ラベル 安田中彦 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 安田中彦 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022-12-04

安田中彦【週俳8月~11月の俳句を読む】視点のよろしさとそれに纏わることなど

 【週俳8月~11月の俳句を読む】

視点のよろしさとそれに纏わることなど

安田中彦

「俳句界」12月号は90代俳人特集。堀田季何さんの11月21日のツイートによれば「(90歳代の)俳句人口は50歳未満より多い」のだそうで。50歳といえば社会的にはりっぱな中年、でも俳句の世界では若手扱いなのは、この「週刊俳句」を読んでいるような方々には周知の事実。その“若手”人口がきわめて少ないことに改めて驚かされます。

俳句の魅力の中に、視点のズラシやトリビアな発見がありますね。たとえば22年角川俳句賞を受賞した西生ゆかりさんの〈冬の日の画鋲の横の画鋲穴〉という句を、審査員の小澤實さんが「現代美術のような鮮やかな見せ方」と褒めています。でも、世界がまだ発見に満ちている“若者”(まあ、40歳代にもなるとアンテナの感度は相当鈍くなりますが)にそんなトリビア的発見が魅力的かどうか。現代美術のように見えるのかどうか。“若者”が俳句に惹かれない理由は奈辺にあるのかと尋ねられたら、私はその辺と答えます。あくまで理由のひとつであって、全てではないですけど。もちろん、俳句を作る者として、西生さんの句の面白さはわかります。貶しているわけではないことは付け加えておきますね。

前置きはここまで。
ここから句の鑑賞に入ります。

黒揚羽ひらりと来たり殉教碑   広渡敬雄

天草の殉教公園にある碑なのでしょう。作者は天草の方なのでしょうか。それとも旅で訪れたのでしょうか。殉教碑にふと現れた黒揚羽は、そこを訪れた作者自身の姿であると同時に、その内面をも反映しているように思えます。

キリシタン弾圧は、いわば日本の〈黒歴史〉。その象徴の前に立つ作者の心の翳り、それもまた〈黒〉という語に託して表現されているのでしょう。

まだ温き草に坐りぬ揚花火  広渡敬雄

〈温き草〉に実感があります。太陽に熱せられて昼間の熱が抜けきらない草地を読み手に想起させます。

そして花火を待つ興奮をも。

揚花火を詠んだ句としてとても視点がユニークです。私自身はこのような視点で書かれた揚花火の句を見たことがありません。

踊りつつ踊らぬ人を見てをりぬ  野口る理

「踊っていない人が踊っている人を見る」という常識的な発想を逆転させたのがこの句の面白さです。

踊っている側の人が思うのは「見ていないで一緒に踊ればいいのに」ということなのか。それでは当たり前過ぎます。“特定の誰か”を見て、いっしょに踊りたいという願望が現れたものだと私は解釈しました。

読み手に想像の“余白“を与えてくれる句です。

タピオカが雨の子規忌を揺れてゐる  野口る理

こちらは前句よりもさらに大きい“余白”のある句。

タピオカの入った飲料を口にしながら、子規忌を修するかのような思いに浸っているのか。そうとは思えません。たまたまこの日が子規忌であったに過ぎないのでしょう。雨を見ながら心中に去来するのはどのような思いか。これもやはり読み手の想像力に委ねられています。

露草や定規に正す手紙の字  日向美菜

よほどの乱筆でない限り、手書きの手紙をもらうのは嬉しいもの。手書きのうえに、定規できっちりと縦線あるいは横線が整えられている丁寧で美しい手紙ならなおさらのことです。

露草色のインクの万年筆で書かれた手紙を受け取りたくなりました。

俳句の定式を踏まえたうえで、内容も俳句形式にぴったりと合った(俳句形式に無理をさせていない)素敵な句だと思います。

煮凝や外見えてゐる換気扇  日向美菜

換気扇から外が見えるという独自な視点の句です。類のないそのユニークさに惹かれます。ついでに言うと、こんなことを表現して完結する文芸は他にはありません。さらについでに言うと、(前置きで触れたように)そこに俳句のよろしさもあるし、弱点もあります。

季語は煮凝。なぜ煮凝なのでしょう。たとえば、うな重やパフェではだめなのでしょうか。だめですね。やはり煮凝でなきゃ。

日向さんの他の句でも、季語の斡旋のうまさに感心しました。

プロフィールで生年を見てびっくり。よほど俳句形式との相性の良い方なのでしょう。




■広渡敬雄 天草 10句 ≫読む 第801号 2022年8月28日
■野口る理 タイガーモノローグ 40句 ≫読む 第805号 2022年9月25日
■日向美菜 皿の裏 10句 ≫読む 第813号 2022年11月20日

2022-01-23

俳句における社会性と社会批評性 安田中彦

俳句における社会性と社会批評性

安田中彦


週刊俳句・第753号に私は堀田季何氏の『人類の午後』の感想文を書きました。その際に社会性(①)と社会批評性(②)の違いを指摘しました。

(社会的事象に対して批評的観点のあるものが②、無いものが①と理解してください。この2つを区別するための便宜的な呼称です。他にもっと良い呼称があるかもしれませんが思い浮かばないので、これで論を進めます。)

