2022-12-04

瀬戸正洋【週俳8月~11月の俳句を読む】K**珈琲店大井松田店にてⅢ

【週俳8月~11月の俳句を読む】
K**珈琲店大井松田店にてⅢ

瀬戸正洋


くつろいでいるひとがいる。ノオトを取っているひとがいる。PC、スマホを開いているひとがいる。俳句を読んでいるひとがいる。考えているひとがいる。

珈琲が伝来したのは江戸時代、現在のような形態になったのは明治時代からだという。喫茶店コンセプトとは「珈琲を飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」とあった。


かほ見せてイルカ併走青葉潮  広渡敬雄

併走しているのはイルカと観光船である。観光船には何人ものひとが乗っている。ひとはイルカを見ている。イルカもひとを見ている。イルカも観光船も青葉潮に身をまかせている。身をまかせることができるということは幸せなことである。青葉潮とは青葉の頃の黒潮をいう。

藍よりも青き潮の音浜おもと  広渡敬雄

藍よりも青いながれである。視覚ではなく聴覚に委ねた。海岸の砂地に生育する浜おもとに委ねた。藍より青いながれの音である。

島言葉やはらか海月浮き来たる  広渡敬雄

おだやかな島の暮らしである。そこで暮らすひとびとの言葉はやわらかい。たびびとは、その言葉に同化していく。目の前に海月が浮かんできた。海月もやわらかな言葉で語りかけてくれている。

夕焼や東シナ海涯もなし  広渡敬雄

夕焼けはおだやかである。はてしなく続く東シナ海はおだやかである。作者のこころもおだやかである。

まだ温き草に坐りぬ揚花火  広渡敬雄

日が暮れても太陽の温もりは残っている。そのことに驚いたのである。多少の違和感もあったのかも知れない。

不知火や一人テントの灯りたる  広渡敬雄

不知火は九州に伝わる怪火である。解明しようとしても無駄なことなのである。不思議なことは、そこら中にいくらでもある。テントの中で過ごす孤独な夜。そもそも、そのことが不思議なことなのかも知れない。

黒揚羽ひらりと来たり殉教碑  広渡敬雄

ひらりとなど来てもらっては困るのかも知れない。あるいはひらりと来てもらわなくては困るのかも知れない。信仰のために命を失うことを殉教という。想像のつかない世界である。

禁教時代の隠れ切支丹を思ふに

はればれと絵踏みに集う檀家衆  広渡敬雄

私だったら黙る、下を向く、逃げる。ものごとに対してはればれとなど接した経験はない。惨めな生き方だと思う。自分の貧しさがほとほと嫌になる。

浦深く教会ありぬ青岬  広渡敬雄

夏の青い海、草木の繁った大地。浦とは波の静かな入江とある。教会とは共通の信仰によって形成される集団、団体や社会のこととある。

土産屋の厠借りけり稲の花  広渡敬雄

土産屋と厠とは同等である。それを借りるという。旅人らしい表現だと思う。謙虚な態度だと思う。稲作は文化である。稲の花は桜や梅の花よりも美しいと思う。

寅年のマフラーぐるぐるぐるぐる巻き  野口る理

十二年にいちどのことである。この干支は強そうである。ぐるぐるぐるぐると巻く。ますます強そうである。強くならなければならない理由があるのかも知れない。

あやふやをほほゑみすごす遅春かな  野口る理

ほほ笑みに出会ったときは気をつけなくてはならない。理由がなければひとはほほえむことはしない。自分のことがよくわからないから誤魔化すのである。不快な顔をしているひとは無防備である。そんなひととは気楽に接することができる。

流氷も頸椎も切るピアノ線  野口る理

ピアノ線とは、硬鋼線で強度が高い高級高張力鋼線のことである。ばねやケーブル、コンクリート補強などに用いられる。流氷や頸椎を切ることにも使われているのかも知れない。

