【俳誌を読む】
脱臼・逸脱・パンク・誤作動その他の愉しみ
『Picnic』第7号を読んだ
西原天気
147mm×147mmの正方形の判型。雑誌では見たことがない。おまけにリングバインダー綴じ。これも見たことがない。おまけに、横組です。ほとんど見たことがない。
このように、ブツ(ハードウェア)としてユニークきわまる『Picnic』第7号(2022年11月1日/野間幸恵編集)を読んでみようと思うのですが、どんな雑誌かというと、本トビラ、つまり表紙をめくった最初には「5・7・5作品集」とあり、俳句とも川柳とも書いていない。同人諸氏の顔ぶれには、存じ上げているお名前もあり、それからすると、成員は俳人と柳人の混合。だから「5・7・5」なのですね。
13人の作家の「5・7・5作品」が20句ずつ並んでいます。
さあ、読んでまいりましょう。
最初の作品、大下真理子「あげく」の、まずは第1句目。
かつかつと大夕焼のはじまり来 大下真理子
具体音と〈大夕焼〉の対照が感興を誘います。夕焼が在るというだけでなく、「はじまる」という設えは、動きがあって、アタマの擬音とよく合います。
〈はじまり来〉の〈来〉でちょっと立ち止まりましょうか。するっと流すなら「はじまりぬ」あたりか。でも、、〈来〉で。(悪い意味ではない)不自然さ。不思議な感触が残ります。
ほか、
木槿白ハンカチの白通り過ぐ 同
では、切る場所を変えてみる(木槿白/ハンカチの白通り過ぐ、木槿/白ハンカチの白通り過ぐ)、後者の〈白ハンカチの白〉も捨てがたい。
海蛇のさみしい尾かな葉月とは 同
は、倒置、それから尾にさみしさを見出す視点。コクがあります。
次の作品に行きましょう。もっとゆっくりでもいいのですが、日が暮れます。今年が終わります。
岡村知昭は、句集『然るべく』(2016年11月)を愛読。これまで一定頻度で作品に触れてきました。私にとっては、一定水位を保つ作家。それはいいのか悪いのかは知りません。
今回の「駱駝です」20句も、ほぼ、私が知っている岡村知昭、でした。
どうおもしろいのかを説明するのがとても難しい作家で(それは美点・特質と断言できます)、
団栗を呑まずに治るにきびかな 岡村知昭
とかに端的な「奇妙な捩れ方」は、もう、どんどん読んで、どんどんわからないままでいるのがよくて、この人は、いつも、そういう作家あのですよ、私には。
ちょっと言うと、捩れてるのに、世界とこの人のあいだに軋みのようなものを感じない。悲壮感皆無。そこが不思議です。奇妙さの中に安住していらっしゃるというか、非常識にポジティヴというか。
読者としては考える間もなく立ち止まらずにどんどん読む。そういうやり方がオススメです。
(句会向きじゃない。選んだり選ばなかったり、合評したりしてもムダです。ヘンな言い方だけど)
次は梶真久「鯨の日」20句。
鯨。
個人的に好きなんですよね、鯨。
この20句には鯨が二度登場するんですが、掉尾の句、
鯨より淋しい色の皿である 梶真久
〈皿〉への展開、帰着、いいですね。
その前の句、
編みかけのセーター途中に古い井戸 同
〈途中〉で時空が歪んで、この物語には「民俗」を感じたりもしました。
次。
叶裕「Portrait of Godoy」は、全20句に〈ゴドイ〉という固有名詞が入っています。寡聞にして、ゴドイさん(?)を存じ上げず、葛飾、堀切菖蒲園、野毛と経巡っても、彼が見当たらない。
目玉いまゴドイの水に映り込む 叶裕
次。
木村オサム「円錐ロンド」。こんどは〈円錐〉句が20句並びます。季語と円錐の出会いという意味で、俳句的な作品です。
星月夜円錐浮かぶ顔の中 木村オサム
全体に飄逸、おかしみ成分が多く、そんななか、この〈顔〉は、なかなかに可笑しい。
次です。
榊陽子「大切に」。
性と性愛のモチーフ、反道徳、凶々しさ。そのあたりの要素が、まずもって外観を構成する。これは、暗示的な言い回しが目立つ点も含めて、パンクと言っていいかもしれない。
と思いつつ読んでいると、最後のあたりで、
口をひらけば建物が出る バラード 榊陽子
非社会でうまれた歌を見てほしい 同
房として雇われているお猿さん 同
うん、パンキッシュ。
で、それとは肌合いの違う錯乱、作者の錯乱に付き合うのも愉快でして、
この餃子は本です ドッジボールの 同