この問題を考えるときに私の脳裡に浮かぶ有名句が二つあります。その二つの句に私が違和感を抱いていることも付け加えておきます。

1つ目は、照井翠氏の「双子なら同じ死顔桃の花」です。ここには①はあっても②はありません。それが違和感の原因ではないのですが、とりあえずここには①しかないことを確認しておきます。

2つ目は、宇多喜代子氏の「天皇の白髪にこそ夏の月」です。天皇はきわめて政治性の高い存在です。しかしこの句に②が含まれているかは曖昧です。そもそも①が含まれているかも曖昧です。この句に対する違和感は週刊俳句682号に書きましたので、そちらをご覧ください。

●

結論から先に言えば、社会的な事象を句に成す場合、①か②かのどちらの句なのか、作者は明瞭な意識を持ったほうが良いというのが私の考えです。①と②のどちらが好ましいかという問題ではありません。そのどちらの句であるか、あるいはどちらに重心を置いた句であるか、その区分けを意識するのが大事だという意味なので、そこは誤解しないでください。そのうえで、俳人はでき得るなら、①のみでなく、失敗覚悟で(私の経験上、②の句は①の句よりも失敗の確率が高いので)②の句も作ったほうがよいと思います。
なぜそのように考えるのか。

1つ目の理由は、作句上の利点があるからです。②の視点を入れるには学習が必要です。対象への理解を深め、多面的見方を獲得することで、句はより優れたものとなる可能性があります。

2つ目の理由は、管見と言われればそれまでですが、俳句には①の句が多く、②の句が少ないように見受けられるからです。数の問題は、すなわち姿勢の問題です。②の意識が乏しければ、当然、②の句は少なくなります。

では、それ――①の句が多く②の句が少ないこと――の何が問題なのか。

その非対称性は、戦後の「私たちの失敗」とパラレルな関係にあるように私には見えます。ここで私の言う「私たち」というのは敗戦から現在までの日本人全体です。

戦後、平和教育というものが存在しました。今もわずかに行われているのかもしれません。国語の教科書にも戦争の惨さや戦争のもたらす悲劇を描いた作品が掲載されていました。しかし端的に言ってそこに①はあっても②はありませんでした。日本史の授業は、多くの場合、戦争から敗戦に至る道程を分析的、構造的に――要は批評的に捉えることを放棄してきました。

戦争責任を自らの手で明らかにし、それに沿って処罰を行うことができなかったのが私たち日本人です。そのため戦中のエスタブリッシュメントがそのまま戦後社会に移行しました。直接、戦争を体験した庶民は「戦争は悲惨である」「戦争は2度と起こしてはいけない」と身をもって知りましたが、それは感情の域にとどまるものです。つまり、①です。そこには戦前戦中を大局的に、また分析的に捉える②はありません(もしそれがあったなら戦中のエスタブリッシュメントが存続することはなかったでしょう)。しかし感情を継承することは難しい。戦争体験者の多くが鬼籍に入ってしまった今、ずいぶんと威勢のいい声があちこちから聞こえてきます。敵基地攻撃能力を持つべきだ、国軍を持つべきだ、防衛費を増額すべきだ、などなど。一方には生活に困窮する国民が数多くいる状況で、国防とやらに邁進する図は、戦前戦中と酷似しています。また、戦前戦中を肯定的に捉える、いわゆる歴史修正主義の声も聞こえてきます。俳人の中にもネット右派的人々が存在するようです。俳誌に勇ましい愛国俳句が掲載されるようになっても何の不思議もない、それが現在の私たちが居る地点だと思います。

感情による①は簡単に反転します。人々がたやすく社会の趨勢に乗ってしまう姿を私たちは現在目の当たりにしています。反知性に陥らないためにも②の観点が必要です。

●

『人類の午後』の感想文で私は次のように書きました。
俳人という人々は社会的認識において「鷹揚」または「長閑」な方が多いというのが私の印象なので、(堀田氏の句の中で②を含む句が*筆者注)どこまで(心に*筆者注)刺さるかは不明だけど。で、おいおい、それは筆者の偏見じゃないのか、とここでツッコミが入りますね、きっと。私の意見に首を捻られた方は今年の角川「俳句」3月号をご覧ください。有馬朗人氏の追悼特集。それがとりあえずの例証です。
この引用文で指摘した最後の件について、これだけでは意味不明ですね。

これもまた、②の問題です。

まず、仮定の話を一つ。

もし石原慎太郎氏が亡くなったとします。文芸評論家か小説家がその追悼文を書き、どこかの文芸誌にそれが掲載されたとします。石原氏は小説家ですから、作品論や作家論が展開されるのは当然でしょう。しかしその筆者が氏の政治活動に触れた場合、はたして称賛のみを書き連ねるでしょうか。参議院議員や東京都知事として多大な功績を残した、云々と。氏の政治活動における負の側面に言及しないのはアンフェアだと、私は思います。目的が追悼なのだから称賛のみで良い、と考える人もいるでしょう。そういう人がいてもかまいません。しかしあえて言うなら、その場合には最初から政治的、社会的活動に触れずにおけばよいのです。作品や作家活動のみを讃えればよいのです。文芸誌は言論活動の一環です。お葬式の弔辞を発表する場ではありません。また、氏の主たる政治活動には正の側面しかない、と考える人はもちろん思い切り礼賛すればいいわけで、それを否定するつもりはありません。

