【週俳10月の俳句を読む】
俳句の調子
田邉大学
趣味で、パワーリフティングをやっているのだが、関節や筋肉の調子があまりよくないときに、意外と普段より重い重量が挙がるときがある。俳句にも少し似たようなものがあって、あまり良い句が作れない、俳句の調子が悪い、と感じているときに、ふと、とても満足のできる良い句を作れるときがある。どちらもこつこつ毎日取り組んでいればこそ、このような思いがけない報酬があるのだと思う。
夜寒なり手をつけて大学の門 郡司和斗
大学の重厚な門には、他の門にはない安心感がある。煉瓦造りだったり、大学名があしらわれた銅板も緑青で覆われていたりして荘厳だ。季節の移ろいの中で、夜寒を実感することは多々あるが、これが夜寒だ、と強い確信を持つことは珍しいと思う。この句は「夜寒なり」と強い言い切りを用いているが、大学の門はそれらの言い切りを十分に受け止められるスケールを持っているように思う。
彫刻を映して汝(なれ)の眼のしづか 同上
誰かと美術館にでも来たのだろうか。彫刻そのものも静かであるが、それを見る相手の眼も静か、というのが面白い。句の中では描かれていないが、それを見つめる作中主体自身もどこか静謐さを湛えていて、彫刻と汝を邪魔しない。三者の静けさがそれぞれ少しずつ見えているが、しつこくない、美しい句だと感じた。
壁越しの嘔吐の声や秋の草 同上
全体のフレーズから読み取れるのは、俗な景だが、生の実感のようなものも確かに湧いてくる。秋の草が、春の草や夏の草にはない、生命としてのしぶとさ、経験してきたことの多さを感じさせる。嘔吐の声の主や、それを壁越しに聞いている主体も、同様に様々なことを経験して、ここにいる。シンプルだが、考えさせられた句。
目薬の眼より零るる赤蜻蛉 同上
眼の縁から流れていく目薬、その目薬で十分に水分を帯びて艶やかな眼球、赤蜻蛉が少し脈絡無く感じられるが、取り合わせとしてとても面白い。赤蜻蛉の群が、目薬を指すために上を向いた眼に、さっと映り込む、そういった様子まで想起させ、ミクロな視点の句。
秋の初霜を蛇行の兄と姉 同上
秋の初霜の降りるころの道や芝生などを想定し、兄と姉の二人がはしゃぎつつ霜の様子を眺めたり、触ったりしている様子を想像した。筆者も三人兄弟なのだが、意外と末っ子のほうが落ち着いていたりする。末っ子視点で見た兄と姉か、はたまた親の視点かはわからないが、年上二人がはしゃいで年下が穏やかなのは面白い。季節は冬へと向かっていくが、多分この兄弟は、一年を通してこんな感じ。
孤独の島みたいに浮かんでる水蜜桃 桂凜火
桃という果実の不思議さを言い留めていると思う。上五の字余り、切字を用いないことで、ふと思い付いた呟きのような雰囲気が演出される。水の上に浮かびつつも、表面の細やかな毛が水を弾く感じが、孤独さを裏付けているのではないか。
水っぽい午後のテラスや色鳥来 同上
午後の陽光がテラスの地面に当たって揺蕩う様子、周囲の樹の影などが穏やかに映り込む様子は、確かに水辺や水の中を連想させる。山や森に近い喫茶店をイメージした。色鳥も句のフレーズを邪魔することなく、うまく溶け込んでいて、どことなく安心感や懐かしさを覚える光景。
ぬすびとはぎいにしえびとの身軽さよ 同上
現代では、物を持ち歩くことが多くなったように思う。旅行に行くとなれば、スーツケースに衣服や日用品を詰めるし、少し出掛けるのにも携帯や財布、ハンカチなどを持ち歩く。交通の手段が徒歩か馬くらいしかなかった昔であれば、この句のように身軽だっただろう。盗人萩の不思議な形がよく響き合うし、昔の人の身軽な衣服に盗人萩の実がいくつも付いているかもしれない、そういったことまで想像が広がる。
くたばるとき盛装でゆくよ酔芙蓉 同上
