2021-09-26

【句集を読む】堀田季何『人類の午後』雑感 安田中彦

【句集を読む】
堀田季何『人類の午後』雑感

安田中彦


堀田季何氏の詩歌集『星貌』『人類の午後』が邑書林から2冊同時刊行された。『星貌』は一行詩って感じ。『人類の午後』は通常の定型句。後者を読んで、頭にふわって浮かんだ事を2つ。

1点目。俳句の社会性って事。いや、逆だな。社会性のある俳句。俳句に社会性があるかどうかは知らない。この句集には直接的/間接的に社会性のある句が含まれている。突然私的な事を書くけど、むかしむか~し、私は鈴木六林男が代表を務めていた「花曜」の会員だった。ここで関悦史氏の言葉を引用。「鈴木六林男当人はともかく、その門下には、既成概念のなかで社会批評性とほの暗い詩性を発揮するため、新鮮味が乏しくなることが少なくない」(沖縄タイムス・2017年12月25日)。う~ん、厳しい指摘だ。でも今回この指摘の当否は本題ではないので置いておく。社会性のある俳句が暗く、重くなりがちだというのは一般論としてとりあえず認めよう。えっ、社会性と社会批評性は違うんじゃないかって? そこを筆者(安田)はあえて一緒に取り扱おうとしてるんじゃないか? そう気づいた方はリテラシー能力が高い。もちろん、その2つは別物だ。分けて考えよう。で、堀田氏の句だが、社会性ではなく社会批評性に重心があるのは誰の目にも明らかだ。しかし、それらは「ほの暗く」灯ってはいない。ナチスによるユダヤ人虐殺や昨今のテロなど、テーマは重い。正字表記なのが尚更重い。最初の〈水晶の夜映写機は砕けたか〉を見て私は思わず身構えてしまった。椅子に座り直した。しかしこの章の最後は〈自爆せし直前仔猫撫でてゐし〉。表現内容はキツいが発想は柔らかい。なるほど、「既成概念」の中に無い斬新な切り口で社会批評性を発揮しようと作者は試みているのだと気づいた次第。「ほの暗く」灯ってないと今さっき書いたけど、句の印象はむしろ明るい。無論だけど内容が明るいわけじゃない。作者のきわめて独自性の高い観点とレトリックによって提示されているので、むしろ読み手の俳句観/世界観の軛を開放してくれる、そういう明るさだ。さらに、それらは気負いなく、自然な形で着地しているように見える。こういう句が多くの俳人の心に刺さればいいなあ。俳人という人々は社会的認識において「鷹揚」または「長閑」な方が多いというのが私の印象なので、どこまで刺さるかは不明だけど。で、おいおい、それは筆者の偏見じゃないのか、とここでツッコミが入りますね、きっと。私の意見に首を捻られた方は今年の角川「俳句」3月号をご覧ください。有馬朗人氏の追悼特集。それがとりあえずの例証です。

2点目。個々の俳句の鑑賞は読み手各々にしていただくとして、『人類の午後』は句集として面白い。一つのパッケージされたものとして面白い。それを説明するのにこんな例えはどうだろう。むかしむか~しの人間はレコードをアルバムとして楽しみ、評価した。一曲一曲とは別に、アルバム全体の構成はどうか、それにアーティストも腐心したし、聞き手もそれを評価基準の一つとした、と言えば、むかしむか~しの人間なら多分理解してくれるだろう。跋によれば、前奏は「現代の日本人が非日常且つ無縁だと錯覚してゐる事象」を、後奏では「日常且つその平凡な延長線だと認識されてゐる事象」を詠んでいるとされている。前者を非日常詠、後者を日常詠と呼んでおこう。日常詠の後奏に、作者の地の(あるいは地と思われる)部分が顔を出している。観念派・言葉派・机上派の俳人は、自分をカモフラージュしたり、逆に演出したりする。作者はⅠ・Ⅱ・Ⅲ章の中でかなりそれを徹底して行っている。それでもやはりと言うか当然と言うか、作者の「人格・思考・価値観」はあらわれる。また、作者を俳人として育んだと推察される「澤」的な表現の句も句集全体を通して散見される。これもまさに作者の地の部分。……前置きとも何とも言えないものを長々と書いているのに気がついた。結論へ行こう。それは、この句集を句集として面白くしているのは、後奏の存在が大きいという事。レコードの話に戻るけれど、アルバムを締め括るラストの曲はとても重要だった。それとおんなじ役割を後奏が担っている。ここで作者は自分の地の部分、例えるなら背中の部分を晒している。人は多面的な存在だ。歴史的な民族大虐殺を知って戦慄し憤るのが私(いわば正面の部分)なら、カップの熱燗を持ってほろ酔いでふらつき歩いているのも同じ私(いわば背中の部分)だ。その多面性が統合されたものとして個人がある。作者が正字を用いている意図は作者自身に訊かなきゃわからないが、作者が提出している様々な側面がバラけぬように綴じ合わせる働きをしているように私には見える。あくまで私の印象だけど。後奏の話に戻ると、もし後奏が無かったなら本句集はその分だけ(実際は多分その分以上に)平板なものになったと思う。作者の正面の部分(前奏)に始まってぐるりと背中の部分(後奏)に回る、その方法によって、現代を生きる個としての作者の姿が立体的に起き上がって来るのを私は感じた。だから、一読した後で、私は頭の中でこう呟いていた、「これって(文芸じゃなくて)文学じゃない!?」と。


堀田季何第四詩歌集『人類の午後』2021年8月/邑書林

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