さて、本題に進みますが、昨年の角川「俳句」3月号は有馬朗人氏の追悼特集でした。俳人として高名な方々の多くが、氏の句集や作品、俳人としての活動ばかりでなく、政治的、社会的活動に触れています。例えば酒井佐忠氏は「超一流の原子核物理学者、東大総長、文部大臣、さらに文化勲章受章者などの功績感じさせない気さくな態度で接してくれた。」と述べています。特に酒井氏の文を取り上げたのに他意はありません。ほかも同様です。有馬氏が文部大臣として国立大学の法人化に同意したことも、国会審議で「文部省といたしましては、国旗・国歌の法制化が行われた場合でも、学習指導要領に基づく学校におけるこれまでの国旗・国歌の指導に関する取り扱いを変えるものではない」とたびたび述べる一方で教員の処分に触れている(99年8月6日参院特別委員会)ことも、どのページにも出てきません。私はそこに違和感を覚えました。ただ、繰り返しになりますが、それらも含めて礼賛したい方はすればよいのです。人の考え方はさまざまですから。私としては、「鷹揚」だなあ、とただ眺めるのみです。

因みに、この角川「俳句」3月号の冒頭に置かれた特別作品50句は高野ムツオ氏の作品で、タイトル「垂り雪」、その多くの句が原発事故に関わるものです。2013年2月に有馬氏が会長を務めるエネルギー・原子力政策懇談会が原発再稼働を提言したのを記憶している方もいるでしょう。このとき安倍首相(当時)に提言書を渡し、会談を行ったのは有馬氏当人です。はたしてと言うべきか、追悼特集でその件について触れた方はいませんでした。偶々なのでしょうが、上記のようなことから、この号は皮肉な構成になってしまったと私は思っています。ただ、高野氏が原発問題に関してどのような考えをもっているのか私は存じていない、ということは付け加えておきます。ですからこれはあくまで私の表面的な受けとめ方です。

2021-09-26

【句集を読む】堀田季何『人類の午後』雑感 安田中彦

【句集を読む】
堀田季何『人類の午後』雑感

安田中彦


堀田季何氏の詩歌集『星貌』『人類の午後』が邑書林から2冊同時刊行された。『星貌』は一行詩って感じ。『人類の午後』は通常の定型句。後者を読んで、頭にふわって浮かんだ事を2つ。

1点目。俳句の社会性って事。いや、逆だな。社会性のある俳句。俳句に社会性があるかどうかは知らない。この句集には直接的/間接的に社会性のある句が含まれている。突然私的な事を書くけど、むかしむか~し、私は鈴木六林男が代表を務めていた「花曜」の会員だった。ここで関悦史氏の言葉を引用。「鈴木六林男当人はともかく、その門下には、既成概念のなかで社会批評性とほの暗い詩性を発揮するため、新鮮味が乏しくなることが少なくない」(沖縄タイムス・2017年12月25日)。う~ん、厳しい指摘だ。でも今回この指摘の当否は本題ではないので置いておく。社会性のある俳句が暗く、重くなりがちだというのは一般論としてとりあえず認めよう。えっ、社会性と社会批評性は違うんじゃないかって? そこを筆者(安田)はあえて一緒に取り扱おうとしてるんじゃないか? そう気づいた方はリテラシー能力が高い。もちろん、その2つは別物だ。分けて考えよう。で、堀田氏の句だが、社会性ではなく社会批評性に重心があるのは誰の目にも明らかだ。しかし、それらは「ほの暗く」灯ってはいない。ナチスによるユダヤ人虐殺や昨今のテロなど、テーマは重い。正字表記なのが尚更重い。最初の〈水晶の夜映写機は砕けたか〉を見て私は思わず身構えてしまった。椅子に座り直した。しかしこの章の最後は〈自爆せし直前仔猫撫でてゐし〉。表現内容はキツいが発想は柔らかい。なるほど、「既成概念」の中に無い斬新な切り口で社会批評性を発揮しようと作者は試みているのだと気づいた次第。「ほの暗く」灯ってないと今さっき書いたけど、句の印象はむしろ明るい。無論だけど内容が明るいわけじゃない。作者のきわめて独自性の高い観点とレトリックによって提示されているので、むしろ読み手の俳句観/世界観の軛を開放してくれる、そういう明るさだ。さらに、それらは気負いなく、自然な形で着地しているように見える。こういう句が多くの俳人の心に刺さればいいなあ。俳人という人々は社会的認識において「鷹揚」または「長閑」な方が多いというのが私の印象なので、どこまで刺さるかは不明だけど。で、おいおい、それは筆者の偏見じゃないのか、とここでツッコミが入りますね、きっと。私の意見に首を捻られた方は今年の角川「俳句」3月号をご覧ください。有馬朗人氏の追悼特集。それがとりあえずの例証です。