透明を集め蛙のてのひらは  野口る理

夏の夜の雨の降ったあとなどには数百の蛙が玄関の窓ガラスに張り付いていることがある。次の朝には、何処かに行ってしまっている。不思議な風景である。ひとのてのひらも蛙と同じように透明になってしまっている。

春分や剣玉の糸くすませて  野口る理

くすむとはいいことばである。さえない色、引き立たず無視されがちな状態。これは生き方を象徴している。それでも、剣玉の糸として十分に役割を果たしている。何も迷う必要はない。

ひらめきの途中ヒヤシンスのささやき  野口る理

ヒヤシンスがささやいてくれたからひらめいたのかも知れない。何かがひらめいたからヒヤシンスがささやいたのかも知れない。ひらめいてしまえば、あとは考えるだけのことである。ひらめきは「途中」であっても、それで十分なのである。

恋猫やセロハンテープ飴色に  野口る理

何かを言いたかったからセロハンテープは飴色になったのである。これはセロハンテープの本能なのかも知れない。セロハンテープは、恋をしているのかも知れない。

夜桜や茶葉ざはざはとやはやはと  野口る理

「ざはざはとやはやは」としている。夜桜の怪しさのためなのかも知れない。茶葉だけではなく、見慣れていたはずの何もかもが「ざはざはとやはやは」としている。

花冷のソファーにひそむ巨大発条  野口る理

いくらひそんでみても無駄なことなのである。存在してはいないと思うことが間違いなのである。花冷えだからなのかも知れない。

春疾風いつも祈りは闇とともに  野口る理

闇に怯えて祈るのである。不安だから祈るのである。春になってあたたかい風が吹くから祈るのである。闇はいつまでも存在しているのである。

指明るし天道虫を逃がすとき  野口る理

逃がすという行為は、逃がす側にも逃げる側にも希望がある。故に、指は明るくなるのである。

薄暑さながらぱりぱりのシーツかな  野口る理

ぱりぱりのシーツは薄暑そのものなのである。仕事の目途もついた。このシーツで眠るまでの時間を大切にしたいと思う。

麦秋や窓辺の突つ張り棒斜め  野口る理

窓の片方は固定してある。もう片方で開け閉めをする。納屋の窓なのかも知れない。農機具が並んでいる。肥料が積まれている。棚には農薬が並んでいる。窓の向うには麦畑が続いている。

再会や虹に緑の濃き中野  野口る理

再び巡り合うことができた。これは奇跡なのである。その時の虹の緑色が目に留まった。作者は中野でなければならない何かがあったのである。

金髪かつ短髪こんな風に汗  野口る理

汗のかき方が金髪なのである。汗のかき方が短髪なのである。金髪であることが相応しいと思ったのである。短髪であることが相応しいと思ったのである。

海の日の誰も傷つけないカッター  野口る理

文具であるのかも知れない。そんなカッターでもひとを傷つけることはできる。生きることとはひとを傷つけることなのである。そのことに誰も気付いていない。せめて、海の日ぐらいはおだやかでいたいということなのかも知れない。

蛍とほく水族館は濡れてゐる  野口る理

濡れていなくても濡れているような気になるのが螢である。清流というイメージがあるからなのかも知れない。

濡れていなくても濡れているような気になるのが水族館である。それは、館内の照明によるものなのかも知れない。

海月なり光あれどもなけれども  野口る理

海月は何も考えてはいない。だから海月なのである。ひとは海月に光を当てる。余計なことはしてはいけない。厄介なことはしてはいけない。海月にとっては有難迷惑なはなしなのである。

向日葵に強き一理のありにけり  野口る理

向日葵は太陽に向かって咲いている。迷うことはない。ぶれることもない。一理とは道理のことである。向日葵の道理のことなのである。

おとなりも見てゐる投網めく花火  野口る理

花火はなげたときの網のかたちに似ていた。いっしょに見ている隣家のひとたちもそのように感じた。

水撒けば砂縮こまる残暑かな  野口る理

水が撒かれると砂は緊張する。水を掛けられるとひとは緊張する。砂もひとも、いじけたりかしこまったりする。残暑に水は悪くはない。

てつぺんはいくつもあつて青とんぼ  野口る理

青とんぼは孤高なのである。てっぺんはひとつではない。いくらでもある。青とんぼも自分だけが孤高であるなどとは思ってはいけない。自分だけが特別であると考えることは間違いなのである。