なに、言ってるんだ? この人は、とあきれながら微笑んでしまう句が、好きなんですよね。申し訳ないけど。
ああ、自分でもわかってるんだけど、申し訳ない。世間に申し訳ない。
次です。
鈴木茂雄「秋 Majira ya majani kupukutika(スワヒリ語)」。
「Majira~」がでたらめだったら、それも一興なのですが、調べてみると、ほんとに「秋」って意味なのですね。
(ただ、スワヒリ語という説明は、読者に親切すぎるかも。わざわざことわる効果もあるにはあっるけれど)
それでね、「秋」というタイトルなんだけれど、20句には秋以外の句も多い(タイトルに騙されてはいけないという仕掛け?)。
設えや発想は全体的に落ち着いて伝統的。俳句的とも言える。その最右翼が、
豆腐屋といふ片陰のやうなもの 鈴木茂雄
あたり。
次は、妹尾凛「colors」。
川柳に、ブツ属とコトバ属があるとしたら、この20句は、双方がバランスよく配置された感。情景的で描写的なブツ属の句と、表記/能記が先走るコトバ属の句。例えば、
固まっていく三日月の発射場 妹尾凛
は前者。
鶺鴒はずいぶん途切れなく漢字 同
は後者。
次は月波与生「Out of Blue」。
十月のとんぼは地平線のやがて 月波与生
あめふらし黄色ばかりを捨てなさい 同
コンテクストの脱臼、語の誤作動。突発的に事件するそれら。
次です。
中村美津江「狐のカミソリ」。
橙色の花をつけるキツネノカミソリは秋の季語。俳人が好みそうなタイトルだが、
過去未来いま透きとおる金魚玉 中村美津江
のような、季語含みで俳句的と言っていいような句の次には、
えいえんは雨の日のだんだん畑 同
といった、無季でポエティックな句が来る、といった具合。季語への遠近感を大きく変えながら、20句が並ぶ。作者としての一つの試行かもしれません。
次です。
松井康子「るる」は、無季句を多く配しながらも、全体に、季語の作用を(切れとの関係を含め)強く意識するような句が多い。
井戸深く空が落ち込むあきあかね 松井康子
崑崙に干したシーツに月の匂い 同
切れの有無はあっても、どちらも俳句的、というより季語を軸にしたアプローチ。
次。ラス前です。
あみこうへい「補:みしゑひもせすん」。
筆名も平仮名ばかりなら、20句も平仮名ばかり。通常の漢字・平仮名混じりよりも可読性が低くなり、つまり、すっと素早く読めず、語を句をたどるように読むことになる。それがいいのか(効果あり)、そうでないのか、自分にはよくわからないけれど、
にんげんのあさをかなしむかんでんち あみこうへい
この平仮名は、乾電池のいんふぁんとでいのせんとなかんじが出ていて、ちょっとキュンとなりました。
いよいよラストです。
野間幸恵「どうしてもサスペンダー」。
因習的な文脈から、慣習としての叙情からの逸脱・逃走は、革新として正統。つまり刷新の王道を行くような作り。
まあ、それは、この『Picnic』全体にもだいたいのところ言えることなんだけれど、
ふきげんな匣かもしれぬ永遠 野間幸恵
妙に説得される。
間に合わぬ華氏を見ている摂氏かな 同
ガブリエル・ファーレンハイト(1686年~1736年)とアンデルス・セルシウス(1701年~1744年)が現実に出会った可能性がないとは言えず、この句、ひょっとして実景? と奇妙な感興を抱いてしまった。
ただただ外観的に〈KaA-〉の箇所が目立って引っかかる。カとアを英文字に置き換えて、こういう大文字と小文字の並びになったに過ぎないのかもしれないが、句のなかにある種の「異様」が生じていること、それってかなり重要なことだと思うんですよね。
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というわけで、『Picnic』第7号。いわゆるよくあるかんじの句は少なく、カジュアルに申せばチャレンジングな句、倒れるにも前のめりに倒れようとする意志が感じられた1冊でした。
■『Picnic』第7号にご興味のある方、閲覧希望の方は、 次のメールアドレスまで。
Picnic編集 鈴木茂雄 ss.suzuki.suzuki@nifty.com
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