ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート
〔1〕中矢温によるイントロ
ブラジル移民・佐藤念腹の視点から、「ホトトギス」の信念がいかにしてブラジル俳壇に普及し、また同時に反発を受けたかという歴史の理解を試みた。
前半は中矢と外山一機氏によるイントロダクションを行った。後半の読書会では、参加者それぞれの五句選を基に鑑賞を深めた。
●佐藤念腹(さとう・ねんぷく)本名・謙二郎。明治31(1898)年に新潟県生れ。大正2(1913)年より「ホトトギス」に投句開始。昭和2(1927)年ブラジルに渡る。昭和54(1979)年に永眠(80歳)。
●読書会テキスト:佐藤念腹『念腹句集』1953(昭和28年/暮しの手帳社)より中矢温が百句抄出
●参考文献:細川周平『遠きにありてつくるもの 日系ブラジル人の思い・ことば・芸能』(2008/みすず書房)栗原章子『俳句&ハイカイ~自然探訪~ HAIKU&HAICAI Descobrindo a Natureza』(2014)蒲原宏『畑打って俳諧国を拓くべし-佐藤念腹評伝-』(2020/大創パブリック)
●2020年10月31日(土)13時~17時 俳人による佐藤念腹読書会をzoomにて開催。
●参加者:生駒大祐、岡田一実、小川楓子、樫本由貴、木塚夏水、ぐりえぶらん、黒岩徳将、西生ゆかり、外山一機、中矢温、三世川浩司、ゆう鈴(五十音順・敬称略)
中矢温◆初めに挨拶がてら、この読書会に至った経緯をお話します。私は現在学部3年生なのですが、そもそもブラジルという地域を専攻するというところも入学直前に決まりまして、何かビジョンがあったわけではありませんでした。そうなんですけれど1年生の2月に大学主催の1ヶ月の短期留学でリオデジャネイロを訪れました。リオデジャネイロはサンパウロより日本人移民の数は少ないのですが、ICBJ(日伯文化協会)という日本の文化センターとコンタクトを取ることができました。そこを訪れたときに、ブラジルと俳句のアウフヘーベンの先にブラジルでの俳句っていうのがあるのかなと意識しました。
あとはそこで出会ったペドロくんという友達が、去年の夏に日本を本当に縦断・横断するような長い旅を日本で一か月以上しました。そのときに東京で句会をしようとなって、外山一機さんに来ていただいたりだとか、あと私が東京にいないときにもう1回句会をした際に西生ゆかりさんが主催してくださったりとか、ペドロ君が松山に訪れた時には岡田一実さんが案内してくださったりとか。日本とブラジルの俳句というのをぼんやりとずっと考えていました。今年大学でゼミの方に入って12,000字ぐらいでゼミ論(プレ卒論)も書かなきゃいけない時に、なんかこう自分だけで考えて書くよりも、皆さんに読んでもらって一緒に考えていただけたら私も嬉しいし、ブラジルの俳句の紹介にもなるのかなというふうに考えて、今回企画したというところです。資料を探す中でサイニーで外山さんの文章(※児島豊 氏著:「勝ち組」雑誌にみるブラジル日系俳句--日本力行会資料調査から--)を見つけたりしてこれは外山さんにお話いただいたり、お誘いもしようというところなども思いついて、こんな形の読書会となりました。
はい、では早速ではありますが私の方からお話をさせていただこうと思います。画面共有します。私の作った年譜を見ながら、30分ぐらいに収めたいんですがお話の方をしたいと思います。
(※以下の大部分は蒲原宏氏著『畑打って俳諧国を拓くべし-佐藤念腹評伝-』(2020・大創パブリック)に拠る)
念腹は1898年に新潟県北蒲原郡笹岡村で生まれました。次男として生まれたんですが長男が早世しているためほぼ実質長男のような形で育ちました。で、突然さしはさみますが、1908年に神戸港より笠戸丸が出航して、日本人が初めてブラジルに移住した年になります。移住の経緯としてはそもそもブラジルに移民する前に例えばアメリカだったりとかカナダだったりハワイだったり移民の形があったんですけど1924年にいわゆる排日移民法っていうものが発令されてアメリカへの移民ができなくなったっていうところで次の場所としてブラジルが考えられました。なんで排日移民法が起きたのかっていうところはちょっとあの私も十分に調べきれてはいないんですが、だんだんと現地で日本人移住者が増えてくることによる、侵略ではないですけど黄禍という、黄色は肌の色のこと言ってるんだと思うんですけどそういうのもあったりして。それでも日本の中では例えば土地を相続しない農家の次男三男や、都市の失業者対策としての出稼ぎっていうものが考えられたりして。日本からの移民の需要はあって、でも行き先がないところで次はブラジルというところを国を挙げて注目するようになりました。
