ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート
〔2〕外山一機によるイントロ
中矢温◆では外山さんよろしくお願いいたします。
外山一機◆はい、よろしくお願いします。20分くらいお話します。中矢さんの方から先ほど念腹についてやその周辺について、いろいろ説明があったかと思います。私がそこらへんを補強するような感じでもう少し話そうかなと思います。先ほど増田恒河の動画が出てくるとは思わなくてびっくりしました。 haicaisitaたちが句会をしている様子は初めて動画で見ました。それでなんというか、対抗するではないんですが、自己紹介がてら私が普段どういうものをネットで見てるかっていうのを紹介しようと思います。
私がコロナのステイホーム中に何をしていたかというと、アラン・ナカガワという人の作品をずっと聞いていたんですね。この人はアメリカのLAの人で、俳句をやっている人ではまったくないんですが、haikuを地域の人に募集してサウンドコラージュを作ったという人です。すべて歌詞が出ているのでよかったら聞いてみてください。先ほど紹介のあったように、haicaistaたちの俳句は独特じゃないですか。そういうところに興味があってですね。最近だとこういうニッチなのを集めています。
では本題にまいります。佐藤念腹以前にhaicaiの系譜があって、それが増田恒河のところで佐藤念腹の系譜と最終的に繋がっていくので、ブラジルでのhaicaiの発生から簡単に説明していきます。haicaiというのは先ほどもありましたけど1919年にペイショットという人の『Trovas Populares Brasileiras』(ブラジルの民謡)という本がありまして、その中でhaicai(haikai)を紹介してるんですね。そこで、haicaiはいわゆる抒情諷詠詩で、三行詩で、515の17のシラブルだと言ってるんですよ。ペイショットがブラジルに俳句を紹介した、といわれることがあるのはこういうことをふまえているんですね。ただ、ペイショットは日本語から直に俳句をポルトガル語に訳したわけではなくて、クーシューによるフランス語の訳をはさんでいる。要は、「ジャポニスム」といわれたヨーロッパでの日本への関心の高まりを受け、一旦ヨーロッパを経由してブラジルに入ってきたわけです。ただし、ペイショットより少し前の19世紀末に、アルメイダが日本を紹介する中ですでに俳句・俳諧を紹介してるんだと指摘する人もいます。あるいはモライスのように(これはブラジルではなくポルトガルの方で流通したんですが)一応日本語から直で訳している例もあるんです。このあたりがhaicaiの系譜の発生にあたるところです。
少し余談になりますが、ヨーロッパには、クーシューを経由して俳句を知るパターンとチェンバレンを経由して知るパターンというのがあります。ヨーロッパのhaicai、haikuを調べていると、チェンバレン、クーシューという名をよく目にするんですね。チェンバレンはかなり早い段階で日本の芭蕉を中心に紹介した人として知られています。一方クーシューはチェンバレンより後になります。具体的には、子規たちが「蕪村句集講義」を「ホトトギス」でやっていましたけれども、それが終わったちょうど20世紀頭ぐらいに、クーシューが日本に来ました。そのときに日本では蕪村の再評価の流れがあったわけです。それをクーシューはヨーロッパに持ち帰っていくわけです。そこからさきほどのペイショットにつながっていく。その流れを考えるとブラジルの俳諧は蕪村系といえば蕪村系なわけです。でも先ほどの増田恒河の動画でやたらと芭蕉の話が出ていたように、ブラジルで芭蕉が軽視されているかというとそんなこともなくて、そこらへんが少し複雑です。それについては後で話します。
haicaiの系譜についてもう少し話します。これは増田恒河さんが書いていたことですけども、まず禅と結びつけて理解しているということが大きい(仏頂和尚と芭蕉の関係、鈴木大拙の著作などを介した理解)。ここのところで芭蕉とのつながりも見えてくる。次に、短詩として理解しているということ。先ほどの動画で3行で俳句が書かれていましたけれども、それだけじゃなくて、例えばアルメイダは、韻をどこで踏むべきなのかというあたりもかなり厳密に考えていたということがあります。(※アルメイダは上五と下五の末尾で同じ韻を踏み、中七の第二音節と最後の音節は同じ韻を踏まなければならない、とした。)この他に、季語を重視する詩、という仕方で理解している場合もあります。季語を重視するかしないかという議論ついては、増田恒河さんの功績が少なからずあると思います。
