【週俳8月~11月の俳句を読む】
視点のよろしさとそれに纏わることなど安田中彦
「俳句界」12月号は90代俳人特集。堀田季何さんの11月21日のツイートによれば「(90歳代の)俳句人口は50歳未満より多い」のだそうで。50歳といえば社会的にはりっぱな中年、でも俳句の世界では若手扱いなのは、この「週刊俳句」を読んでいるような方々には周知の事実。その“若手”人口がきわめて少ないことに改めて驚かされます。
俳句の魅力の中に、視点のズラシやトリビアな発見がありますね。たとえば22年角川俳句賞を受賞した西生ゆかりさんの〈冬の日の画鋲の横の画鋲穴〉という句を、審査員の小澤實さんが「現代美術のような鮮やかな見せ方」と褒めています。でも、世界がまだ発見に満ちている“若者”(まあ、40歳代にもなるとアンテナの感度は相当鈍くなりますが)にそんなトリビア的発見が魅力的かどうか。現代美術のように見えるのかどうか。“若者”が俳句に惹かれない理由は奈辺にあるのかと尋ねられたら、私はその辺と答えます。あくまで理由のひとつであって、全てではないですけど。もちろん、俳句を作る者として、西生さんの句の面白さはわかります。貶しているわけではないことは付け加えておきますね。
前置きはここまで。
ここから句の鑑賞に入ります。
黒揚羽ひらりと来たり殉教碑 広渡敬雄
天草の殉教公園にある碑なのでしょう。作者は天草の方なのでしょうか。それとも旅で訪れたのでしょうか。殉教碑にふと現れた黒揚羽は、そこを訪れた作者自身の姿であると同時に、その内面をも反映しているように思えます。
キリシタン弾圧は、いわば日本の〈黒歴史〉。その象徴の前に立つ作者の心の翳り、それもまた〈黒〉という語に託して表現されているのでしょう。
まだ温き草に坐りぬ揚花火 広渡敬雄
〈温き草〉に実感があります。太陽に熱せられて昼間の熱が抜けきらない草地を読み手に想起させます。
そして花火を待つ興奮をも。
揚花火を詠んだ句としてとても視点がユニークです。私自身はこのような視点で書かれた揚花火の句を見たことがありません。
踊りつつ踊らぬ人を見てをりぬ 野口る理
「踊っていない人が踊っている人を見る」という常識的な発想を逆転させたのがこの句の面白さです。
踊っている側の人が思うのは「見ていないで一緒に踊ればいいのに」ということなのか。それでは当たり前過ぎます。“特定の誰か”を見て、いっしょに踊りたいという願望が現れたものだと私は解釈しました。
読み手に想像の“余白“を与えてくれる句です。
タピオカが雨の子規忌を揺れてゐる 野口る理
こちらは前句よりもさらに大きい“余白”のある句。
タピオカの入った飲料を口にしながら、子規忌を修するかのような思いに浸っているのか。そうとは思えません。たまたまこの日が子規忌であったに過ぎないのでしょう。雨を見ながら心中に去来するのはどのような思いか。これもやはり読み手の想像力に委ねられています。
露草や定規に正す手紙の字 日向美菜
よほどの乱筆でない限り、手書きの手紙をもらうのは嬉しいもの。手書きのうえに、定規できっちりと縦線あるいは横線が整えられている丁寧で美しい手紙ならなおさらのことです。
露草色のインクの万年筆で書かれた手紙を受け取りたくなりました。
俳句の定式を踏まえたうえで、内容も俳句形式にぴったりと合った(俳句形式に無理をさせていない)素敵な句だと思います。
煮凝や外見えてゐる換気扇 日向美菜
換気扇から外が見えるという独自な視点の句です。類のないそのユニークさに惹かれます。ついでに言うと、こんなことを表現して完結する文芸は他にはありません。さらについでに言うと、(前置きで触れたように)そこに俳句のよろしさもあるし、弱点もあります。
季語は煮凝。なぜ煮凝なのでしょう。たとえば、うな重やパフェではだめなのでしょうか。だめですね。やはり煮凝でなきゃ。
日向さんの他の句でも、季語の斡旋のうまさに感心しました。
プロフィールで生年を見てびっくり。よほど俳句形式との相性の良い方なのでしょう。
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