念腹は15歳の時(1913年)に尋常高等学校を卒業してそのまま家業を継ぎます。ここでは「稼業の傍ら」と書いてるんですが傍らどころじゃなく本当に俳句ばかりをしていると言うか、文学青年でありました。実家は海産物商だったようです。この頃から「ホトトギス」に投句し始めて俳号も自分で名付けたもののようです。21年に初入選します。
22年に中田みづほという、今でいう東大医学部で、東大俳句会の主要メンバーであったみづほが新潟の医科大学に赴任してきました。そのことを念腹は「ホトトギス」の名前のところに「新潟 みづほ」って書いてあるを見て知りました。そして封筒の宛名に「新潟市俳人醫學士 みづほ様」とだけ書いて、この時は郵便局員が頑張ったのかわかんないんですけど、無事みづほに手紙が届いて面会を果たし、師事することになります。みづほはこの時医学部の方の仕事が忙しかったのもあるし、東京から離れちゃったというところもあって俳句に対しての情熱もちょっと落ちていたんですが、念腹からの熱い手紙があったりして、24年に二人で虚子を招いて、虚子が来越、越後を訪れることになります。その際に句会に「眞萩会」と命名してもらいます。
ちょうどこの年の12月からみづほはドイツ留学に出かけてしまいます。で、26年にはキヨ、確か5歳年下ですね、と結婚して、この年にちょっとまた新しい登場人物なんですけど、「ホトトギス」の木村圭石が渡伯(※ブラジルに渡ること。)します。木村圭石も新潟の人なんですけど、歳は念腹より31歳年上で、「ホトトギス」に投句を始めたのは念腹より後という。歳としては念腹より年長の先輩なんですけど、俳句では念腹の方が先輩っていうお互い尊敬し合うような間柄だったということが書かれていました。
圭石の渡伯理由というのはちょっと本によって異なっていて、例えば歳をとってから日本に迷惑をかけることを心苦しく思って渡伯したともあるし、勤務先の新潟水力電気会社が合併のときに人員整理、リストラを行ったから困窮により渡伯したともあってそこは色々なんですけど。圭石はこのとき虚子に手紙を残していて、文化や風土の違いを心配していることを書いていたり、成功は望まないけど後生のために役立てたらなというようなことを書いたり、で出発します。どちらの理由が本当とかではなく、両方少しずつ真実なのかなとか。
翌年27年に念腹も渡伯を決意します。念腹の渡伯の裏には家業の失敗と言うか、 念腹の父も俳句が好きだったりまた商売下手だったりしたんですけどそれに加えて父親の要作が政治活動を始めて、選挙に出ては落ちてというところで、 選挙費用などもかさんで念腹は家を手伝うよりも、東京にしばしば上京して「ホトトギス」の出版所で雑用をしたりするの方が楽しいしというところで、ちょっと家の傾きっていうのがあったそうです。後は弟の彰吾というのがいるんですが彼がブラジル移民の講演会みたいな、「みんなも移民しよう。」というような成功者講演会のようなものに出席したことで触発されて「我が家も行こう。」ということを持ちかけたというのは結構大きな要因としてあるようです。念腹の渡伯はお父さんとお母さんと妻のキヨと後は妹と弟とを連れて、一人だけ弟は新潟に残して出発しました。
横浜港から出港だったのでその直前には東大俳句会の、多分今の東大俳句会とは違うんですけど、秋櫻子とか素十とかと一緒に句会をしてから渡伯したようです。年譜の渡伯が3から6月となっているのは、当時の船旅だとこれぐらい時間がかかったというところですね。 なんですけどさっき念腹一家に渡伯を持ちかけた彰吾が、ブラジル到着直後の列車事故で死んでしまうんですよね。彼はその働き手という意味もあったし、実の弟でもあったんですけど、農学校を卒業したてで、これからブラジルで農業するっていう意味ではとそういった農業の知識としても念腹たちにとって重要な人でした。そのまま一家は埋葬を済ませ、1年前に渡っていた圭石を頼って彼の近くのアリアンサというところに入植するんですが(※圭石は第1アリアンサ、念腹は第2アリアンサ)、「おかぼ会」を作っていてそこで句会をともにしました。「おかぼ」は陸稲のことですね。 念腹と圭石そろって、「ホトトギス」と新潟の「まはぎ」への投句を続けました。