haicaiの歴史的なことを言いますと、まず1920年代に、あまり知られてないですけどモデルニスモというモタニズム運動がブラジルでありました。外の色々なものをどんどん取り入れていこうという、アーティストたちの意欲が掻き立てられていくような運動があったんですね。大きく見ると、俳句もその流れの中で取り入れられていった。モデルニスモはあくまでアーティストの側の動きなんですけれど、これをより文芸に寄せて見ていくと、ペイショットなどをはじめとする俳句のブラジル化、haicaiを作っていこうじゃないかという動きが見えてくる。その後発表された33年のシケイラ・ジュニオルの「HAIKAIS」、これが1番早めのhaicaiの本だと思います。さらに40年には、フォンセッカ・ジュニオルが日本に来て虚子と会っています。季語重視の詩としてのhaicaiという考え方は、この虚子との対面を通じてフォンセッカの中で高まっていった。季語を重視するという理解の仕方は、例えばこういう流れの中にあるわけです。そして、第二次世界大戦中、日本語の使用制限や日伯で国交断絶などががあってもhaicaistaたちは細々と活動を続けていました。
ちなみに最近の作品としてはコンクリート・ポエトリーというものもあります。haicaiというものはアーティストたちにすごく吸収される。なんだか興味あるみたいです。ナニコレ?というものと俳句のつながりは意外とある。
では次に、「日系移民の俳句」という、ブラジルの俳句のもう一つの路線について話します。ブラジルにはhaicaiだけじゃなくって移民の俳句もあるわけですよね。もちろん佐藤念腹はこっちのケースに入るわけです。私なりの理解ですけども、日系移民の俳句については念腹に重きを置きすぎると見えなくなってしまうものがすごくたくさんあるという気がしています。私見ですが、ブラジル日系移民の俳句は、初期移民の俳句、木村圭石系、佐藤念腹系、その他の4つに大きく分類できるだろうと思っています。まずは初期移民の俳句です。念腹がブラジルに来るのは1927年ですが、ブラジル移民というのはその20年近くも前から始まっていたわけです。念腹が来るよりも前にすでに俳句はあったのに、今はそこのところがあまり顧みられていないというか、なんか軽視されちゃってる感じがします。例えばこういう句があります。1924年ですので、これは念腹の渡伯より前ですね。その年の日伯新聞の俳句欄に掲載されたトランスヴァル俳句會の作品です。トランスヴァル俳句會の句会はブラジルで行なわれた句会としてはかなり早いものになります。その中に「徒々に犬と戯る春の猫」なんてのがあります。正直言ってナニコレというような感じです。あまりレベル高くないんじゃないのという気がします。ほかには「東風吹くや日毎にぬるむ水の脚」というものがあったり、一応題詠にはなっているんですけど、その題に「日永」と「猫」が並んでいたり、彼らの季語の理解は大丈夫だろうかと見ていて不安になります。
1910~30年代のブラジルの日本語新聞・雑誌の文芸欄に着いては半沢紀子さんがまとめ等れています(「戦前期ブラジル・サンパウロ州ノロエステ地方と日本語新聞 ―香山六郎と聖州新報―」)。ここで気になるのは、念腹が「聖州新報」の選者になっている1933年です。先ほど中矢さんがすごく重要だと仰っていた年ですが、私もすごく重要だと思ってます。なぜかと言うとこの1933年に選者になって、念腹はたった2年後に、クビか自らかはわかりませんが、とにかく選者を辞めちゃっているんですよね。一体何が起きてたのか。「聖州新報」は香山六郎さんが作った日本語新聞です。香山さんは初期移民かつ知識人で自由渡航者です。ある程度自分のお金もあるし(※中矢注:渡航費用の援助などが不要だった)、何よりインテリ層です。念腹はこの香山さんと対立してしまうんですね。なぜかいうと、初期移民は自分たちの好きなように俳句を作っていたんです。