〔岡田一実『光聴』特集〕
あぢは不明ぞ、ゆめ溺るな
大塚凱
岡田の作品における文体は、語による情報量が多さをどのように五七五の韻律に畳み込むかという要請から規定されているような風情がある。特に前句集『記憶における沼とその他の在処』においてはその傾向が顕著であった。巻頭の〈火蛾は火に裸婦は素描に影となる〉や〈枝を移る鳥も一樹の柳かな〉など、音数の少ない名詞や格助詞・副助詞の多用、その他リフレインの活用に見られるそれは、ジャブのような言葉数の多さをかつての前衛俳句的な名詞優位の字余りではない方法でどのように俳句型式に落とし込むかという論点での、工学的なソリューションと見做してよいと思う。他方で、それはおかずで充たされた弁当箱さながら、「軋み」をもたらす。その「軋み」を声高に指摘したひとつの例が、堀下翔「文彩は快楽ぞ、ゆめ溺るな」(週刊俳句第599号・2018年10月14日)であっただろう。
柚子は黄に雨の向うは日の指して
仮初に涼しと詠みて徐々に情
どう枯るるか見たく向日葵枯るるを瓶
『光聴』から3句を抽く。確かに前句集のような「畳み込む」文体の残滓を感じる。しかし、堀下が前句集の評論時点で「文彩は快楽だと述べたが、その文彩が成功したとき、快楽は読者にまで及ぶ。その精度を高めることが岡田の進む道なのではないか」と期待していた方向とは、些か異なる方向に転がったような趣がある。
堀下の議論が象徴しているように、第三句集時点の岡田の作品は多くの読者にテクスト面での(堀下にとって過剰に感じられるほどの)フェティシズム的傾向を旨として読まれていただろう。言葉に呼び込まれ連なってしまった言葉をどのように折り畳むかという、時には強引にも見えるその手捌きをひとつの手法として提示した句集であったと思う。評でも取り沙汰された〈淑気満つ球と接する一点に〉という句おいても、問題は「淑気」という言葉が「満つ」という言葉を直線的に呼び込んでしまったことに端を発しているように見受けられたが、岡田の文体は、モノとそれに伴うイメージの塗り重ねをテクスト上でどのように構成するかという関心を核にしていたと顧みる。しかしながら、『光聴』においてはテクスト優位なその構成を前景化するというよりは、文体上の傾向をなすに留め、やや説明過多とも捉えられかねない危険を冒しながらも主情をベースに書き進めはじめたのではないか。例えば、前掲の〈仮初に涼しと詠みて徐々に晴〉〈どう枯るるか見たく向日葵枯るるを瓶〉がそれだ。「枯るるを瓶」などに「畳み込み」の癖を帯びつつもあくまでその快楽は主眼ではない。むしろ「どう枯るるか見たく」というような直截な切り込み方こそが、特に句集後半に現れてくる。このあたりは、明らかに岡田の作風の転換と見てとって差し支えないだろう。句集中でも隣接する2句、〈熊蜂の花摑み花揺らし吸ふ〉と対照すれば、〈タレ甘すぎて白魚のあぢ不明〉のぬーっとした異様さが感じられるはずだ。そのような試みの延長線上にあって、岡田の主情的な無防備さがナンセンスの方向に転じた好例が〈書を写す胡瓜のあぢを口中に〉であると評したい。それが「岡田の進む道」だったのかと思い至ると、本句集の「あぢはひ」もまた一層深まってくるだろう。
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