で、念腹は28年の3月号に初めて巻頭を飾ります。この句は後半の選評会の方で年腹句集の方に掲載があるのでそこで紹介するんですが、ここでなんかちょっといいなと思った話があります。みづほがドイツ留学してる間に念腹は渡伯を決めて行くことになってしまったわけなんですけど、みづほが初めて巻頭をとったのもドイツ留学中で、なんかその時の手紙に「次は君の番だ、海外から肱を伸ばして、ぎゅっと巻頭を握る気持は何とも云へないよ」っていうのをもらっていたんですけど、それを自分もブラジルという地で初めて巻頭をとってという。みづほはドイツから、念腹はブラジルから初めてお互い巻頭をとった。念腹はみづほが言ってたこの「肘を伸ばして肱を伸ばして、ぎゅっと巻頭を握る」という感覚がすごく分かったっていうのを嬉しく手紙に書いています。30年に「ホトトギス」同人となって、31年に「おかぼ会」から離脱します。これは後の37年のところで話そうと思います。
で、突然年譜の33年のところに上塚瓢骨(※瓢骨は俳号で本名は周平)という名前があるんですが、彼について説明しようと思います。最初の日本人移民はブラジルで奴隷解放令があったことでコーヒーの摘み手がいなくなったというところを労働力を補充したいっていう話でヨーロッパからの移民もしていたんですけど、奴隷として扱われるっていうところからヨーロッパ諸国はそのブラジルへの移民っていうのすごく危惧し、禁止していました。そこで日本から試験的に移民が渡ったんですけど、その年はちょうどコーヒーも不作だし、船が着くのも遅れてほとんど摘めないから収入もあげられないし、ブラジルに行ったらこんなに稼げるという宣伝文句は嘘だったのかっていう移民による暴動もあったり、 現地で病気にかかったりっていうところで、ほとんどの移民がコーヒー農園から逃げ出してしまいました。それは1908年とかの話で、27年に渡伯した念腹はそういう契約移民ではなくて、わたる前に日本から土地を買ってから渡っていて、小作農ではなく自作農として渡伯していました。で、話を戻すと上塚瓢骨は最初の移民とともに移民会社のお世話役として渡伯した人で、「ブラジル移民の父」と呼ばれるようなブラジル移民の中で認知度もありました。そういう功労者なんですけど、上塚が念腹の弟子になるんですよね。上塚のコネクションというか紹介によって念腹は選者になるんですけど、私結構33年は大事な年だなあと思っています。なぜかっていうと、虚子に師事していた、誰かに師事していた弟子である自分じゃなくて、選者としての選ぶ自分であったり弟子がいる自分っていうような形で、念腹が先生になった年とも言えるんじゃないのかなと思っています。35年に農耕ではなく牧畜に転向したことで生活が安定したようです(後記注:『念腹句集』跋文によると、ここでの「牧畜」に豚は入らず牛のことだったよう。)。
で、年譜の中でも一番大事かなと思うのが37年なんですけど、先輩であり後輩でもある圭石とのここで対立というのがあるんですけど、圭石が「南十字星」という雑誌を作ろうとしたときは、ブラジル移民の中に「アララギ」からの歌人(※岩波菊治)がいたりして、短歌もするし「ホトトギス」だけじゃなくてもいいし、俳句や詩を書きたい人は皆ここに投句していいことにしようって言ったんですけど、 師系のない師匠のいない雑誌に違和感というか反発があって、てか反発があって創刊の時のメンバーだったんですけど、創刊前に抜けちゃうんですよね。そのまま圭石は翌年死去してしまうんですけど、なんというかブラジル俳壇って一枚岩ではなかったのかなっていう、お互いにブラジルに俳句を広めたいっていう気持ちはあったんですけど、その師匠がいるいない、何を是とするかというところでちょっとずれが生じてたんだなっていうのがここでわかるかなと思います。
41年からは戦争色っていうものが濃くなってきて、外国語新聞が発行できなかったり公共の場での日本語の使用が禁止されたりということで、俳句を広めるだとか句会をするっていうことがどんどん難しくなっていきます。ちょっと勝ち組負け組については後で外山さんからお話いただこうと思います。この日本語での新聞が許可されていなかったということもあって、ラジオで終戦を知ったんですけどその時に日本が負けたっていうのが上手く電波が入ってなかったのか、日本は勝ったというデマが流れます、で、勝利を信じている人を勝ち組、負けたと思ってる人が負け組っていうことで日本人移民の中に対立が生まれてしまいます。念腹は負け組に分類されたようなんですが、弟子の中には勝ち組の人もいて、その人はしばらく疎遠になったりもしていました。