「ホトトギス」で提唱されているような俳句を守るとかではなくて、もうちょっと自由な形で作っていた。一方の念腹は虚子の考えに基づいて厳密に行こうとしますから、そこで対立します。こうして35年で念腹は降りて、俳句欄もなくなるんですが、さらに2年後の37年には俳句欄が復活しているんですね。ただし「三水会便り」というものを掲載する形になっている。「聖州新報」と「三水会」という俳句グループとの関わりが出てきていることがわかります。この三水会で香山さんは素骨という名で活動しています。三水会についてはあとで触れますが、知識人の集まりのようなところがあって、念腹は三水会に誘われたんですけれども断ったりもしてます。そのような対立の中に念腹はあった。念腹はブラジル俳壇のヒーローではなくて、初期移民のインテリ層から見れば「新参者の超できるやつ」だった。それが私のイメージです。
次に木村圭石系について説明します。まず圭石とは何者か。彼は「ホトトギス」で念腹と一緒に仲良くやっていて、念腹の結婚の媒酌人まで務めた人です。歳は念腹より約30歳上です。1927年に、圭石は念腹との関係やブラジルに移る前後の念腹の位置がすごくよくわかる文章を書いてます。学生時代から私の大好きな本である「虚子消息」に載っています。「虚子消息」とは「ホトトギス」の消息欄だけを集めた本です。虚子は圭石から手紙を受け取ったとき、ここに載せている。「…唯先生から素十氏に御話ありたる御言葉に励まされ、先輩念腹氏も続て来航せられ、所謂俳句の国を彼地に建設すべき希望にのみ生きて、余生を送り度思ふのみです。…」とある。面白い点は二つあります。まず「畑打つて俳諧国を拓くべし」(虚子)に象徴されるような「俳句の国を彼地に建設すべき」という考えが、念腹と虚子の間だけではなく、圭石も含めたもう少し広いコミュニティにおいて共有されていたということ。もう一つは、歳は自分の方が30歳も上なのに、「先輩念腹氏」と言っているところです。てっきり念腹の方が年上かと思ったら全然そんなことはない。ここからもいかに念腹が「ホトトギス」の中で有力な人間と思われていたかがよくわかる。この圭石は渡伯後の1931年に「おかぼ」、37年頃に「南十字星」を創刊しています。「南十字星」は三水会系の雑誌です。三水会は市毛孝三というサンパウロの領事館のトップの人が主導して、圭石が選者となっていた。この三水会に念腹は入ってこない。先ほどあったように「ホトトギス」以外のメンバーが入ってくることに納得がいかない。ただ私の考えでは市毛孝三や木村圭石がアンチ「ホトトギス」だったのではなくて、明治時代の知識人にありがちな、さまざまな文学形式をどんどん取り入れて幅広く自分を表現していくのが当たり前、という考えのもと、三水会というグループを作ってみんなでやっていこうよという感覚だったんだと思います。ただ念腹はそこが気に入らなかった。そこに念腹という「新人」における、俳句に対するスタンスの新しさがちょっと見える気がします。ちなみに39年の『圭石句集』が私が知る限りでは移民の人が作った句集としては最初のものになります。でも圭石自身は38年で亡くなっちゃうんですね。
次に念腹系について。先ほど中矢さんのほうでだいぶ触れられたのでここでは念腹らしさがよくわかるものを軽くご紹介します。念腹は1937年に「ブラジルは世界の田舎むかご飯」を含む4句で「ホトトギス」巻頭をとるんですが、雑詠句評会で素十が「念腹君が巻頭を占めたとあつては一言挨拶せねばなるまい。どの句も立派な句であつて念腹君の俳諧を祝福した訳であるが、この句なども誠に面白い。…とに角私はかういふ念腹の旺んなる心意気を尊敬して衷心から君の健闘を祈る次第だ。」とあります。これは当時の念腹のいたコミュニティの雰囲気がよく分かる一文だと思います。念腹が 「ホトトギス」同人となったのが1930年で、その前に巻頭を取ったりとかしてるわけですね。その時代って昭和の初期で、4Sとか言われている人たちが同列で雑詠に並んで、有名な作品がどんどん生まれてる時期なんですよ。素十は念腹より5歳か6歳くらい上ですから、念腹にしてみれば教えを請うみたいなところがあるんですけど、素十からすれば一緒に雑詠欄をしている仲間なわけです。でそんな期待できる自分より若い「念腹君」がブラジルでがんばっていると。でそれを応援せねばなるまいという素十。素十はこれから念腹に様々なバックアップをしていくわけなんですけど、彼らの関係が非常によくわかる一文です。圭石からは「先輩」と呼ばれて素十から「念腹君」呼ばれてですね、「巻頭を占めたとあつては一言挨拶せねばなるまい。」というそういう同期のよしみみたいなフレーズが出てきちゃう。念腹がどんな人だったかよくわかります。