2点目。個々の俳句の鑑賞は読み手各々にしていただくとして、『人類の午後』は句集として面白い。一つのパッケージされたものとして面白い。それを説明するのにこんな例えはどうだろう。むかしむか~しの人間はレコードをアルバムとして楽しみ、評価した。一曲一曲とは別に、アルバム全体の構成はどうか、それにアーティストも腐心したし、聞き手もそれを評価基準の一つとした、と言えば、むかしむか~しの人間なら多分理解してくれるだろう。跋によれば、前奏は「現代の日本人が非日常且つ無縁だと錯覚してゐる事象」を、後奏では「日常且つその平凡な延長線だと認識されてゐる事象」を詠んでいるとされている。前者を非日常詠、後者を日常詠と呼んでおこう。日常詠の後奏に、作者の地の(あるいは地と思われる)部分が顔を出している。観念派・言葉派・机上派の俳人は、自分をカモフラージュしたり、逆に演出したりする。作者はⅠ・Ⅱ・Ⅲ章の中でかなりそれを徹底して行っている。それでもやはりと言うか当然と言うか、作者の「人格・思考・価値観」はあらわれる。また、作者を俳人として育んだと推察される「澤」的な表現の句も句集全体を通して散見される。これもまさに作者の地の部分。……前置きとも何とも言えないものを長々と書いているのに気がついた。結論へ行こう。それは、この句集を句集として面白くしているのは、後奏の存在が大きいという事。レコードの話に戻るけれど、アルバムを締め括るラストの曲はとても重要だった。それとおんなじ役割を後奏が担っている。ここで作者は自分の地の部分、例えるなら背中の部分を晒している。人は多面的な存在だ。歴史的な民族大虐殺を知って戦慄し憤るのが私(いわば正面の部分)なら、カップの熱燗を持ってほろ酔いでふらつき歩いているのも同じ私(いわば背中の部分)だ。その多面性が統合されたものとして個人がある。作者が正字を用いている意図は作者自身に訊かなきゃわからないが、作者が提出している様々な側面がバラけぬように綴じ合わせる働きをしているように私には見える。あくまで私の印象だけど。後奏の話に戻ると、もし後奏が無かったなら本句集はその分だけ(実際は多分その分以上に)平板なものになったと思う。作者の正面の部分(前奏)に始まってぐるりと背中の部分(後奏)に回る、その方法によって、現代を生きる個としての作者の姿が立体的に起き上がって来るのを私は感じた。だから、一読した後で、私は頭の中でこう呟いていた、「これって(文芸じゃなくて)文学じゃない!?」と。


堀田季何第四詩歌集『人類の午後』2021年8月/邑書林

2020-08-23

大西泰世の句 安田中彦

大西泰世の句

安田中彦


札幌に「itak」(アイヌ語で「言葉」の意味)という俳句集団がある。私もときどき参加させていただいているが、去る7月の会では「川柳 昨日・今日」というタイトルで川柳作家の方の講演があった。講演の内容についてここで触れることはしないが、句を作るさいに、俳句と川柳の境界をたびたび意識する身としては興味深いお話だった。
 
川柳作家で私の頭にいちばんに名前が浮かぶのが大西泰世である。大西泰世の句について今回書こうと思う。

私は本棚のすぐ手の届く所に、他の辞典類とともに『季語秀句用字用例辞典』(齋藤愼爾・阿久根末忠編)を置いて愛用している。歳時記よりも季語をチェックするのに手軽だからだが、そうでないときでも、ときどき例句を眺めたりする。例句として芭蕉や蕪村といった江戸時代の俳人の句、虚子や飯田龍太の句もあれば、その一方で、西東三鬼や鈴木六林男の句もずいぶん採れられている。だから極めてバラエティに富んでいると言えるわけだが、一つのページに蕪村、一茶、虚子、山頭火、六林男、三鬼、誓子、耕衣、稲畑汀子、角川春樹、小澤實、鳴戸奈菜などなどが並んでいるのを見ると、戸惑いを感じざるを得ない。もちろん不快な戸惑いではない。

前置きが長くなった。上記の『辞典』にあるさまざまなタイプの句の中で、とりわけ私が異彩を放っていると感じるのが大西泰世の句である。彼女の句と比較すれば、西川徹郎の句も攝津幸彦の句も俳句の範疇にあることは歴然だ。きっと、十二分に俳句を経験した者には、身に備わった俳句的感覚の外で句を成すのが難しくなるのだろう。あるいは、この二人に限らず、その句がいかに奇異で逸脱的に見えようとも、あくまで俳句内世界における異端に留まろうという意識が働いているのかもしれない。

