2022-12-04

青木ともじ【週俳8~11月の俳句を読む】新たなステレオタイプ

【週俳8~11月の俳句を読む】
新たなステレオタイプ

青木ともじ


職場の周りの銀杏並木が色づいて、ようやく秋が来たと思ったのも束の間、十二月に入ってすっかり冬の香りに覆われてしまいました。八月は既にして遠い昔な気がします。

煮凝や外見えてゐる換気扇  日向美菜

そういう意味ではこういう冬の句のほうが最近の実感としては強く感じます。安アパートの台所といったところでしょうか。換気扇のファンの隙間から外が見えている侘しさ、昨晩の煮魚の汁で作った煮凝に見える生活感のリアリティの一方で、この換気扇の隙間からわずかに差し込んできているであろう冬の日差しに救いが感じられます。


犬の嗅ぐ皿の裏がは冬隣  日向美菜

私の実家でも犬を飼っていましたが、犬という動物は不思議なところが気になるものです。食べ終わった餌の皿をひっくり返して追い打ちをかけるように皿の裏側の匂いを嗅いでいることがありました。そういった景でしょうか。冬という季節は物の隅々へ意識のいきやすい季節。室内で飼っている犬であれば、皿が床にぶつかる音が冬の静謐な空気に響くでしょう。


まだ温き草に坐りぬ揚花火  広渡敬雄

これは非常に実感の伴ったリアリティのある句。私の地元でも、毎年水辺で花火大会が開かれていましたが、大会の始まりは陽が落ちてすぐの頃でした。この句は、花火を観るのによい場所を見つけて地面に腰を下ろしたとき、まだ昼間の陽の温もりが残った地面に気づいた感慨の句だろうと捉えました。

掲句の良いところは、この感覚が個人の実感にとどまるのではなく、私たちが広く理解できる出来事から微妙な季節感への共感性を見つけたことでしょう。私も小さな頃から、同じような場面で地面の温もりを感じたとき、夏の終わりを感じたものです。夏や冬のど真ん中ではない季節の「周辺」について、良い意味で新たなステレオタイプを見出している句です。


夕焼や東シナ海涯もなし  広渡敬雄

日本を取り巻く海の中で、太平洋や日本海に比べると東シナ海は概念としてイメージのしにくい海域だろうと思います。しかし東シナ海は日本にとっては西の果てであり、夏の東シナ海は夜七時ころまで日が暮れないので、夕焼けに対する感慨はどの海よりも大きいものです。

掲句はおそらく陸から見ている海の景ですが、夕焼け一色に染まる東シナ海に対して「涯もなし」という表記を用いているところはきちんと考えたいところです。私は「涯(はて)もなし」と読みましたが、「涯」の字には「きし」「水際の崖」の意味もありますので単なる「果て」の意味ではないだろうと感じます。一つには、日本からは見えないけれどその海の先には紛れもなく大陸という「きし」がある事実が、知識として作中主体の中にあるでしょう。もう一つには、東シナ海の底には沖縄トラフや海底火山があり、二千メートル近い水深差がある実はダイナミックな海域だということもあります。「涯」という字には、距離によって見えない彼方の大陸や水面の下に隠された海底の地形を無意識のうちに想起させる力があるように私には思えました。


踊りつつ踊らぬ人を見てをりぬ  野口る理

まずこの句を見て思うことは、明確に踊り手側の視点で詠んだ踊の句は案外に少数派だろうということでした。踊の句は外野から踊る人々を詠んだものが多い気がしています。そして、踊り手目線として、踊っていない側の人間に目を向けた句はさらに少ないでしょう。
句中では「人」と言っていて、実景としても踊りに加わらぬ人を見ているのでしょう。しかし、盆踊の本意を考えれば「踊らぬ人」の群衆の中には、何人かはこの世の者ではない先祖の霊魂ももしかすると混ざっているのではないか、といった想像も膨らみます。


木犀にあらためて夜の来たりけり  野口る理

木犀は夜によく意識する花。暗がりに白くぼおっと浮かぶ花と強い香りは暗闇でこそ際立ちます。「木犀やしづかに昼夜入れかはる 岡井省二」ともあるように、木犀を詠むうえで昼夜の入れ替わりが特別であることは暗黙の了解だと俳人たちは思ってしまいますが、時にはあらためて、かしこまって、新鮮な気持ちで木犀と向き合う夜が来るのもいいのではないでしょうか。掲句はそんな気持ちにさせる句です。


虫籠に三百日の不在かな  野口る理

少し前には『100日後に死ぬワニ』が流行したこともありましたが、百日単位の時間というのは私たち人間にとっては結構に長い時間です。

掲句は秋から翌年の秋まで、虫籠に何も居ない時間があるという不在を詠んだ句であり、一方で逆算して六十日程度の間、この人は虫籠を使って虫を愛でているということでもあります。

物事の「無い」ことを素材にした句はたくさんありますが、この句は日数の換算も理知的であり、「不在」とストレートに言ってしまってもいるのでそこに新鮮さがあるわけではないと思っています。

寧ろ、この句の表現によって際立つのは、詠まれている三百日が「今年の秋から来年の秋まで」なのか、「去年の秋から今年の秋まで」なのかよくわからない良さであろうと思います。敢えてこういう理知的かつ端的な表現をすることで、「虫籠」という小世界の中で「三百日の不在」と「六十日の存在」のサイクルを何度も何度も普遍的に繰り返してゆくのだ、という達観した世界観を表現しているのではないかと思うのです。


広渡敬雄 天草 10句 ≫読む
野口る理 タイガーモノローグ 40句 ≫読む

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