【空へゆく階段】№37
「ゆう」の言葉
田中裕明
「ゆう」2000年3月号
桜の木ひかりそめたり十二月 喜代子
「ゆう」の創刊にあたって、詩情を大切にしたいということを書きました。この句などは上質のポエジーが感じられます。あらためて、俳句における詩情とは何かを考えました。雰囲気や感情に流れるのではなく、季語がひろげる世界を具体的に描き出すこと。
「言の葉の多く遺りぬ龍の玉」は椹木啓子さんを悼む作品です。故人の面影がいきいきと浮かんで心にしみます。
書信さはやか切干に影生まる 昭男
この作者は季語から俳句に入ってゆく。一つの句会で同じ季語の作品を何句も出されます。句会で出句する八句なら八句という句がすべて同じ季語ということもあります。しかも一つの季語をいろいろな角度から詠んで、かならず発見があります。季語から入ってゆくことは、俳句のはじめであり、また至りつくところでしょう。
枯萩の吹かるる音のほかはせず 明澄
俳句は視覚の詩という側面があります。具体的にモノを描き出すことが俳句の強みです。「物の見えたるひかり」とはそういうこと。その一方で聴覚は俳句に深みを与えます。耳をはたらかせると一句が味わいぶかくなる。「踏みゆくは枯萩の影ばかりなる」こちらは、眼のよく効いた作品です。
菊を焚く用意もありぬへんろみち 秀子
四国以外の住人にとっては、遍路とは歳時記の知識の中のものですが、四国の方にはもっと日々の暮しの中に近しい何物かでしょう。菊を焚くという、さりげない日常と遍路道が交錯するところに面白みが生まれました。
「衣笠山眠り双ヶ丘眠る」は、やはり椹木啓子さんにたいする追悼句。二冊の句集名がすなわち一景をなすところに啓子さんの暮しがしのばれ、また作者の共感も伝わります。
貸餅や越中ことば行き交うて 紀子
さて、富山の訛というと具体的には思い浮かばないけれども、こう言われると越中ことば以外ではいけないというのが俳句の妙味です。貸餅という季語も、なつかしくかつユーモラスなかんじがします。
酔ふほどに大人も踏める霜柱 愛
地球の温暖化ではありませんが、最近は霜柱を見ることが少なくなりました。都会ではそもそも土を見ることがない。残念なことです。霜柱も子供の頃の思い出のものになってゆくのでしょうか。この作品も子供の目で見た大人のすがたであるようです。あるいは大人の中にある子供ごころ。
笹鳴や僧に上ぐ経覚束な 和代
昨年末に牧野春駒さん椹木啓子さんをあいついでうしないました。私たちにとってたいへん悲しいことですが、ご家族の方の無念さはいかばかりかと思います。この句、覚束なに悲しみがあらたなことが伺われます。
象とても横顔たのし冬の空 栄子
動物の顔が楽しくも見え、悲しくも見える。それは見る人間の側の気持の反映でしょう。象の絵はいつも横顔のように思われます。そこにユーモアが生れます。冬の空という大きな季語が全体を包みこんでいるのも手柄です。
枯野から身をはがしたる男かな 龍吉
枯野に伏していた男が体を起こした姿を、「身をはがしたる」と大仰にとらえました。もちろん男は作者自身。身をはがしたと認識することによって、それまでの枯野との一体感がよくわかります。認識イコール表現であることも俳句という詩の特徴です。
大原や短日ことに人の情 青蛙
大原や、と歴史のある地名からおおぶりに詠いだすところがこの作者の持味です。はや日も暮れかかってきたことを言うだけですが俳句はそれでじゅうぶん。
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