「くたばる」の表現、「ゆくよ」の口語から作中主体との関係性が見えてくる。牡丹や百合ほど派手ではないが、かといって落ち着いた花でもない、酔芙蓉が丁度良い華やかさを句に与えていて、「くたばる」ともよく響き合う。
蜩や誰も笑ってはいない 田中泥炭
蜩の物悲しい声、笑っているように思えても、誰も笑ってはいない、淋しすぎる光景に思えるが、案外、これが日常生活の中に潜む真実であるような気もした。表面上は仲良くしているように思えても、実は心の中で嫌悪感を抱いていたり、さして面白くもないのに愛想笑いをしていたり、人間世界のドロドロした部分の悲しさがより引き立っていると思う。
狼の屍を分ける人だかり 同上
解剖か、狩りの後かはわからないが、すこし恐い句、それでいてリアルな空間が描かれている。誰も狼の屍体を積極的に見たくて群れているわけではないが、全く興味がないわけでもなく、見ないわけにはいかない。狼という季語だからこそ出せる、句全体の雰囲気、独特の世界観が魅力的だった。
凍凪や心拍を肺迫り上る 同上
風がなく、静かで寒い空気の中だと、自分の身体の中の感覚が研ぎ澄まされる。心臓と肺、生命の維持に欠かせない二つの臓器を関連付けて描くことで、自分以外に息づく生命のない凍凪の厳しさがよりいっそう強調される。お互いがお互いを補い合い、支え合うような、季語とフレーズの作り。
白昼の植民地より黒蝶来 同上
白昼と、植民地と、黒蝶、それぞれの名詞が互いに影響を及ぼしあって、それぞれを引き立てる、そんな句であると思う。植民地と黒い蝶の取り合わせが、植民地の置かれた厳しい状況やこれまでの歴史などに想像を及ばせ、白昼の白と黒蝶の黒が、それらを裏から補強するように後から遅れて現れる、読んでいてそんな印象を受けた。
花梨の実鞄の闇の甘くなる 藤原暢子
花梨の実が甘くなるのは単純だが、鞄の闇が甘くなるのは意外性があって、それぞれの落差が面白い。闇が甘くなる、という表現は少々難解な気もするが、辛くなったり、苦くなったのでは納得がいかない。甘いという言葉の持つ独特の感性が、鞄の中の薄暗い闇に丁度良い。「花梨の実」「鞄の実」で韻を踏んでいることも、句の不思議な世界観を醸し出すのに一役買っている。
毬栗のたくさん当たる石仏 同上
棘のある毬栗が、硬い石仏にいくつも当たる、言うまでもなく石仏に感情はないが、穏やかな表情であるはずの仏像が、だんだん無愛想で不機嫌にも見えてきてコメディチック。句の中の時間経過も、石仏の感情の動きまで想像させる余白を引き出していて楽しい。
仰向けを空へ見せれば小鳥来る 同上
実際は、自分が仰向けになっただけで、小鳥も多分少し前から渡って来ているのだろうが、空側の視点に立って描くことで、より気持ち良さが増す。秋の、爽快で楽しい気分が伝わってくる。
爽籟や伐り出されては薫る木々 同上
「伐り出されては」が面白い。何本もの木が、伐られては運ばれていくが、その度に匂いを残していく。「爽籟や」で、切れてはいるが、作中主体は何度も何度も爽籟を感じているだろう。読者としても繰り返して何度か読みたくなる句。
コスモスを揺らせる息のいつか風 同上
吐息の小さな空気の流れがやがて大きな風になる、という把握が新鮮である。普段何気なく起こしている空気の流れ、本のページを捲ったときや、服を勢いよく脱いだとき、机の埃を払ったとき、などの流れも、降った雨が川になり、やがて大きな海に繋がるように、いつか大きな風になる、スケールのある句だと思う。コスモスが息で揺れるほど、顔と近い位置にあることも、映像として面白い。
【対象作品】
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