぬ 『朱田』
死んだやうにダリヤがかくしてゐる少年
攝津の好んだモチーフであるダリヤを使った句を二句ずつ取り出してみた。これだけを見れば、飯島ではなく攝津の句であると言っても認められそうだ。『蕨手』は1972年、『朱田』は1976年刊行で、60年代中盤から70年代中盤の作品が収められている。一方、攝津の第一句集『姉にアネモネ』は1973年、第二句集『鳥子』は1976年刊行。この二人がある時期、作句の方法において接近した場所にいたのはたまたまかもしれない。しかし、その時代の文化状況、さらにいえば時代精神によるのではないかとの想像も可能ではないだろうか。
二人はその後、異なる進路を歩む。飯島の場合は、第一句集『蕨手』の、師である藤田湘子による序文に指し示されている。藤田は〈一月の畳ひかりて鯉衰ふ〉を取り上げて次のように述べている。
〈この作品は、ものの性質や形態をうたうことから、ものの存在をとらえる作家に成長したことを証明している。〉(注・下線は藤田自身による)
読み手の意表を突くような、ときにはシュールとさえ言える取り合わせを行った攝津幸彦と飯島晴子。しかし飯島の場合には、〈もの〉の実体を把握しようとする意思が働いている。この後、成熟に向かって進んでゆく飯島の展開を考えると、この第一、第二句集は表現の模索の所産であり、次のステップに進むための助走のように見えてしまう。一方、攝津は〈もの〉ではなく〈ことば〉重視の句作り、〈ことば〉との戯れという姿勢を通す。ここにあるのはもちろん、俳句観や個々のパーソナリティの違いなのだが、私はそこに、先ほど触れた時代精神というものの加味したい誘惑に駆られる。60年代は攝津の10代から20代初めの多感な時期に重なる。その時代の社会および文化運動の高揚と混沌を全身で受け止めたはずだ。当時、映画や芝居における前衛的、実験的表現として「アンダー・グラウンド」、略して「アングラ」という言葉が随分もてはやされた。メインストリームに対して傍流であること、またアングラ的であることを好ましいとする時代の空気の中で成長し、その時代の精神を自分のものとしたのだと考えれば、攝津の句作の姿勢は了解しやすい。飯島は攝津よりずっと年長で、60年代にはすでに40歳代に入っているから、攝津のような形で時代を受容することはなかっただろうと推測する。
私はここまで「カウンター・カルチャー」という語を何度も使ってきた。攝津は自分を培ってくれた文化を信頼していたのだと私は思う。それは60年代の文化だけではなく、実は「写生」「花鳥諷詠」的俳句観、そしてそれを支える文化的背景に対してもそうだったのではないか。そうした信頼があったからこそ、それに対抗し戯れることができたのではないかという気がしてならない。依拠するに足る、それゆえにまた対抗するに足る文化的背景が失われている現在において、攝津の立ち位置を私は羨ましいものに感じる。もう戻らない時代への郷愁をも込めて。
(拙文と全く関係ないことだが、週俳682号で宇多喜代子「天皇の白髪にこそ夏の月」について私見を書かせていただいた。その編集後記に福田若之氏が蟬論争を想起したと書かれていた。私は脱力したのであった。)
![]() |
| クリックすると画像が大きくなります |
Posted by wh at 0:06 0 comments
天皇の白髪
安田中彦
遠い距離の言葉の取り合わせでもないし、難解な語が用いられているわけでもない。それでも目にするたびに何とも腑に落ちない気持ちにさせられる有名句がある。作者本人が自分の代表句の一つとしている。
天皇の白髪にこそ夏の月 宇多喜代子
天皇と夏という語から、俳人ならかの戦争を想起するだろう、私は疑いもなくそう思っていたのだが、然にあらず、だった。私見を述べる前に、検索して現れた3つの評を紹介する。
●
高山れおな
「皇太子としての長い待機を終え、ようやく自らの時代を迎えた今上天皇の抱負に思いをいたす、単純にエールをおくるのとも違う、やや複雑な気分が働いていると読める。なにしろ、満五十五歳という普通であればリタイヤが近い年齢での践祚なのだ。」
http://shiika.sakura.ne.jp/daily_poem/2011-05-02-424.html
坪内稔典
「天皇の白髪にこそ夏の月がふさわしい、という俳句であろう。季語の本意を示した平井照敏の『新歳時記』(河出文庫)によると、夏の月の本意は「暑さのあとの涼味」。この句も天皇の白髪と夏の月の取り合わせが涼味を放っている、と言ってよいだろう。ささやかな天皇賛歌だ。」
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkubak_0601.html
櫂未知子