大西泰世の句が他の例句と何が違うかと言えば、言葉の繰り出し方が違う。あとになって彼女が川柳の作家だと知って私は納得したのだが、言葉の繰り出し方の違いはこの出自の違いによるのだろうと思う。そのあたりをもう少し具体的に言うと、言葉の凝縮度が低い(俳句としては言葉のつながり方がゆるい)、季語を使っていても(俳句的に見ると)それが有効に働いていない、ということになる。しかし俳句的基準で見れば欠点となるものの、それを俳句と考えなければ、要は一行で書かれた詩として考えれば、その欠点は欠点でなくなる。

では、具体的に句を揚げてみる。
 
わが死後の植物図鑑きっと雨  大西泰世(以下同)

如月にうつくしく死ぬ生殖器

形而上の象はときどき水を飲む

『辞典』に挙げられている句から三句。「わが死後」の句にあるのはまさに青春の感傷。十代の頃を振り返ったとき、すでに自分は老いたと感じたり、自分の死んだあとも世界は変わらず存在を続けることの不思議に打たれたりはしなかっただろうか。そのような感覚を思い起こしたときに私はこの句を了解できた。「如月に」の句では、如月=仲春という自然における生の横溢、生殖器=性という人間の生の横溢が表現され、その絶頂のときに死にたいという美意識が提示される。それも「如月にうつくしく死ぬ」といううつくしい表現に、「生殖器」という全く身も蓋もない語の取り合わせによって。「形而上の」の句は、「上(じょう)」との語呂合わせで「象(ぞう)」を配したのではないかと私は想像するのだが、それはともかく、形而上と形而下(水を飲む)とが対比されているのはわかりやすい。ただし「形而上の象」というのはわからない。もしかすると何かからの引用なのかもしれないが、それがどんな象のありようなのかと夢想してみるのは楽しい。

『大西泰世句集』(砂子屋書房)に収録されている三つの句集それぞれから、私の好きな句を一つずつ取り上げる(そうは言っても魅力的な句が多いので、一句だけ選び出すのは難しいのだが)。

火柱の中にわたしの駅がある  『椿事』

まるでCMのコピーか、演歌の一節のように、完璧な表現を得た一句(もちろん揶揄しているわけではない)。CMや演歌ではここまで激しい内容にはならないけれど、それでも近いものを感じるのは、その激しさゆえに、この愛がフィクションであり絵空事に思えるからだ。しかしながらそこには作者の激烈な願望が燃えている。駅とは通過地点である。ある駅で火柱を燃え上がらせたとしてもそこにずっと留まるわけではない。次の駅、さらに次の駅へと疾駆して、そのたびに火柱を上げるのだろう。

対峙してからは淋しい丘になる 『世紀末の小町』

淋しい丘とは何か。女性の肉体の暗喩であり、作者自身のことだろう。火柱のように燃え上がった愛も、さして間をおかずに対峙する関係を迎えるのは必定だ。なぜなら、強い自意識や自己愛に囚われとなっている愛だからだ。女のまなざしが対峙する男よりも、愛されぬ「淋しい丘」となった自分自身へと向けられるのはそれゆえである。

一匹の鶴を折るたび手を洗う  『こいびとになってくださいますか』

鶴の折るのは、慰霊のためであったり、誰かの病気快癒のためであったり、つまりは善意の行為である。しかし作者はそこに偽善の気配を感じる。そしてそれに我慢がならない。そのため自分が穢れたと感じる。あるいは偽善的善人としてある自分自身に我慢ができない。なぜなら自分が善人でないことをよく知っているから。善人ではないという純粋性を保とうとする奇妙な潔癖さ。何という屈折だろう。


2020-07-26

佐々木マキ・攝津幸彦・飯島晴子 安田中彦

佐々木マキ・攝津幸彦・飯島晴子

安田中彦


狂人の作品を掲載してはならない、手塚治虫に脅威を与えてそう言わしめた佐々木マキ。その自選集『うみべのまち』を入手。

佐々木は、60年代終りから70年代に『ガロ』に掲載された漫画や、『ねむいねむいねずみくん』『ぶたのたね』などの絵本で知られている漫画家・絵本作家。因みに自選集の帯文は村上春樹。村上は『風の歌を聴け』の「表紙はどうしても佐々木マキさんの絵でなければならなかった」と書く。

70年前後の『ガロ』には多くの実験的な作品が現れたが、日本的な「四畳半」臭さのない、アメリカンナイズされた作風を持つ漫画家として佐々木マキやたむらしげるなどがいた。無国籍的ともアメリカ的とも言える村上春樹の初期作品と、佐々木の描く世界とは重なり合う部分があり、村上が小説家になれただけでなく、本の表紙を佐々木に描いてもらってとても「幸福」を感じたと述べているのも肯ける。ついでに言うと、村上は95年の地下鉄サリン事件など一連の凶悪事件を起こしたオウム真理教に強い関心を抱き、インタビュー集などを出している。これはオウムの人々に自分と同質の部分があるのを感じたからではないかと私は推測している。異質なものを排除し同質性の中で自己完結する(特に初期の作品)のが村上の作品である、と私は見ているのだが、これは話が逸れすぎるので、佐々木マキに話を戻す。(「おいおい、俳句の話はしないのか?」と思っている方、もう少しお待ちください。)

