2020-08-23

大西泰世の句 安田中彦

大西泰世の句

安田中彦


札幌に「itak」(アイヌ語で「言葉」の意味)という俳句集団がある。私もときどき参加させていただいているが、去る7月の会では「川柳 昨日・今日」というタイトルで川柳作家の方の講演があった。講演の内容についてここで触れることはしないが、句を作るさいに、俳句と川柳の境界をたびたび意識する身としては興味深いお話だった。
 
川柳作家で私の頭にいちばんに名前が浮かぶのが大西泰世である。大西泰世の句について今回書こうと思う。

私は本棚のすぐ手の届く所に、他の辞典類とともに『季語秀句用字用例辞典』(齋藤愼爾・阿久根末忠編)を置いて愛用している。歳時記よりも季語をチェックするのに手軽だからだが、そうでないときでも、ときどき例句を眺めたりする。例句として芭蕉や蕪村といった江戸時代の俳人の句、虚子や飯田龍太の句もあれば、その一方で、西東三鬼や鈴木六林男の句もずいぶん採れられている。だから極めてバラエティに富んでいると言えるわけだが、一つのページに蕪村、一茶、虚子、山頭火、六林男、三鬼、誓子、耕衣、稲畑汀子、角川春樹、小澤實、鳴戸奈菜などなどが並んでいるのを見ると、戸惑いを感じざるを得ない。もちろん不快な戸惑いではない。

前置きが長くなった。上記の『辞典』にあるさまざまなタイプの句の中で、とりわけ私が異彩を放っていると感じるのが大西泰世の句である。彼女の句と比較すれば、西川徹郎の句も攝津幸彦の句も俳句の範疇にあることは歴然だ。きっと、十二分に俳句を経験した者には、身に備わった俳句的感覚の外で句を成すのが難しくなるのだろう。あるいは、この二人に限らず、その句がいかに奇異で逸脱的に見えようとも、あくまで俳句内世界における異端に留まろうという意識が働いているのかもしれない。

大西泰世の句が他の例句と何が違うかと言えば、言葉の繰り出し方が違う。あとになって彼女が川柳の作家だと知って私は納得したのだが、言葉の繰り出し方の違いはこの出自の違いによるのだろうと思う。そのあたりをもう少し具体的に言うと、言葉の凝縮度が低い(俳句としては言葉のつながり方がゆるい)、季語を使っていても(俳句的に見ると)それが有効に働いていない、ということになる。しかし俳句的基準で見れば欠点となるものの、それを俳句と考えなければ、要は一行で書かれた詩として考えれば、その欠点は欠点でなくなる。

では、具体的に句を揚げてみる。
 
わが死後の植物図鑑きっと雨  大西泰世(以下同)

如月にうつくしく死ぬ生殖器

形而上の象はときどき水を飲む

『辞典』に挙げられている句から三句。「わが死後」の句にあるのはまさに青春の感傷。十代の頃を振り返ったとき、すでに自分は老いたと感じたり、自分の死んだあとも世界は変わらず存在を続けることの不思議に打たれたりはしなかっただろうか。そのような感覚を思い起こしたときに私はこの句を了解できた。「如月に」の句では、如月=仲春という自然における生の横溢、生殖器=性という人間の生の横溢が表現され、その絶頂のときに死にたいという美意識が提示される。それも「如月にうつくしく死ぬ」といううつくしい表現に、「生殖器」という全く身も蓋もない語の取り合わせによって。「形而上の」の句は、「上(じょう)」との語呂合わせで「象(ぞう)」を配したのではないかと私は想像するのだが、それはともかく、形而上と形而下(水を飲む)とが対比されているのはわかりやすい。ただし「形而上の象」というのはわからない。もしかすると何かからの引用なのかもしれないが、それがどんな象のありようなのかと夢想してみるのは楽しい。

『大西泰世句集』(砂子屋書房)に収録されている三つの句集それぞれから、私の好きな句を一つずつ取り上げる(そうは言っても魅力的な句が多いので、一句だけ選び出すのは難しいのだが)。

火柱の中にわたしの駅がある  『椿事』

まるでCMのコピーか、演歌の一節のように、完璧な表現を得た一句(もちろん揶揄しているわけではない)。CMや演歌ではここまで激しい内容にはならないけれど、それでも近いものを感じるのは、その激しさゆえに、この愛がフィクションであり絵空事に思えるからだ。しかしながらそこには作者の激烈な願望が燃えている。駅とは通過地点である。ある駅で火柱を燃え上がらせたとしてもそこにずっと留まるわけではない。次の駅、さらに次の駅へと疾駆して、そのたびに火柱を上げるのだろう。

対峙してからは淋しい丘になる 『世紀末の小町』

淋しい丘とは何か。女性の肉体の暗喩であり、作者自身のことだろう。火柱のように燃え上がった愛も、さして間をおかずに対峙する関係を迎えるのは必定だ。なぜなら、強い自意識や自己愛に囚われとなっている愛だからだ。女のまなざしが対峙する男よりも、愛されぬ「淋しい丘」となった自分自身へと向けられるのはそれゆえである。

一匹の鶴を折るたび手を洗う  『こいびとになってくださいますか』

鶴の折るのは、慰霊のためであったり、誰かの病気快癒のためであったり、つまりは善意の行為である。しかし作者はそこに偽善の気配を感じる。そしてそれに我慢がならない。そのため自分が穢れたと感じる。あるいは偽善的善人としてある自分自身に我慢ができない。なぜなら自分が善人でないことをよく知っているから。善人ではないという純粋性を保とうとする奇妙な潔癖さ。何という屈折だろう。


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