【空へゆく階段】№40
「ゆう」の言葉
田中裕明
田中裕明
「ゆう」2000年7月号
吹き降りの山吹あれば華やかに 尚毅
山吹の花は親しい。「山吹の黄を挟みゐる障子かな 爽波」をあげるまでもなく、日常になじみぶかいものです。ハレとケで言えば、まぎれもなくケ。それが嵐のような雨風のなかでハレの花になったという面白さ。「あれば」が絶妙です。
茶どころにして翅厚き蛾と生れ 敦子
チャドクガでしょうか。大きな蛾と言わずに翅厚き蛾と表現することで、眼前の昆虫を超えて自らの内面を見詰めています。いったいに敦子さんの句の小動物は作者の自画像のように読めます。ならば「茶どころ」もふさわしく。
病人のための新樹の木椅子とも 麻
病院か個人の庭か。木もれ日を浴びて木の椅子が置かれています。その椅子もいまは無人だが、作者はある病人のために用意された椅子であることを知っているのです。新樹という江戸時代からある季語が新鮮に用いられています。
こでまりの花より赤子抱いてくる やよい
こでまりという音がやさしい。白い花が群れ咲いている。そのあたりから抱いてこられた赤ん坊はきっと眠っているのでしょう。花のあたりからと言わずに、花よりととらえたところがこの句の眼目。だから二度とは使えませんぞ。
花疲れひろき畳に坐りけり 喜代子
花を見て帰ってきて、我家の広い部屋のつくづく広く感じられることよ。「墓参より戻りてそれぞれの部屋に 爽波」を思い出しました。この句の場合も広い畳の上にひとりいる、その孤りのやすけさが読み手に伝わってきます。
花ごろも月の衣となりにけり 青鳥花
花を見にゆくのに特別な服を着ていった人が、帰り時分には日も暮れて月の光を浴びています。それを花衣が月衣になったと把握することで、世界が変貌するところが面白い。人物を描写しないので一句に硬質の美しさが生まれました。
その音の穀雨と知れば頼もしき 雅代
穀雨は二十四気の一。清明の後十五日、四月二十日ごろに当たります。雨百穀を生ずるという意味を持つ言葉です。俳句をはじめて、それまで知らなかった言葉に出会ったときの、新鮮な驚きと喜びにあふれています。耳でとらえたところが頼もしい。あえて言えばその驚きをいつまでも持ちたいものです。
燈臺の朧のさきの別の國 刀根夫
岬には燈台があるばかり。かすむ海原のはるか彼方はさだかには見えません。そこにもこことは違う別の国がきっとあります。そういう少年のあこがれにも似た思いをそっとつぶやいてみることができるのも俳句の功徳のひとつであるように思います。
竹落葉水の冷たくにごるなり 紀子
竹落葉の降るころの水は冷たく、かつ濁っている。一句にするとそれが真理であるかのようです。しかしそれは作者の発見した事実なのです。しきりに降る竹落葉が作者の思いをはげましています。
鴨引きて草抜く人のしづかなる 秀子
空をゆく鳥と地上の人の関係、あるいは無関係は、俳句ではよく詠まれてきました。そういう意味ではこの句もいつか来た道なのですが、下五のしづかなに注目しました。類型を脱することは難しい。そしてその違いはいつも紙一重なのです。
類型をおそれよ。そして恐れすぎることのないように。
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