何十年かぶりに佐々木の漫画に触れて私が感じたのは、当時は時代から超然として存在していたかに見えていたものが、実は強烈なまでに時代の匂いを発散していること。
今では死語なのだろうけれど、「サイケデリック」、略して「サイケ」という語が広まっていたのを思い出す。辞書を引くと「幻覚剤による幻覚や恍惚状態に似たさま」とある。また、当時の文化的キーワードに「カウンター・カルチャー(対抗文化)」というのもあった。体制的なメインのカルチャーに対して「対抗」するカルチャーということだ。さらに付け加えると、戦後のアメリカ文化に対する人々の憧憬は、現在では、高度経済成長の途上にあった時代への「三丁目の夕日」的な郷愁同様の、歴史的感情と言える。

俳句と関係のないことを長々と書いた。そのわけは、佐々木マキの作品を読んでいる途中、私の脳裡に幾度となく、攝津幸彦の句が浮かんできたからだ。ジャンルは異なるものの、感受性に時代の刻印を押されているという点で二人は共通している。因みに佐々木は1946年生まれ、攝津は1947年生まれ。

 南浦和のダリヤを仮のあはれとす 攝津幸彦

これは攝津の代表句。「あはれ」は『源氏物語』を筆頭とする日本文学のメインストリームにおける最重要語と言ってよい。それに対して配されているのは、およそ抒情から遠い「南浦和」と「ダリヤ」。ここには明らかにカウンター・カルチャー的発想が見られる。

俗なものを取り込むのは、和歌との違いを鮮明にするために俳句が取った戦略で、俳句が大衆性を得た理由でもある。しかし俗に傾き過ぎると安っぽく軽薄になり、文芸として危うくなる。「写生」や「花鳥諷詠」という考え方は、高みに向かい過ぎず、また俗になり過ぎないための方策としての側面がある。俳句に関する議論がしばしばかみ合わず、中途半端なものに終るのは、俳句がもともとそうした相反する力のバランスの上に成り立っているという事情があるからだろう。とは言え、俳句界の主流が「写生」「花鳥諷詠」にあるのは間違いのないことで、それを考えれば攝津の作句法そのものがカウンター・カルチャー的と言える。定型はほぼ守られているものの、写生からは遠く、季語への意識も希薄。季語を用いている場合でも、その本意を敢えて無視しようとする。

 一月許可のほとけをのせて紙飛行機

 みだれ髪 寒満月の 後始末

 かくれんぼうのたまごしぐるゝ暗殺や

第二句集『鳥子』から冒頭の三句。もっとも分かりやすいのは「みだれ髪」の句。俳句としての出来はともかく、取り合わせも季語の用い方も了解しやすい。しかし、他の二句は三物の取り合わせ。季語「一月許可」が何なのかわからない。「たまご」または「暗殺」が「しぐるゝ」というのも意味不明。

四物の取り合わせもある。

 鷗・元伯爵・鞦韆・語草

 失速す朝のたてがみ無視のむらさき
 
やはり『鳥子』から。「鷗」の句は明確に四物だし、「失速す」は三物にも見えるが、「無視のむらさき」を「無視」「むらさき」を別々なものと考えれば四物になる。攝津は、このように一般的な俳句の作法に終生、対抗し続けた(彼の享年を考えれば終生それを続けるつもりだったのかはわからないが)。

「一月許可」の句に戻ると、これを冒頭句にしたのは一月が攝津の誕生月だからという指摘がある。もしそうなら「一月許可のほとけ」とは彼自身を指していることになる。この句は作句姿勢の表明とも、自尊心の裏返しである韜晦や自虐とも受け取れる。ここで私が連想するのは太宰治で、彼は第一作品集のタイトルを『晩年』とした。収録している短編のタイトルを使わず、敢えて「晩年」としたところに、「晩年」という言葉とは裏腹の若さを感じてしまう。同様の思いを「一月許可のほとけ」と自己規定する攝津に対しても抱く。

唐突と思われるだろうが、私はここで攝津幸彦と飯島晴子を引き比べてみる。彼女の初期の句集『蕨手』『朱田』は取り合わせの試みが極めて魅力的だ。

 母体ばかり着き白ダリヤつくる駅  『蕨手』

 晩年の膚皓々とダリヤ園

 谷底のダリヤは死亡してをりぬ   『朱田』

 死んだやうにダリヤがかくしてゐる少年

攝津の好んだモチーフであるダリヤを使った句を二句ずつ取り出してみた。これだけを見れば、飯島ではなく攝津の句であると言っても認められそうだ。『蕨手』は1972年、『朱田』は1976年刊行で、60年代中盤から70年代中盤の作品が収められている。一方、攝津の第一句集『姉にアネモネ』は1973年、第二句集『鳥子』は1976年刊行。この二人がある時期、作句の方法において接近した場所にいたのはたまたまかもしれない。しかし、その時代の文化状況、さらにいえば時代精神によるのではないかとの想像も可能ではないだろうか。