日本の勝ちを信じないっていうことで負け組は非国民扱いされる。でもだんだんと情報が入ってくると勝ち組の方が間違えているとわかってくる。勝ち組が負け組の人を殺した事件もありました。これは傾向としか言えないんですけど、負け組の人は情報を得られていた人で、 情勢を理解出来ていた人というか、割と教養のなる移民たちのまとめ役のような人、あるいは新聞記者だったいうような傾向はあったかと思います。あくまでも負け組は少数派です。私が念腹自身の書いた『念腹俳話』を手に入れられてないこともあるんですけど、念腹自身があんまり戦中のことを書いてなかったりもして、念腹にとっての勝ち組負け組がどうだったのかっていうのは想像でしか私は言えません。ですけど念腹にとっては戦後の民主化によりもう一度俳句の行脚ができるっていうことの方が大きかったのかなという風に想像しています。
48年に俳誌「木蔭」を創刊して、題字は確か虚子が書いています。『ブラジル俳句集』を刊行したりして、この年に各地に40回の俳句指導の行脚をしたりしています。ちょっと地図をね作ったんですけど、(グーグルマップを見せながら)点の数が40ないのは、念腹がカタカナで訪問地を書き残しているのを見ても、私がそれをブラジルの地名の綴りに頭の中で変換できなくって…。わかった地名を点で打ったという感じです。かなり手広く行脚していたことは見えるかなと思います。で53年に今回皆さんに選句していただいた『念腹句集』っていうのが刊行されて、この年に星野立子も来伯していたり。戦後になってから今までは手紙や句のやりとりだったのが、人の移動っていうのもできてきたんだなあと思いました。
61年にはとうとう念腹が虚子三回忌に訪日することになります。訪日中に『念腹句集第二』も刊行されます。で、63年には髙野素十も来伯します。素十について全然話していなかったんですけど、みづほと東京時代から友人だったことから、念腹とも深い交流がありました。念腹にとっての師匠はみづほと素十と虚子という感じでした。
ちょっと私も資料を読んでいても意味がわからなかったんですけど、64年に念腹は日本の俳人協会創立創設に異議を唱えていました。何でこれを年譜に入れたかというと、私は現代俳句協会青年部の勉強会にお世話になることが多くて、ここら辺の歴史も知らなきゃなという自戒を込めて入れたところがあります。ちなみに私は特に結社とか入っていないので念腹からしたら師系のない人間にはなりますね…。
68年に俳句仲間・門下の寄附により念腹庵が改築されたりしていますね。73年は日本最後の移民船が出航されて、以降の移動は飛行機になります。そもそもここら辺で日本の高度経済成長期と重なっていて、送り出す要因の一つである働き口のなさそのものも減っています。なので1908年に始まって、戦時中に途絶えて戦後再開されるんですけどそれと同時に日本に高度経済成長期が訪れるので移民の数も減っていくというのがざっくりとしたグラフになるのかなと理解しています。
78年7月に念腹が発病して、『移民七十年俳句集』刊行されます。ここらへんは実はちょっと繋がりがあって、念腹が発病する、高齢を迎えるということは移民全体の、その移民1世の日本語ネイティブの人たちも同時に高齢化を迎えてくるっていう中で、ちょっとお金の話になるんですけど「木蔭」の運営っていうのもどんどんメンバーが減っていくというところで困難を迎えていくわけですね。 ブラジルは結構物価の変動が激しく、紙幣も何度も変わったりしています。この時にかなりインフレが起きていて、年会費もすごく高騰してしまって、そもそもメンバーは高齢とか持病とかで亡くなっていくなかで、ブラジルも物価が上がってしまって。内憂外患というか。念腹はブラジルに俳諧王国は築けたんですけど、それと同時に終わりも見えてきてしまっているというところかなと思いました。
「木蔭」は念腹の引退とともに休刊して、79年には末の弟、念腹と15歳が離れてるんですけど。牛童子が「朝蔭」として引き継ぎます。79年に念腹は死去します。84年に妻のキヨが『念腹俳話』を刊行します。これすごく読みたいんですけど、日本の古本屋で永遠にリクエストを出して待っているという状況です。2011年には牛童子も死去して、17年には牛童子の後妻の佐藤寿和が『朝蔭』を継承というところです。すごく駆け足で話したんですが大体こんなところで念腹の一生をざっくり話終えたかなと思います。