「青年期をとうに過ぎた〈天皇〉のしろがねの髪、そして涼やかな月。この句はいろいろな解釈や評価をされていますが、まずは視覚的な面に目を向け、そして天皇という立場の人を考えてみる、それが大切ではないかと思われます。」
http://www.izbooks.co.jp/tukiP431.html
●
高山氏は「今上天皇か昭和天皇のどちらかだろうが、句そのものの味わいからしても、また制作年と作者の生年という傍証からしても、前者とするのがより適切と考える」。句の味わいとは「より個人的なインティメイトを示しているように思われる点を指す」のだという。その「インティメイト」と併せて、宇多氏が今上天皇(現在の上皇)と同年代であり、平成初頭に作成されたことから、エールを送っているとする(+複雑な気分)。「個人的なインティメイト」について私は是認も否認もできない。傍証は宇多氏と句の作成時期についての知識がある鑑賞者のみに有効だ。
坪内氏はこの天皇を昭和天皇と推測している。涼味を放っていて、「ささやかな天皇賛歌だ」とする。因みにだが私は天皇に共感も親近感も抱いたことがない。天皇参賀に集まって日の丸の小旗を振る人々が異星人のように見える。
そのことは別にしても、文芸が天皇賛歌をするのだとしたら首を傾げざるを得ない。社会の高い地位にいる者を賛美するのが文芸なのだろうか。それなら東條英機や安倍晋三を賛美してもいいことになるが(もちろんそうしたい人はそうすればいい)、何の批評性も持たずに文芸と呼べるのだろうか、という疑問が湧く。
櫂氏の評だと、天皇は現上皇と読めなくもないが、明確ではない。氏はまず視覚的な面に目を向けよと言う。なるほど。しかしそれに続く文は意味が分からない。「天皇という立場の人を考えてみる」とは何のことだろう。それは象徴天皇? 「神聖ニシテ侵スヘカラス」の天皇? 明治より以前の天皇? どの立場の天皇を指すのか? そこは読み手がご自由に、ということだろうか。
確認しよう。
高山氏「天皇へのエール」、坪内氏「天皇賛歌」。現上皇と昭和天皇の違いはあれ、両者の捉え方は近い。しかし、もしそうであるならこの句は普遍性を持ち得ない。天皇に思い入れのない人間には無効だからだ。櫂氏は「視覚的な面」がこの句の魅力だと捉えているようだ。確かにそうだろう。天皇の白髪と夏の月、印象は極めて鮮明だ。取り合わせとしてもユニーク。俳句で使いにくい天皇という語が無理なく着地している。
それでも私がこの句を見るたびに覚える違和感(北海道弁でいうならイズイ感じ)は何だろう。特に「こそ」の存在。なぜ天皇の白髪が強調されるのだろう。何かがとりたてて強調されるのは、それと対比される別な何かが存在すると考えるのが妥当ではないだろうか。
天皇と夏の組み合わせから、私はかの戦争を想起した、と書いた。だからもちろん天皇とは昭和天皇だ。満州事変から敗戦までのいわゆる15年戦争、天皇の年齢は30歳から44歳。敗戦から年月が経ち、天皇の髪もすっかり白髪になった。では、それと対比されるものは何か。それは歳を取らなかった者たちである。言い換えるなら、歳を取ることができなかった者たち。永遠に歳をとらない者、それは死者である。生者と対比されるもの、それは死者である。生者である天皇と、戦時に命を落とした多数の者たち。日中戦争以降の戦争による死没者は日本人だけでも310万人とされる。戦地に駆り出された兵士たちの60%は餓死だったという。いかに杜撰な計画によって戦争が遂行されたかがわかる(ここで私は天皇の戦争責任という話をしたいわけではないのでそこはご注意を)。
「こそ」という強調の助詞が行っているのは、現在と過去、生者と死者、老いと若さという対比である。さらにそこに身分を含めてもいいかもしれない。さらに支配者と被支配者という対比も。
私はこんな想像をする。平和な世の中になって歳老いた天皇の白髪に涼やかな夏の月光が注いでいる。一方、時間を遡れば、日本から遠く離れた南方のジャングルで病と飢餓のために死に瀕している若者が月を仰いでいる。帰還のかなわない故郷で同じように月を仰いでいたのを思い出しながら。感傷的に過ぎる想像かもしれないが、「こそ」の背後にある、「こそ」によって対比されているのはそうしたものではないだろうか。上野の地下道で死んでいった多くの「浮浪児」たちを思い浮かべてもいいかもしれない。
掲句の鑑賞は櫂氏の「視覚的な面」から捉えるのが妥当なようだ。視覚的に明瞭な像を私たちに与えてくれるのは確かだ。そしてそれまでになかった取り合わせ。
少なくとも「天皇陛下、おいたわしや」や「天皇賛歌」の類ではないだろう。それは俗情との結託でしかない。それはつまるところ文芸の放棄にほかならない。
![]() |
| 画像をクリックすると大きくなります |
Posted by wh at 0:06 0 comments