踊りつつ踊らぬ人を見てをりぬ  野口る理

踊りながら、踊ることなくそれをながめている人を見ている。ただ踊りを見ているだけのひともいる。千差万別である。千差万別とは、ありがたい言葉である。気楽に生きていくためには、ありがたい言葉である。

稲妻や重機も眠るときうつむき  野口る理

重機も動いていないときは、うつむいているように見える。パワーショベルは、その典型だと思う。たとえ、機械であってもなくても動くものとはそういうものなのである。遠くで稲妻がひかっている。重機を起こそうとしているのかも知れない。

木犀にあらためて夜の来たりけり  野口る理

時はながれている。昼も夜も無意識のうちにやって来る。あらためてと思ったのは、その日の昼が特別だったからなのである。木犀が咲いていたから特別だったと思ったのかも知れない。

秋の夜の猫座なら尾の躍動感  野口る理

猫座とは幻の星座である。忘れられてしまった星座である。猫の尾は生き生きとしていた。秋だから、そう感じたのかも知れない。

タピオカが雨の子規忌を揺れてゐる  野口る理

子規忌は九月十九日である。糸瓜忌ともいう。タピオカは揺れているのである。自分の意志で揺れているのである。タピオカにとって子規忌は特別な日なのかも知れない。

集つてゐて桃達の触れ合はず  野口る理

触れているところから腐るのである。概ね、果物はそういうものなのである。ひとも同じである。触れ合うことなどとんでもないことなのである。程々がいいのである。少しぐらいの距離は必要なことなのである。

虫籠に三百日の不在かな  野口る理

六十五日間、虫籠に虫はいたのである。ただ、それを違う方向から考えてみ
た。虫籠にとってはどうでもいいことなのかも知れない。

クリップを集めて軽し火恋し  野口る理

朝晩に冷えを感じるころになると火が恋しくなる。あたたかさが懐かしくなる。書類を整理するとクリップはたまってくる。

ある役所の窓口では、袋に入れられたクリップが置かれ、「自由にお持ちください」という貼り紙がしてある。

はつふゆはお辞儀のあとのつまさきに  野口る理

深々とお辞儀をするとつま先が見えた。つま先がつぎの行動を考えているのかも知れない。お辞儀には「会釈」「敬礼」「最敬礼」等、いろいろな作法がある。つまり、かたちである。かたちで、こちらの思いを伝えようとするのである。見せるということである。なるほどと思ったりもする。

帰り花束ねて誰も彼も敵  野口る理

帰り花だから「敵」としたのかも知れない。花束はやさしさの象徴である。だから束ねてみたのである。誰も彼もが敵なのである。その中でも一番の敵は自分であるということを忘れてはならない。

綿虫のふるさととして黙す樹々  野口る理

樹々は賢いのである。黙しているから賢いのである。綿虫のふるさとであろうとなかろうと黙していればいいのである。

冬晴れやパーカーのひもあいまいに  野口る理

あいまいであるのは、何も気にしていないからなのである。冬晴れなのである。ただ、パーカーのそでを通しているだけのことなのである。

枯蟷螂逃がす手つきのまま眠る  野口る理

逃がすことはやさしさである。そんなときにこころはゆるむのである。だから緊張していなければならない。眠ることなど以ての外のことなのである。だから「手つき」が重要なのかも知れない。緑色から枯色になることも必要だったのかも知れない。

等分ぢやなくて二人の窓へ雪  野口る理

百グラムと百グラムとに分けても等分ではない。百グラムと十グラムとに分けても等分ということもある。等分とは難しいものなのである。窓の外は雪なのである。二人でいる窓の外は雪なのである。