ここで外山さんにバトンタッチする予定だったんですけど、私がリオに短期留学した時に、ICBJでポルトガル語の動画を見せてもらって、この動画どう?って言われたんですけどさっぱりわからなかった動画があって。それを今ならちょっとわかったりして、文字起こしも出来たりしたので皆さんと見ようと思います。虚子の弟子である念腹の弟子である増田恒河という人のドキュメンタリー動画です。 ブラジルの俳諧についても話しています。せっかくなのでそれを見ようと思います。恒河の孫のフランシスコ・マスダのユーチューブチャンネルに載っていました。同時通訳めいたものをします。
≫Masuda Goga - Um discípulo de Bashô
https://youtu.be/qdj_mIEm09k
[A nossa vida, inclusive todos esses acontecimentos naturais, nunca fica no mesmo lugar, ao mesmo tempo, sempre tá mudando. Essa mudança é o espírito do haicai.]
私たちの生活・人生は、自然に起きる全てのことを含め、同じ場所に留まることは決してなく、同時に常に変化しているのです。この変化が俳諧の魂です。
中矢温◆恒河の書いている短冊に「動くとも動か」くらいまでは読めますね。続きが気になるところです。画面に「増田恒河 芭蕉の弟子」と表示されました。haicaistaたちが句会をしていますね。
[Hoje escolhi oito haicais, todos bons. Número 17:
Vento na folhagem
responde ao cantar do inseto
um galo estridente]
今日は8句選びました。全てよかったです。17番
葉に風や虫に答へて鳴ける鶏(※おそらく恒河の句。中矢が無理やり五七五にした)
[Esta cena é muito interessante e haicaístico.
この場面はとても興味深く、俳諧的ですね。
Porque um cantar do inseto esse delgado muito quietinho, mas contra este o galo gritou estridentemente.]
何故なら虫の歌がか細く、とても静かなのに対して、雄鶏はけたたましく鳴いている訳ですから。
[À noite...sozinho...
me deixam mais pensativo
os cantos de insetos]
夜…孤独…
私はさらに考えるのを止める
虫たちの歌
→夜の孤独思考を止めて虫の声
[Haiku é o poema mais curto do mundo com 17 sílabas que canta a natureza. Por isso, pra mim, o haiku é universal.]
俳句は17音と世界で1番短い詩で、自然を詠うものです。なので私にとっては俳句は世界的なものです。
[Número 8:
O outono chegou
mais distantes e azuladas
as mesmas montanhas]
8番
秋が来た
さらに遠く青い
同じ山々
→秋の来てより遠く青き同じ山
(後日注:少なくともこの句は後に登場するパウロ・フランケッチ氏の句のようです。恒河訳は、「秋来る山なほ遠く青く見え」でした。)
中矢温◆改行のタイミングでポーズをおいて詠んでいるのが興味深いですね。
[Este autor está observando bem todo dia as montanhas em ao redor da sua vida. E qualquer um não descobre esse fenômeno.]
この作者は生活の周りにある山々を毎日よく観察しています。どんな作者(俳人)でもこんな現象を発見はしないでしょう。
[Flores silvestres
pequeninas e sem brilho
à espera de abelhas...]
野生の花
小さくて輝きがない
蜜蜂を待っている
→野の花小さし輝きもなく蜂を待つ
[Observa bem a transitoriedade de natureza. Só, nada mais que isso aí. Quem não sente nada, não há haicai.]