二人はその後、異なる進路を歩む。飯島の場合は、第一句集『蕨手』の、師である藤田湘子による序文に指し示されている。藤田は〈一月の畳ひかりて鯉衰ふ〉を取り上げて次のように述べている。

〈この作品は、ものの性質や形態をうたうことから、ものの存在をとらえる作家に成長したことを証明している。〉(注・下線は藤田自身による)

読み手の意表を突くような、ときにはシュールとさえ言える取り合わせを行った攝津幸彦と飯島晴子。しかし飯島の場合には、〈もの〉の実体を把握しようとする意思が働いている。この後、成熟に向かって進んでゆく飯島の展開を考えると、この第一、第二句集は表現の模索の所産であり、次のステップに進むための助走のように見えてしまう。一方、攝津は〈もの〉ではなく〈ことば〉重視の句作り、〈ことば〉との戯れという姿勢を通す。ここにあるのはもちろん、俳句観や個々のパーソナリティの違いなのだが、私はそこに、先ほど触れた時代精神というものの加味したい誘惑に駆られる。60年代は攝津の10代から20代初めの多感な時期に重なる。その時代の社会および文化運動の高揚と混沌を全身で受け止めたはずだ。当時、映画や芝居における前衛的、実験的表現として「アンダー・グラウンド」、略して「アングラ」という言葉が随分もてはやされた。メインストリームに対して傍流であること、またアングラ的であることを好ましいとする時代の空気の中で成長し、その時代の精神を自分のものとしたのだと考えれば、攝津の句作の姿勢は了解しやすい。飯島は攝津よりずっと年長で、60年代にはすでに40歳代に入っているから、攝津のような形で時代を受容することはなかっただろうと推測する。

私はここまで「カウンター・カルチャー」という語を何度も使ってきた。攝津は自分を培ってくれた文化を信頼していたのだと私は思う。それは60年代の文化だけではなく、実は「写生」「花鳥諷詠」的俳句観、そしてそれを支える文化的背景に対してもそうだったのではないか。そうした信頼があったからこそ、それに対抗し戯れることができたのではないかという気がしてならない。依拠するに足る、それゆえにまた対抗するに足る文化的背景が失われている現在において、攝津の立ち位置を私は羨ましいものに感じる。もう戻らない時代への郷愁をも込めて。


(拙文と全く関係ないことだが、週俳682号で宇多喜代子「天皇の白髪にこそ夏の月」について私見を書かせていただいた。その編集後記に福田若之氏が蟬論争を想起したと書かれていた。私は脱力したのであった。)


2020-06-07

安田中彦 ひるの金魚 10句

クリックすると画像が大きくなります


ひるの金魚 安田中彦

いま欲しきもの叔母さんの白日傘

らんちうの死す感傷がやや足りぬ

立ち眩みして水無月の青の中

鳥として骨となりたる昼寝かな

告白す鈴蘭の香を嫌ひつつ

でで虫の愛なら伝へやすさうな

骨格は螺子にてゆるぶ揚羽蝶

万緑やわが身一つを隠匿す

教科書を踏まれてひるの金魚かな

狂ひつつたたかふ子ども立葵

●

2020-05-17

天皇の白髪 安田中彦

天皇の白髪

安田中彦


遠い距離の言葉の取り合わせでもないし、難解な語が用いられているわけでもない。それでも目にするたびに何とも腑に落ちない気持ちにさせられる有名句がある。作者本人が自分の代表句の一つとしている。

天皇の白髪にこそ夏の月  宇多喜代子

天皇と夏という語から、俳人ならかの戦争を想起するだろう、私は疑いもなくそう思っていたのだが、然にあらず、だった。私見を述べる前に、検索して現れた3つの評を紹介する。

●

高山れおな

「皇太子としての長い待機を終え、ようやく自らの時代を迎えた今上天皇の抱負に思いをいたす、単純にエールをおくるのとも違う、やや複雑な気分が働いていると読める。なにしろ、満五十五歳という普通であればリタイヤが近い年齢での践祚なのだ。」
http://shiika.sakura.ne.jp/daily_poem/2011-05-02-424.html


坪内稔典

「天皇の白髪にこそ夏の月がふさわしい、という俳句であろう。季語の本意を示した平井照敏の『新歳時記』(河出文庫)によると、夏の月の本意は「暑さのあとの涼味」。この句も天皇の白髪と夏の月の取り合わせが涼味を放っている、と言ってよいだろう。ささやかな天皇賛歌だ。」
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkubak_0601.html


櫂未知子

「青年期をとうに過ぎた〈天皇〉のしろがねの髪、そして涼やかな月。この句はいろいろな解釈や評価をされていますが、まずは視覚的な面に目を向け、そして天皇という立場の人を考えてみる、それが大切ではないかと思われます。」
http://www.izbooks.co.jp/tukiP431.html