贋物が彩るクリスマスツリー  野口る理

彩るとは彩色する、化粧する、飾る、おもしろみや趣などを付け加えるとある。本質を隠すということなのである。つまり、どうでもいいことなのである。どうでもいいことなら贋物でも十分であるということなのである。

だが、贋物であっても、どうでもいいことであっても、大切なことであるということは忘れてはならないと思う。

白雲や聖歌に出てこないわたし  野口る理

聖歌に出てきたりしたら困ると思う。出てこなくて何の問題もない。むしろ、出てこないことを願うべきなのである。目立つことは厳禁である。白雲を眺めることができているのだからそれで十分であると思う。

かまくらに残れるグミの昏さかな  野口る理

かまくらとは小正月の伝統行事である。グミとは果汁などをゼラチンで固めた菓子。昏いとはぼんやりとしたくらさのことである。

木菟の端ひつ掴みそれつきり  野口る理

猛禽である。端を引っ掴みそれっきりとある。それっきりになったのは、木菟なのか、ひつ掴かまれた方なのか、もしかしたら飼い主だったのかも知れない。「端ひつ掴みそれつきり」で十分なのだと思う。

口中に血の匂ひたる夜霧かな  日向美菜

おとことおんなの話なのかも知れない。口中が血の匂うほどの激しさなのである。不安だからなのかも知れない。それでも夜霧はやさしくつつんでくれる。

露草や定規に正す手紙の字  日向美菜

文字を正すのには定規は不適切である。だが、不適切なものでしか正すことができないのも事実なのである。最近は手紙を受け取ったことも書いたこともない。孤独も、まんざら捨てたものではないと思う。

露草は目立っているような、目だっていないような花である。万葉のむかしから恋の花なのである。

鳥二匹籠にもらひて秋黴雨  日向美菜

秋の長雨である。つがいでもらったのだと思う。籠に入れられているのは鳥だけではない。

紙に拭ふ鍋の油や黍嵐  日向美菜

鍋に残った油の処理の方法はいろいろある。キッチンペーパーで拭い洗剤で洗う。黍嵐はこころを乱している。

犬の嗅ぐ皿の裏がは冬隣  日向美菜

裏には何かがある。そう思うのは犬も同じことなのである。つまり、表があまりにも馬鹿々々しいからなのである。加えて、これから冬がやって来る。身構えて生きなければなどと思っている。

しばらくは風の留まる焚火かな  日向美菜

焚火は落ちついている。それを囲むひとのこころも落ち着いている。風も落ち着いている。落ちついているときは眼を閉じてもいいのである。

自転車にくぐる鳥居や寒鴉  日向美菜

寒中である。自転車がある。鳥居がある。そこに鴉がいる。もちろん作者もいる。雪は残っているのかも知れない。

冬ぬくし机の角に割る卵  日向美菜

料理は苦手である。卵を割るといえばゆでたまごぐらいなものである。ゆでたまごならば机の平面で十分である。たまごを机の角で割ることは難しいことだと思う。縁くらいで割るのがちょうどいいのかも知れない。

寒いと思っていたのに温さを感じた。ひとはこれで十分幸せになれるのである。

煮凝や外見えてゐる換気扇  日向美菜

壁に取り付けてある換気扇なのだと思う。カバーに不具合があるのかも知れない。目の前に煮凝りがある。ふと寒さを感じた。見上げると換気扇がからからとまわっている。

捨猫の指吸ひにくる霜夜かな  日向美菜

猿が石垣にすわり空をながめている。狸がとことこと目の前を歩いている。ハクビシンが天井を走り回っている。そんな山村に暮らしていると動物は苦手になる。

それでも、捨てることには違和感を覚えたりもする。


広渡敬雄 天草 10句 ≫読む
野口る理 タイガーモノローグ 40句 ≫読む

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