自然の儚いものをよく見ること。それ以上のことはなく、それだけです。全くなにも感じない人に、俳諧はありません。
[Libélula voando
pára um instante e lança
sua sombra no chão]
飛んでいる蜻蛉
一瞬で向かう
地面の自分の陰に向かって
→一瞬に蜻蛉の己が影に飛ぶ
[Eu nasci no dia 8 de agosto de 1911, meu lugar do nascimento é o Zentsuji na província de Kagawa.
私は1911年の8月8日に生れました。私は1911年の8月8日に生れました。出生地は香川県の善通寺というところです。
quando era criança, idade de 12 anos Eu já tinha o sonho de para vir para o Brasil,
12歳の子どもの頃私は既にブラジルに行くという夢がありました。
agora esse sonho foi completada quando eu tinha a idade de 18 anos.
今ではその夢は叶えられました、私が18歳のときです。
Assim para mim o Brasil não é um o país estranho, desde criança eu estudava bastante sobre o Brasil.]
なので私にとってブラジルは外国ではありません。子どものときからブラジルについて十分に勉強してきたのです。
[A serra lá longe
dá ares de minha pátria:
névoa transparente]
はるか遠くの山は
私の祖国のように見える
透明な霧
→遠き山祖国のごとし霧透けて
中矢温◆「:」を使うのは日本語の俳句と違って面白いですね。これが切れを示しているのではと睨んでいます。
[O Porto de Santos era um lugar bem sossegado, eu gostei muito. Tranqulidade e hospitalide. Os funcionários da alfândega também eram muito bonzinhos pra mim.]
(入植した)サントス港はとても静かな場所だった。私は大変気に入った。落ち着いていて、親切だった。税関の職員たちも私にとってはとてもよい人たちだった。
[As nuvens douradas
Flutuam no pantanal
- florada de ipê]
続く雲が
大きな沼地に浮かぶ
イッペイの花
[Eu comecei a escrever haiku em japonês em 1929.
私は1929年に日本語で俳句を書き始めました。
Na viagem para o Brasil tem alguns registrados no meu diário.
ブラジルへの旅の中でいくつか日記に記録する。
Em 1935 encontrei com o mestre Nempuku Sato.
1935年に佐藤念腹先生にお会いしました。
Eu comecei a escrever o haiku tradicional.
伝統的な俳句を書き始めました。
Jorge Fonseca Júnior já fazia haicai em português, importado pelo Afrânio Peixoto.]
ジョルジェ・フォンセッカ・ジュニオルはポルトガル語での俳諧を始めました、アフラニオ・ペイショットにより持ち込まれたものです。
中矢温◆次に話すのはカンピナス大学の文学評論科のPaulo Franchetti (パウロ・フランケッチ)教授です。
[É preciso ver que o haicai entrou no Brasil de duas formas diferentes.
俳諧が異なる2つの形でブラジルに入ったことを見るのが必要です。
Uma forma foi a forma de importação de um objeto exótico no fim do século passado e começo desse.
一つの形は前世紀の末(19世紀末)に外のことの輸入の形で、始まりました。
Em toda a Europa aumentou muito o interesse pela "Japonaiserie", pelas coisas ligadas ao Japão,
ヨーロッパ中で「ジャポネズリ」、日本に関するものへの強い関心が高まっていた。
e pela "Chinoiserie", as coisas ligadas à China, também.
中国に関するものへの強い関心「シノワズリ」
E o haicai veio assim para a França e da França para o Brasil como uma forma importada de uma poesia minúscula, delicada, uma coisa exótica.
そして俳諧がフランスに来ました。フランスからブラジルへ小さな(些細な)、丁寧な(繊細な・洗練された)、外国の詩が輸入されました。
Mas no Brasil há uma coisa que é um pouco diferente.
しかしブラジルでは少し違うものがあります。
É que nós tivemos também na mesma época uma a enorme imigração de japoneses e esses japoneses trouxeram para cá uma prática cultural que incluía a produção de poesia entre elas o renga, o tanka que é um poema amoroso, e o haicai.