●

高山氏は「今上天皇か昭和天皇のどちらかだろうが、句そのものの味わいからしても、また制作年と作者の生年という傍証からしても、前者とするのがより適切と考える」。句の味わいとは「より個人的なインティメイトを示しているように思われる点を指す」のだという。その「インティメイト」と併せて、宇多氏が今上天皇(現在の上皇)と同年代であり、平成初頭に作成されたことから、エールを送っているとする(+複雑な気分)。「個人的なインティメイト」について私は是認も否認もできない。傍証は宇多氏と句の作成時期についての知識がある鑑賞者のみに有効だ。

坪内氏はこの天皇を昭和天皇と推測している。涼味を放っていて、「ささやかな天皇賛歌だ」とする。因みにだが私は天皇に共感も親近感も抱いたことがない。天皇参賀に集まって日の丸の小旗を振る人々が異星人のように見える。

そのことは別にしても、文芸が天皇賛歌をするのだとしたら首を傾げざるを得ない。社会の高い地位にいる者を賛美するのが文芸なのだろうか。それなら東條英機や安倍晋三を賛美してもいいことになるが(もちろんそうしたい人はそうすればいい)、何の批評性も持たずに文芸と呼べるのだろうか、という疑問が湧く。

櫂氏の評だと、天皇は現上皇と読めなくもないが、明確ではない。氏はまず視覚的な面に目を向けよと言う。なるほど。しかしそれに続く文は意味が分からない。「天皇という立場の人を考えてみる」とは何のことだろう。それは象徴天皇? 「神聖ニシテ侵スヘカラス」の天皇? 明治より以前の天皇? どの立場の天皇を指すのか? そこは読み手がご自由に、ということだろうか。


確認しよう。

高山氏「天皇へのエール」、坪内氏「天皇賛歌」。現上皇と昭和天皇の違いはあれ、両者の捉え方は近い。しかし、もしそうであるならこの句は普遍性を持ち得ない。天皇に思い入れのない人間には無効だからだ。櫂氏は「視覚的な面」がこの句の魅力だと捉えているようだ。確かにそうだろう。天皇の白髪と夏の月、印象は極めて鮮明だ。取り合わせとしてもユニーク。俳句で使いにくい天皇という語が無理なく着地している。

それでも私がこの句を見るたびに覚える違和感(北海道弁でいうならイズイ感じ)は何だろう。特に「こそ」の存在。なぜ天皇の白髪が強調されるのだろう。何かがとりたてて強調されるのは、それと対比される別な何かが存在すると考えるのが妥当ではないだろうか。

天皇と夏の組み合わせから、私はかの戦争を想起した、と書いた。だからもちろん天皇とは昭和天皇だ。満州事変から敗戦までのいわゆる15年戦争、天皇の年齢は30歳から44歳。敗戦から年月が経ち、天皇の髪もすっかり白髪になった。では、それと対比されるものは何か。それは歳を取らなかった者たちである。言い換えるなら、歳を取ることができなかった者たち。永遠に歳をとらない者、それは死者である。生者と対比されるもの、それは死者である。生者である天皇と、戦時に命を落とした多数の者たち。日中戦争以降の戦争による死没者は日本人だけでも310万人とされる。戦地に駆り出された兵士たちの60%は餓死だったという。いかに杜撰な計画によって戦争が遂行されたかがわかる(ここで私は天皇の戦争責任という話をしたいわけではないのでそこはご注意を)。

「こそ」という強調の助詞が行っているのは、現在と過去、生者と死者、老いと若さという対比である。さらにそこに身分を含めてもいいかもしれない。さらに支配者と被支配者という対比も。

私はこんな想像をする。平和な世の中になって歳老いた天皇の白髪に涼やかな夏の月光が注いでいる。一方、時間を遡れば、日本から遠く離れた南方のジャングルで病と飢餓のために死に瀕している若者が月を仰いでいる。帰還のかなわない故郷で同じように月を仰いでいたのを思い出しながら。感傷的に過ぎる想像かもしれないが、「こそ」の背後にある、「こそ」によって対比されているのはそうしたものではないだろうか。上野の地下道で死んでいった多くの「浮浪児」たちを思い浮かべてもいいかもしれない。

掲句の鑑賞は櫂氏の「視覚的な面」から捉えるのが妥当なようだ。視覚的に明瞭な像を私たちに与えてくれるのは確かだ。そしてそれまでになかった取り合わせ。

少なくとも「天皇陛下、おいたわしや」や「天皇賛歌」の類ではないだろう。それは俗情との結託でしかない。それはつまるところ文芸の放棄にほかならない。

2019-03-10

10句作品 安田中彦 黄蝶

画像をクリックすると大きくなります



黄 蝶   安田中彦

多喜二忌の紙飛行機が蝶になる

言葉無き母をげんげに眠らする

墜落の蝶に真白き昼ありぬ

夢に象見てより春の闌けるなり

囀の降れり魚類の身のほとり

犬を野に不満の春をどうしよう

中也なら黒い旗見し春の空

故人みな大脳にをり黄沙ふる

ピン止めの蝶の如きがあらはるる         

かの人をみとりし人も死す黄蝶