その他の日系移民の俳句としては「曲水」系があります。渡辺水巴の「曲水」にもともと投句していた、渡辺南仙子という人がいます。力行会を通じて1928年に渡伯し、49年に創刊した「青空」は、「木蔭」という念腹の作ったすごく大きな「ホトトギス」系のグループに対抗できるほぼ唯一の雑誌といわれていました。63年に創刊した「同素体」は2011年になくなりました。
あともう一点、スライドには入れられなかったのですが、日系社会には臣道連盟を中心とした勝ち組と負け組の対立がありまして、その中で様々な雑誌がつくられ、そこに載った俳句というのがあります。少しだけお見せします。私が20代前半に何をしていたかというと、こういう雑誌に載っていた俳句をひたすらエクセルに打ち込んでいたんです。臣道連盟は日本が負けたことを認めない1940年代半ばにあったグループで、テロリスト集団としても有名です。その機関誌の「輝号」だったり、その前は「光輝」といった雑誌でも俳句が作られていました。ここに載っていた俳句は、たとえば、「白南風や金魚の鉢の藻の緑り」、「昼静か金魚の鉢の一つあり」とか、およそテロリスト集団とは思えない普通の句が並んでいます。しかしこれは当たり前のことです。これは、日系移民のことを調べるとよくあるパターンなんですけども、調べてもたいして面白いことがでて来ないってことがよくあります。なぜかというと、いかにも「日本らしいこと」を好むのが日系移民だからです。ましてやめっちゃ右寄りの臣道連盟の俳句がなんかすごく自由律になっているとか、戦後の「海程」のように最新のテクニックを使ってるとか、そんなことはあり得ない。もっともっと保守的なものを好むわけです。初期移民がブラジルにやってきたとき、とりあえず不格好ながら俳句を作ってみたという感覚に近いものですね。そういった俳句に対する感覚が時代を経て敗戦後にはこういう形で出てきたわけです。
私の話はこの辺で終わりにします。まとめると、様々な俳句のありかたがブラジルにはあったと。大きくわけて言うとhaicaiと移民の俳句というのがあり、移民の俳句は初期移民に始まり、先に木村圭石が来て、その後にすごいエースとしてやってきた念腹が場を制圧していく。念腹としては圭石が亡くなったってこともちょっとラッキーだったんじゃないかなと思います。そういう流れの中で念腹は政治的には勝ち上がっていくわけです。そして念腹の周りに衛星誌が様々にできて、それに勝てるものってなかなかいなかったというのが実際のところかなと思います。そこには、俳句形式という「日本らしい」ものに思いをぶつけたいという移民達の気持ちもあったんだろうと思ったりもします。はい、私からは以上です。ありがとうございました。
中矢温◆はい、ありがとうございました。めちゃめちゃ面白かったです。なるほどなと思いました。私が今回資料を作る上で参考にさせていただいたのが、この今年出された『畑打って俳諧国を拓くべし-佐藤念腹評伝-』でした。著者は新潟にある結社「雪」の主宰の蒲原宏さんです。念腹とも句友でして、まあ蒲原さんの方が年下です。蒲原さんは1923年生まれで、ご職業はお医者さんです。 高浜虚子、中田みづほ、髙野素十、浜口今夜に師事していて、「ホトトギス」、「まはぎ」、「芹」に投句されていたそうです。で、私が何がいいたいかというと、この本は大変豊富な内容ですが、あくまでも念腹の味方として、念腹に寄り添った本であるということです。念腹の死後誰も本を出さないから僕が書くしかないと思って書いたというような温かく、同時に少し残念そうなお言葉が冒頭に書かれています。つまりこの本を読むだけでは念腹の外からの視点や評価は知り得なかったと思います。そういった意味でも外山さんの講演は大変ありがたかったです。どうもありがとうございました。
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