私たちは同様に同じ時代に膨大な数の日本人移民を得ました。そして彼ら日本人は文化的習慣、連歌や愛の詩である短歌、そして俳諧を持ち込みました。
Mas esses dois lados da produção do haicai no Brasil, o lado digamos assim ocidentalizado, exótico e o lado oriental e digamos assim, mais próprio mais legítimo da cultura ficaram separados.]
しかしブラジルの俳諧のこれら二つの側面、西洋とエキゾチックな東洋的と言ってみましょう、これら文化のより適切で正当な二つの側面が分離されてしまった。
[Em 1936 quando eu conheci o Jorge Fonseca Júnior, já aqui no Brasil tinha o haicai, já bem divulgado, mas diferença grande é o sem o kigo. O kigo é o termo da estação do ano, esse é o espírito do haicai.]
1936年に私がジョルジェ・フォンセッカ・ジュニオルに会ったとき。既にブラジルに俳諧はあり、既に普及された。しかし大きな違いは季語のないことだ。季語は1年の季語のテーマで、俳諧の魂です。
(中略)
[O nosso haikai
tem sabor maravilhoso
qual caqui bem doce!]
私たちの俳諧
素晴らしい味がする
どの柿もとても甘い!
中矢温◆柿も日本から持ち込まれたもので、caquiは発音もそのままカキです。
[Primeiro: amar a natureza. Segundo: observar bem a natureza. Terceiro: não colocar o sentimento barato de cada pessoa. Agora, quarto: escrever o haiku com as palavras fáceis e simples. O haicai é o poema não artificial, por isso depende da sensibilidade do haicaísta. Nasce o haicai, não fazer o haicai, nasce o haicai.]
最初は自然を愛する。次に自然をよく観察する。3つ目に一人一人の安っぽい感受性に重きを置かないこと。4つ目にシンプルで簡単な語彙で俳句を書くこと。俳諧は人工的な詩ではなく、俳人の感覚による。俳諧は生まれる、俳諧を作るのではなく、俳諧は生まれる。
中矢温◆日本で売られている句作の入門書と通ずるものありますよね。
(中略)
[Em cima do túmulo,
cai uma folha após outra.
Lágrimas também...]
墓の下
他の葉の後に葉が落ちる(葉が続いて落ちる)
涙も同様に
中矢温◆登場した中で1番美しいなと個人的に思った句です。
[Eu gosto do haicai. Namoro o haicai. Fazendo todo momento fazendo o haicai. Bons, maus, isso não tem importância. Minha vida é o haicaística. Como mostrei, eu sempre tá carregando um papel com lápis. Todo momento quando é o tenho transitoriedade, fixa aqui agora um verso com kigo.]
私は俳諧が好きです。俳諧を愛しています。全ての瞬間、俳諧を作っています。よい、悪い、それは重要なことではありません。私の人生は俳諧的でした。さっき見てもらったように、私は常に紙に鉛筆を走り取ります。一過性の全ての瞬間は季語と共に韻を見つめます。
(中略)
[A natureza muda sempre, igualmente, a minha vida também muda a todo o momento. Então como o haicaísta fixa aqui e agora, estou vivendo aqui e agora.]
自然はいつも平等に変わり、私の人生も全ての瞬間変化しています。そして俳人が今ここに見つめるように、私は今ここに生きています。
[O ano fenecendo...
preocupação nenhuma:
só penso em haiku !]
年の暮
何の懸念もない
ただ俳句のことを考えている
中矢温◆「…」、「:」、「!」とか使うのは日本の俳句との表記の違いとしても楽しいですね。
[Amigos me tratam de mestre, mas eu não tenho capacidade para ser o mestre. Apenasmente sou discípulo fiel de Bashô.]
友人たちは先生として私を気にかけてくれたが、私は師匠でいるだけの能力はありませんでした。私は芭蕉の忠実な弟子でしかありません。
[Muito obrigado]
ありがとうございました。
中矢温◆念腹ののちは日本人移民自体も減っているし、移民2世にとってきっと日本語っていうのは俳句としてやるものではなくなってしまっていたんですけど、このようにポルトガル語での俳句とつながり、haicaiとなることによって系譜として今にいたるのかなっていうのが私のざっくりとした理解でした。長くなってすみません…!
佐藤念腹
1 comments:
とても興味深く拝読しました。私は、ブラジルのハイクについて研究しています。若い方がブラジル国際ハイクに興味を持ってくださりとてもうれしいです。
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